VR360教会

日に日に、日本の若者たちの間にリバイバルが起こる確信は増すばかり 聖霊によって燃え上がる新しい時代の幕開け

やはり確実に日本に途方もないリバイバルがやってくると思う。日に日にその確信は増すばかり。今日はずっと主に願い求めていたエクレシア、聖霊の注ぎに熱く燃える兄弟姉妹と出会い、自らも熱く聖霊に満たされた。主の御名があがめられますように。アーメン。

佐々木満男先生とお会いする

今日は佐々木満男先生の六本木ヒルズで行われていらっしゃるパワーブレークファーストに参加。それぞれの証に、信仰が強くされました。願わくは日本において、広く主の御名があがめられますように。アーメン。

個人の生き方の軸の変容

個人の生き方の中軸を、戦後の経済中心主義から、聖書の御言葉中心主義へと代えることで、本当に重要なものが見えてくる。やはりこれからの時代中心に据える価値観を何にするかが幸福感を高めていくために大事。何をコアにして、どう生きるかが、とても大事になるな。右肩上がりの経済成長時代ではなくなった今、聖書の御言葉を中心に据えると、富める者は低くされ、貧しいものは高くされる。真の意味で全ての人は平等になる。階級社会化して行く今の時代だからこそ本当に大事な価値観。「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」詩編 1:1-3 新共同訳

時制の消失

マンデラエフェクトを追って行くと、やはり色々不思議過ぎる。 結局アウグスティヌス もこの経験(時制の消失)をしていたんだろうなと思う。本当に聖書って真実なんだよな。。ほんと参っちゃう。 携挙が始まってきている。ほぼ確信している。

GAFA一強からのバランス

GAFA一強になると、またバランスが働いて行くことになるんだな。権力を持つごとに、低くなるべきというのは本当にそうだなと思う。ひいては企業だけでなく、パーソナルなものとして考えたときにも、特に30代以降年齢を経るに従って社会の中核を担って行くことも増えるので、20代の反骨精神や生意気さだけじゃだめで、謙遜な気持ちが何より大事なことになると思う。これはとても自然なことだ。

GAFAルネッサンスから、福音派リバイバルへ

諸外国ではGAFAルネッサンスからの福音派リバイバル、日本では階級社会化に対するマルクス主義的アカならぬ、イエスの十字架の血の赤、という風になっていくんだろうね。 GAFAルネッサンスというフレームが一番分かりやすいな。結局日本のニューエイジの浸透も、GAFAルネッサンスの文脈上にある。 そしてGAFAルネッサンスの上に、今度は階級社会化とクリスチャニティ のリバイバルという流れが生じてきているのはまさに時代の必然性と言えるのではないだろうか。

トランプ以降の世界

そうか、2016年秋にトランプが当選してから、弱者切り捨て、マイノリティ切り捨てが強調されたことで、日本でもそうした時代精神の影響下で、このあたりを転機として、階級社会化を是とする社会背景に変わっていったんだな。あの切り替えの時期は、時代の混迷感がすごかったからね。ワーッという間に、社会の根底に流れる何かが、すべて変わった。

山本太郎さんとクリスチャニティ

れいわ新選組における山本太郎さんの動きを見ていると、どう見てもクリスチャンの思想(イエスの十字架)に基づいているとしか思えない動きだったので、調べるとやはりカソリック信徒だった。下記の動画の10:15あたりから。れいわ新選組のムーブメントは、通常のアカ(左翼)と何か違う匂いをずっと感じていたが、これはキリストの血の赤(もしくは紅)だったんだな。 格差社会から階級社会へ。その中でのクリスチャニティ。着々とリバイバルの種が蒔かれているように思う。 クリスチャンとはいえ、仏壇でのパフォーマンスなどをこだわらない感じは、現代カソリックの「エキュメニズム」的な姿勢だし、十字架を思い切り背負う感じも「道徳感受説」というカソリックの十字架理解に近い行動。社会的弱者をトップ1、2にして、自分はその僕として仕えるという思想も、単純な意味での「リスクをとるリーダーシップ」という枠を超えていて、明らかにクリスチャニティのベースが背景にあると思う。

