聖書を読む時間は、祈りの時間と同じ。毎日少しずつ聖書を読んで、祈りをささげることは、瞑想の時間を持つことと同じである。これを、日々のディボーションという。
瞑想と祈りの違いは、自力によるものか、他力によるものかである。瞑想は自分が無になること、そして自分の思考や潜在意識のパターンを見つめること、それから解き放たれることだが、祈りは、必ず、父と子と聖霊の恵みがともにある。
瞑想の背景は、自力救済、技による救いの教理ゆえにどんな瞑想の方法もしっかりとしたものは必ず師について行う。例えば、禅の「無関門」の世界観も、厳しい師弟関係が前提にある。ヨガも必ずグルにつく。教理の背景が、技による救いである以上、必ず人が人を指導することになる。つまり、師につかずに、本来の正しい瞑想をすることは非常に難しい。
しかし、聖書のディボーションは、どんな人でも取り組める。また、直接主に仕え、人と人との間に差を作らず、御言葉を通じた祈りはただそれだけで、人を謙遜にさせていく。主の前で人は常に皆平等だからである。