日本人の感覚で言うと、仏教の影響で、宗教=修行なんだけど、聖書は修行しなさいとは一切書いてない。というか、パリサイ人の厳格で、修行的な姿勢をイエスが痛烈に批判するように、むしろそうしたものは人間の傲慢さだと退けられている。
また、日本においては、キリストの十字架とは、仏教の修行のようなものととらえる大きな誤解もよくある。十字架での死が、仏教の滝行のエクストリームバージョンか何かだととらえられている場合も多い。ちゃうちゃう。イエスの十字架が示すのは、私の代わりに死んでくださって、人生の罪悪感から解放してくださるという恵みの愛であって、修行の手引きや象徴じゃない。
聖書が教えていることは、神様があなたをどんな時でも愛しておられるということ。簡単にいうと聖書とは、修行の本ではなく、ラブレターだということ。キリストの十字架での贖いも、修行ではなく、御返しのいらない愛のプレゼント。
ラブレターとプレゼントがポストに届いているのに、学校の宿題が届いたと勘違いして、400年も開いていない状態にあるという不思議な状態にある。
好きな相手のために、めちゃくちゃ修行しているのに、実はその相手からは、とうの昔にラブレターとプレゼントが届いているという不思議な状態にある。不器用にもほどがある。
江戸幕府によるキリスト教禁制も、いうなれば、受験期なのに、うちの子が、好きな人からラブレターとプレゼントが届いているなんか知ってしまったら、恋にうつつして、勉強しなくなる。親(この世の神・幕府)のいうことを聞かなくなるから、とんでもない、知らない間に取り上げてしまいましょうということが、400年前にあったということなんだよね。
そして、檀家制度を通じて、その人個人の信仰心とは一切関係なく、強制的にあなたはこの人に嫁ぐことになるのよ、将来に関して何も心配いらないと、地域のお寺といういいなずけをすべての人につけたということ。
旧約聖書の雅歌に歌われている通り、創造主と人との関係は、本来、エデンの園においては、相思相愛のラブロマンスのようなものだったからね。
「若者の歌
恋人よ、あなたをたとえよう/ファラオの車をひく馬に。 房飾りのゆれる頬も/玉飾りをかけた首も愛らしい。 あなたに作ってあげよう/銀を散らした金の飾りを。
おとめの歌
王様を宴の座にいざなうほど/わたしのナルドは香りました。 恋しい方はミルラの匂い袋/わたしの乳房のあいだで夜を過ごします。 恋しい方は香り高いコフェルの花房/エン・ゲディのぶどう畑に咲いています。
若者の歌
恋人よ、あなたは美しい。あなたは美しく、その目は鳩のよう。
おとめの歌
恋しい人、美しいのはあなた/わたしの喜び。わたしたちの寝床は緑の茂み。 レバノン杉が家の梁、糸杉が垂木。」
雅歌 1:9-17 新共同訳