ニューエイジの「自分を愛する」という言葉が、どのように日本に異文化誤解され、間違って浸透してしまったか、そしてそれがどのように日本の霊性に深刻な悪影響をもたらしているかは、昨年12月に論証しているので、見ていただくと納得していただけると思う。
宗教的な愛
2つの犠牲の違い
日本における犠牲の愛は、村八分的にならないために自分の意見や主張を抑圧する愛。心理学はこれを抑圧と呼んで、解放するように導く。しかし、キリスト教における犠牲の愛は、イエスが示した「汝の敵を愛せよ」という、自らを生贄としてささげ、自らを犠牲にし、自分と相手の愚かな罪を赦されるように祈り求める、宗教的な愛。つまりキリスト教において自己犠牲には、主の賛美という明確な目的があって、このベースがないと、日本では自己犠牲という文脈を完全に誤読してしまう。
日本的な村八分的な意識を脱出して、個人主義を生きようという形で、日本のニューエイジムーブメントは、主に「自己愛」というキー概念を中心に用いてきたが、そもそもベースとなる自己犠牲や、愛の定義が、オリジナルのニューソート的な考え方のベースにあるクリスチャンサイエンスと全く違うよという話。