そもそも日本でクリスチャンになったということは、クリスチャン人口が1%しかいない日本においては、つまるところ、ほとんどの友人や知人が自分にとっては異教徒になるということでもある。昨日まで同じ宗教を信じていたことすら意識することのなかった文化の中で、ある日を境にして、ほぼすべての周囲の人が自分にとっての異教徒になるわけだ。
キリスト教を信じるということはすべからく、一神教を信じるということであり、本質的な意味で、日本的な汎神論的信仰とは相いれない。つまり、これまで日本人的な汎神論をベースにした宗教観から、キリスト教に回心するというのは、本当に白99黒1のオセロのような世界だなと思う。
そもそも異教徒と接するうえで大事なことは、ティリッヒがいうように、宣教したり、回心させようとするのではなく、「思惟への奉仕」を心がけること。そのためにはクリスチャンとしての自己言及(信仰告白/水によるバプテスマ)と、メタ認知がいかに大事か。そこに初めてキリスト教神学を学ぶ意味が出てくる。
そもそもキリスト教神学は、異教徒の存在を大前提とした弁証学を母としているのだ。アウグスティヌスが三位一体の神学を確立するまでの3世紀までの神学は、ほとんど弁証学的なものだったといえる。その中で、キリスト教独自の救済論、教会形成論、倫理学などが形成されて行ったわけだ。
つまるところ、言葉や知識による宣教といった外的な召命は常に無効で、こうしたフェーズで、あくまで異教徒との対話の中でできることは「思惟への奉仕」しかない。僕がブログやメルマガでできることも、あくまでのこの「思惟への奉仕」でしかありえない。しかし、その人の人生のどこかのタイミングで、聖霊の働きかけによって、内的な召命に至った時こそ、その人にとっての回心のタイミングとなるのだ。