特にクリスチャンが弁証学的な話をしている時(なぜ集団救済論において、汎神論ではなく、一神教である必要があるのかについての説明)に、わりとこうしたコミュニケーションのずれが起こりやすいことなんだけれど、クリスチャンが「無償の愛」を伝えるために話しているのに、特に日本の場合「キリスト教=戦争ばかりしている」というレッテルを貼って、拒絶するということが日本ではよく見かける。
これってそもそも最初のメタフレームが、かたや「無償の愛」かたや「暴力」という形で180度ずれているわけで、本当に不幸なことだなと思う。
そもそも自力救済型の汎神論という構造では、弁証学を持つ必要がないので、そもそも集団救済論を持つ一神教が、一神教を維持するために自己言及的に必要な弁証学的な話に、ある種の排他的な拒否感を感じてしまうのだと思う。さらにここに日本の汎神論優位論のフレームが入ってくるので、拒絶感はさらに強まり、だから一神教は独善的でダメだ、こういうことばかりやっているから戦争になるという話になる。
これはディスコミニケーション以外の何物でもない。まるで男女の会話のように、わりと自分と相手のコミュニケーションパターンをメタ認知しないと、永遠にすれ違うということになりかねないと思うし、実際日本ではずっとそうだったんだろうなと感じる機会が非常に多い。

そもそも引き合いに出される戦争のイメージも、第一次世界大戦以降の国と国との戦争ということが前提となる。その意味で、そもそも私たちが国と呼ぶ国民国家という概念自体が、神聖ローマ帝国の崩壊以降、キリスト教共同体から発達していった概念で、キリスト教が私たちの考える戦争の原因なのではない。むしろ十字軍遠征の時代は、日本では鎌倉時代だったわけで、むしろ宗教は力を持たず、 国民国家という概念は当然あり得ないし、 実質的な権力は暴力によって人を支配する構造でしかありえなかった。宗教がひとつの平和な共同体を作ったのはクリスチャン精神(汝の敵を愛せよ)という思想があったからこそ。それは聖書を読めばよく分かる。「汝の敵を愛せよ」といったイエスの思想が、なぜ暴力の思想になるのだろうか?
むしろ、十字軍の遠征の時代、日本では、同じ仏教同士、神道同士である者たちが、自らのそれぞれに信じるカミと正義を中心に据えて、争っていたわけで、こうした汎神論優位主義に基づく、否定はあまり根拠がない話なのだ。

そして、むしろこちらの方がよく引き合いに出される例なのだが、イラク戦争やベトナム戦争、湾岸戦争というWW2以降の特にアメリカの戦争。また、それに対する反戦運動。
しかしここで考えてみてほしいことは、そもそも反戦運動というものは、当時信仰が形骸化し、弱体化していたキリスト教世界における自己批判という形で生まれたニューエイジ文化として世界中に広がっていったもの。そもそも国家神道を中軸としていた戦前の日本において、どれだけの人が戦前信仰に基づいた自己批判をできただろうか?
そして、もし日本が戦利国となった時にどれだけの人が、「汝の敵を愛せよ」という思想に基づいて、「鬼畜米英」として戦っていた相手に対して、自己批判へと立ち返ることができただろうか?今の日本の原発などの問題などを見ていても、決してイエスが示した「汝の敵を愛せよ」「僕として最も低いものとして人に仕えよ」という自己批判に長けた信仰が、今、普遍的に日本人の中にあるうるとは思えない。
まして教理の中に「悔い改め」「原罪」というベースがないために、いつまでも主からの赦しではなく、「技による救い」「自己義認」に頼るほかはなく、どれだけ経済的な支援をしたところで、本当の意味で悔い改めが起こらない限り、隣国の韓国との和解もおぼつかないということに、神学的な不完全性があることは否めないのではないだろうか。確かにアメリカは奴隷制度を通じて、多くの黒人を虐げてきたが、アメイジンググレイスで歌われるように、主の赦しの愛によって、悔い改め、結果的に「黒人(という言葉は差別用語になりうるので、今の時代では正しくはアフリカ系アメリカ人)大統領」 が生まれるまでいたったではないだろうか?こうしたキリスト教信仰が持つダイナミズムを否定して、盲目的な汎神論優位主義、「キリスト教信仰=独善的ですぐに戦争をしたがる」という、戦中の「鬼畜米英」のフレームとそこまで変わらないレッテルで物を見ることこそが、自身が批判している一神教的なエゴイズムと同じものであるといえるのではなかろうかと思う。
あくまでキリスト教の「汝の敵を愛せよ」に立ち返る意味で、自己批判を行ったうえで生まれた思想が、「ニューエイジ文化」であり、「反戦運動」なのだ。ビートルズも、間接的にローマ法王を否定しこそしたが(その後和解する)、イエスキリストそのものは決して否定していない。そうした文脈を理解せず、キリスト教=戦争というイメージを持つことは、正しい理解だとは決していえないであろう。
聖書の時代には、「反戦運動」も、「国民国家」も「奴隷解放運動」もなかったが、いずれも、すでに2000年前に啓示された聖書の御言葉の中で、すべてイエス様が人類に普遍的なメッセージとして「汝の敵を愛せよ」というメッセージで明確に伝えている。奴隷解放運動も、すでにその萌芽が、パウロ書簡の「フィレモンの手紙」の中に、奴隷であったオネシモを、クリスチャンとして自発的に解放してもらえないだろうかとフィレモンに綴る内容として記されている。奴隷制度が常識であって誰も疑っていない時代に、現代の奴隷制度解放運動に繋がる精神的萌芽があること自体が、とても驚異的なこと。これらが散逸したバラバラの教典の一部としてではなく、啓示されまとめられた「一冊の本」の中に全てが記載されているということ自体は、尊重されうるべきことなのではないだろうか。
日本で言うと、卑弥呼がいた時代が2世紀なので、その200年前に、現代社会の全ての基盤となっている聖書の御言葉が、啓示されていたということをあらためて深く感じ取ってみてほしいなと思う。
反戦運動についても、むしろ、イエス様は決して人間は愚かで罪深いので戦争そのものはなくならないということを、聖霊を通じてヨハネの黙示録などを通じて伝えている。また自らの教えを伝えることで決して世界は平和にはならず、むしろ人々は争うことになるだろうとすら伝えている。これは人間の罪の愚かさを十分に分かっているからこそ、現実的に伝えているわけだ。
その中でも、イエス様は、主の教え「汝の敵を愛せよ」とひとりひとりの心の中に伝えることで、必ず世界は最終的に、審判の日以降には、主によって平和がもたらされるということを約束されている。人間の愚かさを直視して、決して理想主義だけに陥らないという意味でも、どの時代にても適応されうる、もしくは今の時代だからこそ深く知るべき、非常に現実的な考え方といえるのではないだろうか。
聖書をしっかりと読むということは、日本人が、国際人として眼を開くうえでも非常に重要なことなのではないかと思う。すくなくともインターネットがより深い世界的変容をもたらしていくなかで、決して避けては通れない日本人特有の課題になるのではないかと思う。