福音を伝えていくことにおいて、「思惟への奉仕」とセットになるのが、「証」である。これは何も福音に限らず全ての物事にいえること。例えば、科学において、ニュートンは、人々に重力を信じさせたのではなく、なぜ物が落ちるのかという思惟について、人々に奉仕をして、その上で、それが存在するという証をしたわけだ。クリスチャンの伝道も同じようなものである。イエスキリストが存在していることは、クリスチャンにとって、重力が厳然と存在していることと同じで、疑いようのないものである。しかしそれを相手が信じるかどうかは、あくまで相手を「信じさせる」ことはできない。外的召命は常に無効なのだ。それができうるのは自分の力ではなく、聖霊の働き、つまり主の御心においてのみである。あくまでできることは、相手の思惟への奉仕を通じて、自分が信じるに至った「証」を述べ広く伝えていくことしかできない。一番の証は、自分がイエスキリストによって救われて、生き方の全てが変わったことこそが、何よりも一番大きな「証」となる。福音がもたらす最大の「証」は、人が罪によってではなく、義によって生きるようになること。すなわちイエスキリストが伝えたように「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。(右手が行う人への奉仕を、左手が気づかないくらいに自然にやりなさいの意味)」の御言葉通りに生きていくこと自体が、最大の「証」となる。私たちは、自分の行いによって義とされるのではなく、イエスキリストの十字架での贖いへの信仰という恵みの愛を通じて、義とされたように、私たちもまた無償の愛で人に接していくことが、結果的に神の栄光を讃えることになっていくのだ。
つまりクリスチャンにとって主の威光を表す無償の愛は、救われるための善行(行為義認)では決してなく、主の栄光を示す証であるということ。無償の愛に生きること、汝の敵を愛す生き方こそ、自己目的ではなく、証のための行いとなる。これが信仰義認における行いの重要な定義となる。