宗教観の違いで非常に顕著に現れるのが、環境問題に関する意識。日本人の環境問題に関する意識は、そもそも日本の宗教形態の本質は、葬式仏教として形骸化した仏教にも、戦後解体された国家神道にもなく、ジブリの世界で描かれているようなアニミズム、里山自然崇拝にこそある。それゆえ環境問題というのは、日本人がナチュラルに神と捉えるものとの関係性になる。それゆえ聖書的な世界観における、創造主に委ねられたものとして適切に管理するべきものという文脈ではなく、神そのものとして崇拝する対象となる。つまり日本人にとっての環境問題の解決は、理性によって実を結ぶものではなく、非常に感情的な結びつきが強いテーマとなる。しかしそれ故に、合理的民主主義的アプローチではなく、日本人が持つ独特のアニミズム的な宗教感情に訴えかけるようなアプローチがメインとなる。この辺りは日本の内部にいると気づきにくいものだ。実際に日本人の環境問題に対するアプローチは、基本的に仮想敵としての一神教を前提として捉えている場合が多く、環境問題というよりも、宗教問題に近い捉え方をしている人が多い。
そのため日本では「自然を正しく管理する」という合理主義的なアプローチが進展しにくいという側面がある。それ故に、科学的なエビデンスがあったとしても、日本人の原風景と言える里山の原風景に直接関係してこない限り、実際の行動にまで移されることはない。
これが「自然を正しく管理する」という創造主からの至上命題だとすると、想像力を働かせて解決していくべき、知性的な問題としてまな板の上に上げることができる。プラスティック問題は最たるもので、宗教的な感情からはどのように日本の自然環境を破壊しているのかを、里山自然崇拝からは想定しにくいという側面がある。逆にアマゾンの大火災は、自然=神への冒涜が、視覚的にも感情的にも強く訴えかけるものなので、里山自然崇拝の日本人にとっても非常にイメージがしやすい。

この辺りは実際に聖書を読んで、クリスチャニティ について知らないと、自分の汎神論優位主義(つまるところ一神教否定論)に気づくことができないので、大体の場合、理性が実を結ばないドグマに陥ってしまう。自分の文脈をメタ認知することは非常に大事な要素だと思う。

日本でペットボトルの大量消費が問題視されにくいのも、里山にどのように影響を与えているかを感情的に理解しにくいという構造があり、それよりも便利さや商業主義のほうが感情的に訴えかけるから。むしろイロハスをはじめとした多くのミネラルウォーターのペットボトルは、逆に日本人の里山自然崇拝の宗教的感情に訴えかけるようなマーケティングをしているからね。「エコした気分」にさえなるという。

https://www.google.co.jp/amp/s/ecotopia.earth/article-2065/amp/?fbclid=IwAR3XghwTOTfllGJjLKiISPG9GK0eUfrupDQKVD9Oeis6sHl_MJTIDEtNCps

諸外国において環境問題が、あくまで「科学的」なテーマであるのに比較して(つまり環境問題は科学的なアプローチを通じて解決できるという前提)、日本の場合は宗教的なテーマとなる。
さらに一神教的宗教観への無理解によって、一神教をある種の仮想敵に仕立て上げてしまっているので、ネイティブインディアンなどのアニミズム的な文化を引き合いに出しながら、いかに欧米的な一神教の世界観が地球環境を壊しているのかという感情に訴えかけるようなアプローチで、一人相撲をしている部分がある。決して科学的なアプローチではなく、ある種の宗教運動に近いものがあると思う。