階級社会化する日本の中で

経済指標から追ってみても、確実にこういう流れが来ている。ニューエイジ 思想にはこういう状態を救う教理が存在しない。日本でもすでに2016年以降急速に進行していっている階級社会を救う思想は、クリスチャニティ しかあり得ないと思う。 https://news.line.me/issue/oa-newspostseven/2acb3680aebf?utm_source=Facebook&utm_medium=share&utm_campaign=none&fbclid=IwAR3NttGn1T0oQ01HPDWmrPuw2AFVTDxcRC_AHbsABauXqW3FgAJQtIpAO9k

7の70倍まで赦すこと

SNSでバーチャルな人間関係やコミュニケーションがメインになって、顔と顔を合わせて、膝を突き合わせて話す時代ではないからこそ、イエス様のこの御言葉ってものすごく大事だなと思う。 「イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」マタイによる福音書 18:22 新共同訳 いちいちSNSのコミュニケーションで、すれ違うごとに、人間関係を失っていたら人間関係が孤立するよ。まして人間関係の断捨離なんていう思想は、愚の骨頂としかいいようがない。顔もあわせず、自分の思い込みで人を裁き、関係性を切ってしまうこと。これは、現代のSNS社会によくみられる、エコーチェンバー化の罠。 そういう意味で、聖書と御言葉を中核にし始めてから、親しい人とのコミュニケーションの密度がものすごく濃くなった。占星術やグノーシスを使った個人セッションでは決してできないような自分の元に寄せられる個人的な相談も、主の御言葉でしっかりと問題解決できるようになった。

GAFAのテクノロジーの抽象度を超えるために

これからの時代にGAFAのテクノロジーがもたらす抽象性はものすごいものだから、結局のところそれを乗り越える抽象度の高い概念は福音以外にないと思う。いつの時代もそうだった。人間が考えた概念を超えられるのは、恵みとして主が啓示した福音のみ。

諸外国で起きつつあるリバイバル

やはり諸外国ではリバイバルが起きつつある。キリスト教圏ではそもそも当たり前だが日本のように聖書や教会への抵抗はないわけで、VRや人工知能のテーマを追求していくと、永遠の生命というコンセプトに行き着き、自ずと聖書で預言されていた世界であることに気づく。ナチュラルに聖書の世界と現代のテクノロジーとが融合する。こういう感性を日本も聖書を学ぶことで、しっかりと取り入れるべきだと思う。VRの世界と聖書の世界は非常に深く関係している。 VRもAIもシンギュラリティも、いずれも本質的には神学テーマに行き着く。聖書抜きでこれからの時代は一切読み解けない。

言語の壁がなくなる時代において

いままで言語の壁という側面でもキリスト教信仰は、日本に本格的に入ってこなかった。しかし、今、自動翻訳自体は、ポケトークなどにも見られるように、人工知能のアルゴリズムによって、ものすごいスピードで発展していっている。言語の壁は、ベルリンの壁のように崩壊していくだろう。まず日本人が、言語の壁を超えた時に、確実に出会うのは、この諸外国との神概念の違いだと思う。

死者の復活

死者の復活というテーマこそ聖書の最も主要なテーマの一つ。今年の前半に死者が復活するという2年前から来ていたメッセージも、着々と実現化していっている。 「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」‭‭テサロニケの信徒への手紙一‬ ‭4:16-17‬ ‭新共同訳‬‬

どうも別の次元に来てしまっている

いろいろ検証して、ほぼ確信しているのが、どうも2年前から別の次元に来てしまっているようなんだよね。。振動数が違う人がどうやってもコンタクトができない。ある特定の話題になると急に相手の眠気が催されて、話が急に中断したり。どうも物理的な次元の壁が存在するっぽい。ここ2年の経験でほぼ間違いがないと確信している。 まるで夢の中にいるようなかんじ。実際そうなんだけど。 夢の中で話がうやむやになる感じ。あの感じにそっくり。

