学生時代にエーリッヒフロムの「愛するということ」という書籍を読んでから、「自分を愛すること」ということは無条件で正しいことと思い、ある意味自分の座右の銘のようにしてきたのだが、よくよく振り返ってみたらこの概念の背景となる理論を研究し、提唱した心理学者って、特に愛に関する精神分析学の領域で言うと、エーリッヒフロム、エリックバーン、アドラー(後にプロテスタントに改宗/人間が潜在的に持っている目的を「神になること」とした部分は、聖書的な価値観ではないので、文字通りのキリスト教的世界観とはいえない)は皆、ユダヤ人であることにふと気づいた。そして、精神分析学の父フロイトはもちろんのことながら、人間性心理学(自己実現理論)アブラハムマズローも、ユダヤ人。ユングは父親が牧師というキリスト教の家庭で育ったが、ユング自身は、異端的なグノーシス主義へとのめりこんでいき独自の世界観を築いた。これも伝統的なクリスチャンの世界観とは、異なるむしろ異教的なものなので、字義通りのクリスチャンとはいえないと思う。
ユダヤ人であるということは、よくよく考えたら「イエスを救い主として受け入れていない」つまりその思想的な背景の中で、パウロがロマ書の中で論じたような「信仰のみによる救い」という教理は存在しないということなんだよな。つまり、今の心理学の前提にある、「自分を愛すること」という概念自体は、キリスト教的な「信仰のみによる救い」ではなく、あくまでユダヤ的な「技による救い」の文脈の中にあるといえる。
ユダヤ教的なありのままの自分を受け入れることとは、あくまで自助努力(自己義認/行為義認)によるものであって、キリスト教におけるイエスキリストを自分の救い主として信じ、受け入れることで、恵みとして一方的に与えられる赦しの愛(信仰義認)とは異なっている。
つまり、むしろフロイトのスタートから、心理学の成り立ち自体は、非キリスト教的なものから立ち上がっていて、心理学の、救いの教理自体が、キリスト教とは異なる「技による救い」「自力救済」にあるということなんだな。地味に、これは結構衝撃なことだ。そもそもフロイトは無神論者だからね。
イエスが言った「汝の敵を愛せよ」「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」という考え方は、新約聖書において加えられた新しい律法のようなもの。つまり、これは旧約聖書にはなかった「信仰のみによる救い」という考え方をベースにしているからこそ、そもそもこうした「犠牲の愛」「敵を愛すること」は、イエスによってもたらされたという意味で、自助努力的な「自分を愛すること」を超えたところにある。
つまり「汝の敵を愛せよ」という他者に示す犠牲的で、無条件の愛は、心理学的な意味での「自分を愛する」という心理構造だと、永遠に到達しないということなんだわ。ゆえにキリスト教では「犠牲の愛」ということを強調するわけだ。
ある意味キリスト教における「犠牲の愛」「無償の愛」とは、イエスによって福音がもたらされる以前の「自分を愛すること」という「技による救い」が持つ限界を突破することにあって、今心理学で当たり前に言われている「自分を愛すること」を超えたところに存在するわけで、心理学的に「自分を愛すること」というフレームだけで、人生の万象をすべてを解決しようとすること自体がそもそも構造として無理があるということなんだな。
そもそも成り立ちから「技による救い」をベースとした心理学的の理論では、キリスト教的な「汝の敵を愛せよ」とは、決していえないということになる。つまり、「汝の敵を愛せよ」というのは、決して、心理学的な愛ではなく、キリスト教特有の、主を称える、宗教的な愛なんだわ。
心理学でもそうだということは、つまり心理占星術の限界も同様のところにあるということなんだな。心理占星術でいかに自分を知って、自分を愛そうと思っても、実はその背景にある救いの教理が、「技による救い」に縛られている以上、「信仰のみによる救い」をベースとした福音は、常にそこを超えたところにあるということになる。心理学や、占星術をベースとしてきた、自分自身の活動をメタ化する意味でも、これはかなり衝撃的なことだ。
つまり無条件で信じてきた「自己実現」というストーリー自体も、よく考えたら「技による救い」をベースにしたユダヤ的な価値観で、非福音的な価値観だったということか。これにとって代わる価値観こそが、「主の栄光を讃えること」になるわけか。。。つまり、イエスがもたらしたキリスト教的な価値観は、そもそものベースが自己を超越すること、福音を通じた信仰のみによる救いによって、キリストと一体になることにあるということなんだよな。。
そもそもキリスト教や心理学も海外から入ってきた日本にいると気づかないが、意外とこういう前提は、キリスト教文化圏や、司祭/牧師の間の中では当たり前のことなのかもしれないね。。。。
と思って調べてみたら、やはりそうだった。自己実現という概念自体は、非キリスト教的なものなんだな。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/24761/20171111/kokoro-no-kenkou-56.htm
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20090618/1245326021
http://japanesebiblewoman.hatenadiary.com/entry/2017/02/23/233956
これはつまり自己実現に付随して語られることの多い、成功という概念についても、そもそもそのベースから改めて検討する必要があるということだな。。そもそも個人の成功自体は、聖書的な目的にはならないということ。キリスト教における人生の目的は、主の栄光を賛美することにある。