イエスの十字架をどのように考えるかも、自分の十字架をどのように背負って生きるかという解釈の違いを生み出すので神学的には非常に興味深い。1000年間の間優位だったイエスが人類の代わりにサタンに打ち勝ったとする「勝利者キリスト説(賠償説)」、宗教改革の時代にルターやカルヴァンが神学的土台に据えた「充足説」「刑罰代償説」、自由主義神学の中で主に扱われ、人間の原罪や罰する神という概念を離れた「道徳感化説」など。
聖書を字義通り(ヘブル的に)理解するという信仰義認という教理を中心にすると、「充足説」「刑罰代償説」でなければ論理は整然とは成り立たない。これが福音派の立場。
その一方で一般的にはエキュメニスム運動や、宗教的寛容をメインに据える自由主義神学を中心にすると、「充足説」や「刑罰代償説」では、他宗教に対して排他的な教理にならざるを得ないために、原罪や義の神(神の怒り)の側面を強調しない「道徳感化説」をとる。この欠点は何より構造上信仰義認という教理から離れて、技による救いがメインにならざるを得ないという、非聖書的な理解に近づいてしまうという問題がある。現在の一般的なカソリックの神学的な立場はここになる。聖書はあくまで聖伝の一つであるという立場や、何より組織が巨大だからこそ、プロテスタントのような聖書的神学構造についてはある程度妥協せざるを得ない。
キリスト教教理の中でも、十字架の救いをどのように考えるかで、かなりグラデーションは別れていくことになる。
ただ重要なことはいずれにせよ、「イエスキリストが自分の罪のために十字架で死なれ、墓に葬られ、3日後に復活した」ということを信じれば、どういう十字架理解であろうが人は救われるということ。大局的に見れば、キリストイエスの人格に近づいていくというベクトルは何も変わらない。重要なことはイエスキリストを自らの救い主として受け入れること。このシンプルさと、多様性こそ、キリスト教の持つ豊かさだとも言える。