人間がお金の抽象度を超えた時代

やはり2016年秋(ちょうどトランプが当選した頃)あたりから、お金の抽象度よりも、人間存在の抽象度の方が高くなった。つまりお金は物質の抽象度を最大限まで高めたものだが、人間存在が非物質化したことで、お金の抽象度を超え始めた。結局お金を神と据えてきた現代社会では、もはやお金が神概念として機能しなくなった。それ故に本当の神概念について深く知らなければならなくなった。今の時代感を示すようなオルタナティブな神概念はGAFAのニューエイジ 思想になると思うのだが、どうも確実にこれは三位一体の神概念に聖書を通じて収斂していくのだと思う。

携挙について

やはり明らかに携挙が起きているのだが、これは神学的に詳しいクリスチャンの方に色々インタビューして見ないとだなと思う。確実に世界に何かが起きていることをこの2-3年確信している。 つくづく不思議なことだらけ。

GAFAの思想を乗り越えるために

わりと、まだmixiもなかった時代から(2004年の段階)、占いやニューエイジが一般的になる時代が来ると予見していた。そのあたりからすでに学生占い師を始めていて、大学ではかなり変人扱いをされていた。カルトだのオウムだのいわれた。その後SNSの波がきて、結果的に今は、どかんと占い師やセラピストという職業が一般的になる時代が来た。と同時に、2020年代に入る今、その時と全く同じ感覚で、どう考えてもこれからクリスチャニティの時代が来ると感じる。そして、やはり今もあの時代同様、変人扱いされている。カルトだのオウムだのいわれる。(そもそもキリスト教はカルトではないが)しかし、人々の根源的欲求を分析して、なおかつテクノロジーの進化なども総合的に鑑みても、やはりどう見てもそういうリバイバルの波が来る。こういう直観は外れた試しがない。そしてルネッサンスが起こった後に必ずリバイバルが起こるということも、歴史的にも幾度となく証明されている事実だ。 結局GAFAも当時からその背景にある思想が、10代の若者の感性に刺さったからこそ、爆発的に広がったわけで、この辺りの視点はものすごく大事だと思う。

コミュニケーションコストがかからない優しい共同体としてのエクレシア

まぁおそらく消費から信仰に変わるんだろうな。すでにこうした変化は起きつつある。GAFA経済自体がすでにニューエイジ的信仰(個人主義の崇拝)をベースにしているからね。おそらくこれが今後クリスチャニティ に回帰していくのだと思う。実際聖書におけるエクレシアの概念って、SNSの次に来る概念だからね。信仰を共有した共同体。エモやチルもしばらく続く中で、おそらくジャスティンビーバーのように、エクレシア的共同体に収斂していくのではないかと思う。 エクレシア共同体内部では、コミュニケーションコストをほとんどかけずに、優しい人間関係が築かれるからね。多分SNSの次にくるエモ&チル的流れはこういうベクトルに向かっていくのではなかろうか。 「コミュニケーションコストがかからない優しい共同体」というのが今後の鍵になるのだと思う。 教会的なお祈りの場ってエモいしチルいからね。自己啓発的ニューエイジはわりと盛るからね。 自己啓発が盛りと映えで、教会的なお祈りの場がエモくてチルい感じなんだろうね。  階級社会になっても、クリスチャニティ であれば、しっかりと社会全体に大切なことを教育として伝えられるし、何より社会全体にとって非常に益となる。日本におけるリバイバルは、階級社会になっていく日本という現実を踏まえた上で、非常に重要な霊性運動になっていくだろう。特に若者は自己啓発ではなくクリスチャニティ に強い共感を感じていくのではないかと思う。特にコミュニケーションコストをかけなくていい優しい共同体というエクレシアの形成はとても大事。 わりとこれまでの時代は、場づくりやコミュニティづくりといっても、消費行動と紐づけられた場にならざるを得ないし、そもそもその共同体を規定するディスプリンはないので、入ってもわりとコミュニケーションコストがかかることが多かった。そういう意味で、御言葉というディレクションがしっかりとあって、初対面の人ともコミュニケーションコストもかからない、エクレシアは、今後おそらく結構長く続くであろうエモ&チルのベクトルにかなりあった場になっていくだろうと思う。

