日本の場合、1612年に江戸幕府によって敷かれた檀家制度というのは、キリスト教的思想が広がらないための鉄壁の守りになっている。基本、「うちの宗教は真言宗なので…」「うちは浄土真宗でして…」という形で、特段その宗派に対する専門的な知識や、自発的な信仰心がなくとも、ひとまず外側の信仰を受け入れる必要が一切なくなる。また檀家制度は冠婚葬祭に深くつながっていて、日本の家制度ゆえに、これはファイアーウォールとして日本に異教的なものを一切入れないために非常に有効に機能してきた。その意味で、日本において地域教会主義をとりながら伝道活動をすることは、普通に考えて不可能に近い。ゆえにその時代から変わらず日本におけるクリスチャン人口は、ずっと1%で推移していっている。このあたりをすでに明治期に見抜いていた内村鑑三は、無教会主義という日本独自の信仰形態を考え出す。これはある種の日本的なキリスト教受容のベースとなる考え方で、本来地域教会は、諸外国においては福音を伝えるために、クリスチャンが集い、有効に機能する場所であったはずが、檀家制度において鉄壁の守りが敷かれている日本においては、むしろこの地域教会を中心とした伝道活動が弊害となって広がらないという側面があるのだと思う。これはおそらく所与のものとしてキリスト教が与えられている諸外国からは理解できないし、見えない構造だろう。むろん、日本の地域教会が悪いということでは全くなく、むしろそのシステム的制限のゆえに、福音が広がらないなかで宣教活動をするという苦労を、先人たちは十字架のように背負ってきたのではないかと思う。ゆえに、今の日本の地域教会は疲弊してしまっていて、高齢化が進んでしまっているし、後継者も少なく存続自体が危機的な状況にあるところも多いと聞く。
日本独特の十字架を背負いながらも、その福音の命脈を保ち続けてきた先人たちの苦労は、インターネット時代、情報化時代で、人が集い、福音について学び、主に祈るための場が、「地域教会としての建物」である必要が無くなった今、報われるべきなんじゃないかと思う。新しい時代の新しい宣教活動のベクトルが出てきてもおかしくない状況だといえるだろう。僕のような人たちはそうした新しいクリスチャン世代、コアジェネレーションになっていくのだと思う。
今の時代はインターネットやSNSを中心として、地域教会に所属しない日本的な無教会主義のクリスチャンが生まれていく土壌がしっかりとある。僕が現時点であえてどこかの地域教会に所属していないのも、決して地域教会の軽視ではない。むしろ、その強い信仰心、主を愛する気持ちゆえに、日本におけるクリスチャニティが広がることを念頭に置き、この檀家制度という鉄壁のブロックを意識した時に、日本における宣教活動は、無教会主義でないとなかなか難しいのではないかと思うがゆえ。もちろん僕としては、日本全国の地域教会をはじめとした、すべてのクリスチャンとつながり、主の栄光を讃える気持ちの中にあるし、日本においてイエスキリストへの信仰が広く受け入れられるべく、自らを主のために献身できたらこの上ない喜びである。檀家制度が敷かれ、それが常識となっている日本において、キリストへの信仰というのは、最初の入り口は、地域教会を介在させた外的な召命ではなかなか難しく、無教会主義に基づく、内的な召命、つまりイエスキリストとの直接的な関係の中でこそ広がっていくのだと思う。内村鑑三が、考え抜いた結果作り出した無教会主義は、日本の宣教活動において、非常に重要な思想的なOSになるのだと思う。
「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」」
マタイによる福音書 28:18-20 新共同訳