多神教の日本人にとっては、「イエスキリスト《も》人を救ってくださる」ということは何の疑問も持たずに受け入れることができる。しかしそれ故に「イエスキリスト《しか》人を救えない」という聖書が伝える真の救いに行き着かない。ちゃんと聖書を読まないと、この信仰義認という救済論の本質は理解できない。
日本の歴史は、多神教国家故に、技による救いから信仰のみによる救いというフレームに移行するまで400年以上かかっても現時点ではほとんど変わっていない。
ゆえに国民性はすべからく努力家で、勤勉だとも言える。しかしその一方で、どこまで物的に豊かになっても精神的な幸福感が低いままである理由も、救いが技によるものであって、信仰義認という背景がないために、人生が仏道修行のようなものになってしまっているということがある。
またそれと同時に、仏道修行のように生きても、その結果生涯で仏の悟りにいたるということもないのも日本人にとっての常識的な感覚。悟るなんて、まだまだです、という感覚が永遠に続くのが技による救いの文化的背景。つまり技による救いの本質はまさにこの救いの未達性にこそある。ゆえにもし悟ったということを公言でもすれば、またこれはこれで人を奢らせる理由となってしまうという問題点を常にはらむ。