エモ&チルについて

時代が映えの方にものすごく動いたから、今は、エモさと、チルがトレンドなんだな。 要はこういうトレンドっていうのは、時代の抽象性がどこまで来ているかを知る指標で、そこに合わせると一番振動数が上がるよってことなんだよな。生活の基盤がない若者ほどこうした時代の抽象性を捉える感性がある。こういうところをしっかりと見つめることはとても大事。 経済状況は大きく改善はしないだろうから今後も若者に限らず社会全体はエモ&チルの方向に進んでいくだろうね。こういう世相でどのようにビジネスを考えていくかがものすごく大事な時代に入っているんだろうね。

2016年ごろからトレンドが変わってきている

やはり2016年あたりから、何かしらのトレンドが変わってきているように思う。おそらくメルカリや(当時まだイケけた頃の)ZOZOなどが一気に浸透したこと、そしてサブスクリプションサービスが一般的になっていったこと、インスタグラムでコミュニケーションの抽象度合いが、言語から映像になったことなどで、社会全体の消費行動の原則が根本的に変わったように思う。 多分戦後日本がコアに据えていた経済中心主義という神概念が、そもそも経済構造自体がシェア経済へと変遷していく中で変容していっているのだと思う。と同時におそらくここ2016年あたりから格差が固定化されて階級社会が登場しつつあるのだと思う。今回の選挙のれいわムーブメントは、そうした固定化された階級意識の現れなのではないかと思う。 アメリカでは南部ではキリスト教福音派、都市部ではヒッピー文化の延長にあるニューエイジ 的思想という形でわりと思想が分かれる。 2016年からの動向は一言で言うと、中産階級の消失なんだなと思う。 この10年で貯蓄0世帯が単身者で30パーセントから50パーセントに。 まぁ基本に忠実に考えてみても、上部構造(文化)を見る際に、下部構造の変化(経済)ってすごく大事だな。 2016年くらいまではわりとトレンドだったインスタ映えなどのリア充消費が、階級社会化していくなかで、確実に不謹慎な時代になってきているのだと思う。 https://backyard.imjp.co.jp/articles/wakamono_9 今の時代感はチル。金閣寺銀閣寺の例えはすごくわかりやすい。 盛りからチルへというのは本当にイメージしやすい。表参道に事務所があるので、常に若者の流行が定点観測できるが、まさにこんな感じ。時代感を捉えることはものすごく大事。

マンデラエフェクトという主の徴

日々の生活の中でマンデラエフェクトという主の徴(しるし)は起こる続ける。一人でも多く福音を知って、原罪からの解放、そして永遠の生命を手に入れて欲しいなと思う。

兄弟姉妹のために祈るパウロの言葉

兄弟姉妹のために祈るパウロの言葉。 「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」‭‭フィリピの信徒への手紙‬ ‭1:8-11‬ ‭新共同訳‬‬ 「祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭1:16-19‬ ‭新共同訳‬‬ 「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭3:14-19‬ ‭新共同訳‬‬ 「こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、 すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。 そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、 光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。」‭‭コロサイの信徒への手紙‬ ‭1:9-12‬ ‭新共同訳‬‬

