主による召しが始まると、主が喜ばれる生き方を求めるようになる。それは一言でいうと犠牲の愛。この生贄としての犠牲の愛は、本質的な意味では、個人や他者や社会という枠組みを超え、自らの血を生贄として、主に捧げることで、主と自分との間に成立する愛。イエスによってもたらされた新しい戒律は、互いに愛し合うこと。主の愛とは、自分に背く者をも、命懸けで、愛する愛だ。
これは、主が愛される生き方を求める結果、自ら進んで、捧げるものであって、イエスが十字架にかける敵をも進んで愛されたように、相手や社会などに見返りを求める要素は微塵もない。
「「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」
ルカによる福音書 23:33-34 新共同訳
https://www.bible.com/1819/luk.23.33-34.新共同訳
汝の敵を愛する生き方とは、現代において、まずもって、その相手からは疎まれたり、距離を置かれたりするものだ。また時に、陰口をたたかれたり、さけずまりたりもする。普通はこうした傷つくリスクを背負ってまで、愛に生きることは難しいし、特に和を以て貴しとなす事なかれ主義の日本においては、より難しいことだろう。だいたいはそっと人間関係の距離を置く程度で人と付き合うだろう。特に個人主義的な傾向が強くなり、人間関係が疎遠になり、親密な人間関係におけるリスクを避ける今の時代においてはなお、そうだといえよう。それでもなお、主の愛とは、主体的に、忍耐強く相手を愛する生き方になる。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。」
コリントの信徒への手紙一 13:4-9 新共同訳
https://www.bible.com/1819/1co.13.4-9.新共同訳
「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
マタイによる福音書 16:24-28 新共同訳
https://www.bible.com/1819/mat.16.24-28.新共同訳
今日も、悔い改め、主に感謝します。イエスキリストの御名において、アーメン。