主イエスキリストの十字架を信じ、聖霊の注ぎを受けると、主イエスキリストの人格へと近づいていこうと、栄化へと向かう聖化が始まる。主イエスキリストとは、王であり、また僕(しもべ)である。王のような存在感と、僕のような献身が、一人の人格の中に同居するようになる。参議院選挙や、吉本の不祥事なども含めて、その背景には力強いリーダーを求める人々の気持ちが背景にあるが、リーダーとはすなわち主イエスキリストのように人々の一人一人を認識する力強い王であり、また、社会の中で最も低きものとしてすべての人の僕(しもべ)であるという二つの側面を持つ。こうした視点は、決してお気軽ニューエイジ的な文脈には持ちえないこと。クリスチャニティにおいてしか、決して、なしえないこと。主こそ我が誉れ。混迷する、日本にリバイバルを。主の栄光はとこしえに。アーメン。