自らはしごを外して生きてきた人生

結局のところ、小さいころにイエス様を受け入れて十字架を背負う意味を考え始めてから、道徳感化説をベースにして、受験戦争で人を蹴落として上に上がっていく道に疑問を感じながら、中学受験をわざと失敗し、そこからまた地元の公立中学に入学したのちに死ぬほど努力して、灘高にいっても、いまだ受験のレールの上(社会のエリートコースをそのまま疑問無しに進む)ことに違和感を感じながら、不登校になってみたり、大学を卒業したのちも、大学院に進まず、占い師になるなど、罪悪感から世の中の一般的な成功概念から外れるように、随所随所で自分のはしごを外して生きてきたんだな。今はクリスチャンになって、充足説もしくは(割とクリスチャン業界では批判されがちな)刑罰代償説と出会って、ようやく自分のあるがままが、本当の意味でイエス様の十字架によって贖われていたことを知り、生き方が変わってきたのだと思う。結局のところ僕の人生は聖書の 「また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい(ヤコブの手紙1章9節)」 の一言で救われた気がする。イエスキリストへの信仰を持てば、天の前ですべての人は平等になる。これほど素晴らしい世界観は他にない。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

クリスチャニティという門を通じて、合理的な近代人として生まれ変わること

クリスチャンになったことで、占いという迷信から離れて、より科学的、学問的な内容が伝えやすくなったな。「杏とクルミを一緒に食べると、低GIでダイエットに有効だし、クッキーみたいで美味しい」みたいな情報や、「中小企業の個人経営においても、バランスシートにおける流動比率を80-120%で保つことが大事」みたいな役に立つ情報を、普通に伝えられるようになるんだなと実感。占いだとなんでもかんでも汎神論的象徴に結びつけて、常にサタンの誘惑に晒されながら、いかにそれを乗り越えていくかなんか考えて、ものすんごい周りくどいからね。さらに自分自身が偶像崇拝の的になる(共依存の関係に陥る)という危険を常にはらむという。ある意味で迷信に基づかない合理的な発信と、信仰という両面をしっかりと分けて伝えられるようになった。名前をユピテルジョージから、本名の杉本譲治にしたように、得体の知れない「占い師」だった時と比べて、逆にこれからは灘高卒、早稲田大学政経学部出身みたいな、わりと世の中的に受け入れられやすい肩書のほうが、結果的に身を助けていくことになるんだろうなと思う。一応、これまでだって経営コンサルタントとして関わる企業に、しっかりと売り上げを立ててきたコンサルティング会社の社長だしね。ある意味こうした高学歴ということ自体も、聖書的な信仰を間接的に知っていたからこそ、自分を責めて、呪っていたんだと思う。学歴を自分の経歴で使うこと自体にものすごく抵抗感があった。でも、結局聖書の 「また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい(ヤコブの手紙1章9節)」 という御言葉に救われた。結局、聖書の知識ってものすごく大事なんだなと思う。占い(神智学やグノーシス主義)にそれを求めたが、結局のところそこに答えはなかった。それが明確によく分かった。なんかようやく普通の人生になってきたのかもな。これも何よりも主イエスキリストのおかげです。。まぁ、たぶん、そのうちクリスチャン色もしだいになじんでいって、自然に透明になっていき、「作家」「教師」という形になっていくんだろうな。いまは自身がどっぷりと浸かっていた、ニューエイジ文化をメタ認知するための自己批評に、ある種手いっぱいだからね。これからの生き方は自分の賜物である知性を、主のため、世の中のために献身的に使っていくという明確なイメージが心の内側にあるし、イエス様がそうであったように、より力強く、また謙遜な生き方に近づいていけるのだと思う。そしてそうありたい。少なくとも占い師という元型を背負って、迷信深く生きる必要はなくなるし、本当の意味で、アカデミズムだけでなく、クリスチャニティという門を通過することで、合理的な近代人として生まれ変わったということなんだろうなと思う。 そもそもこの数年で20キロ痩せたのも別に占いのおかげでもなんでもなくて、普通にインストラクターの先生についてもらって継続的にピラティスを実践して、さらに、自分で食事をしっかりと作って(外食をしないのはもちろんのこと、低GIにこだわるために全粒粉のパンを自分で焼いて作るところまでやってきた)低糖質ダイエットを続けたからなんだよね。結局占いと一緒にこういう健康についてのコンテンツをからめて発信しなかったのは、そもそも何でもかんでも占い的な象徴に結びつけることが知的ではないということを感じていたからなんだと思う。そもそも迷信と絡めた段階で、多分人はそれを妄信して、決して自分では継続的に実践しないからね。迷信はやっぱり迷信であって、迷信で決してダイエットはできないし、お金の知識だって占いという迷信と絡めることで、やはり間違って伝わると感じてきたからなんだと思う。そういう意味で主イエスキリスト は、結果的にカント的合理主義に基づく、近代人としてのあるべき姿に正しく導いてくださったということなんだな。

キリスト教信仰と戦争について

特にクリスチャンが弁証学的な話をしている時(なぜ集団救済論において、汎神論ではなく、一神教である必要があるのかについての説明)に、わりとこうしたコミュニケーションのずれが起こりやすいことなんだけれど、クリスチャンが「無償の愛」を伝えるために話しているのに、特に日本の場合「キリスト教=戦争ばかりしている」というレッテルを貼って、拒絶するということが日本ではよく見かける。これってそもそも最初のメタフレームが、かたや「無償の愛」かたや「暴力」という形で180度ずれているわけで、本当に不幸なことだなと思う。そもそも自力救済型の汎神論という構造では、弁証学を持つ必要がないので、そもそも集団救済論を持つ一神教が、一神教を維持するために自己言及的に必要な弁証学的な話に、ある種の排他的な拒否感を感じてしまうのだと思う。さらにここに日本の汎神論優位論のフレームが入ってくるので、拒絶感はさらに強まり、だから一神教は独善的でダメだ、こういうことばかりやっているから戦争になるという話になる。これはディスコミニケーション以外の何物でもない。まるで男女の会話のように、わりと自分と相手のコミュニケーションパターンをメタ認知しないと、永遠にすれ違うということになりかねないと思うし、実際日本ではずっとそうだったんだろうなと感じる機会が非常に多い。 そもそも引き合いに出される戦争のイメージも、第一次世界大戦以降の国と国との戦争ということが前提となる。その意味で、そもそも私たちが国と呼ぶ国民国家という概念自体が、神聖ローマ帝国の崩壊以降、キリスト教共同体から発達していった概念で、キリスト教が私たちの考える戦争の原因なのではない。むしろ十字軍遠征の時代は、日本では鎌倉時代だったわけで、むしろ宗教は力を持たず、 国民国家という概念は当然あり得ないし、 実質的な権力は暴力によって人を支配する構造でしかありえなかった。宗教がひとつの平和な共同体を作ったのはクリスチャン精神(汝の敵を愛せよ)という思想があったからこそ。それは聖書を読めばよく分かる。「汝の敵を愛せよ」といったイエスの思想が、なぜ暴力の思想になるのだろうか?むしろ、十字軍の遠征の時代、日本では、同じ仏教同士、神道同士である者たちが、自らのそれぞれに信じるカミと正義を中心に据えて、争っていたわけで、こうした汎神論優位主義に基づく、否定はあまり根拠がない話なのだ。 そして、むしろこちらの方がよく引き合いに出される例なのだが、イラク戦争やベトナム戦争、湾岸戦争というWW2以降の特にアメリカの戦争。また、それに対する反戦運動。しかしここで考えてみてほしいことは、そもそも反戦運動というものは、当時信仰が形骸化し、弱体化していたキリスト教世界における自己批判という形で生まれたニューエイジ文化として世界中に広がっていったもの。そもそも国家神道を中軸としていた戦前の日本において、どれだけの人が戦前信仰に基づいた自己批判をできただろうか?そして、もし日本が戦利国となった時にどれだけの人が、「汝の敵を愛せよ」という思想に基づいて、「鬼畜米英」として戦っていた相手に対して、自己批判へと立ち返ることができただろうか?今の日本の原発などの問題などを見ていても、決してイエスが示した「汝の敵を愛せよ」「僕として最も低いものとして人に仕えよ」という自己批判に長けた信仰が、今、普遍的に日本人の中にあるうるとは思えない。まして教理の中に「悔い改め」「原罪」というベースがないために、いつまでも主からの赦しではなく、「技による救い」「自己義認」に頼るほかはなく、どれだけ経済的な支援をしたところで、本当の意味で悔い改めが起こらない限り、隣国の韓国との和解もおぼつかないということに、神学的な不完全性があることは否めないのではないだろうか。確かにアメリカは奴隷制度を通じて、多くの黒人を虐げてきたが、アメイジンググレイスで歌われるように、主の赦しの愛によって、悔い改め、結果的に「黒人(という言葉は差別用語になりうるので、今の時代では正しくはアフリカ系アメリカ人)大統領」 が生まれるまでいたったではないだろうか?こうしたキリスト教信仰が持つダイナミズムを否定して、盲目的な汎神論優位主義、「キリスト教信仰=独善的ですぐに戦争をしたがる」という、戦中の「鬼畜米英」のフレームとそこまで変わらないレッテルで物を見ることこそが、自身が批判している一神教的なエゴイズムと同じものであるといえるのではなかろうかと思う。あくまでキリスト教の「汝の敵を愛せよ」に立ち返る意味で、自己批判を行ったうえで生まれた思想が、「ニューエイジ文化」であり、「反戦運動」なのだ。ビートルズも、間接的にローマ法王を否定しこそしたが(その後和解する)、イエスキリストそのものは決して否定していない。そうした文脈を理解せず、キリスト教=戦争というイメージを持つことは、正しい理解だとは決していえないであろう。聖書の時代には、「反戦運動」も、「国民国家」も「奴隷解放運動」もなかったが、いずれも、すでに2000年前に啓示された聖書の御言葉の中で、すべてイエス様が人類に普遍的なメッセージとして「汝の敵を愛せよ」というメッセージで明確に伝えている。奴隷解放運動も、すでにその萌芽が、パウロ書簡の「フィレモンの手紙」の中に、奴隷であったオネシモを、クリスチャンとして自発的に解放してもらえないだろうかとフィレモンに綴る内容として記されている。奴隷制度が常識であって誰も疑っていない時代に、現代の奴隷制度解放運動に繋がる精神的萌芽があること自体が、とても驚異的なこと。これらが散逸したバラバラの教典の一部としてではなく、啓示されまとめられた「一冊の本」の中に全てが記載されているということ自体は、尊重されうるべきことなのではないだろうか。日本で言うと、卑弥呼がいた時代が2世紀なので、その200年前に、現代社会の全ての基盤となっている聖書の御言葉が、啓示されていたということをあらためて深く感じ取ってみてほしいなと思う。反戦運動についても、むしろ、イエス様は決して人間は愚かで罪深いので戦争そのものはなくならないということを、聖霊を通じてヨハネの黙示録などを通じて伝えている。また自らの教えを伝えることで決して世界は平和にはならず、むしろ人々は争うことになるだろうとすら伝えている。これは人間の罪の愚かさを十分に分かっているからこそ、現実的に伝えているわけだ。その中でも、イエス様は、主の教え「汝の敵を愛せよ」とひとりひとりの心の中に伝えることで、必ず世界は最終的に、審判の日以降には、主によって平和がもたらされるということを約束されている。人間の愚かさを直視して、決して理想主義だけに陥らないという意味でも、どの時代にても適応されうる、もしくは今の時代だからこそ深く知るべき、非常に現実的な考え方といえるのではないだろうか。聖書をしっかりと読むということは、日本人が、国際人として眼を開くうえでも非常に重要なことなのではないかと思う。すくなくともインターネットがより深い世界的変容をもたらしていくなかで、決して避けては通れない日本人特有の課題になるのではないかと思う。

クリスチャニティの倫理がもたらした資本主義の精神

クリスチャニティをベースにしたことで、わりと自由になった話題はお金の話題。ニューエイジ文化の中で、お金を語ることは、多くの場合すぐにマモン崇拝、サタンの誘惑が入り込むことになる。そもそも資本主義経済が発達するベースとなったのは、マックウェーヴァ―がいうように、カルヴァン主義にこそある。カルヴァン主義における予定説によって、禁欲と蓄財という宗教的には二つの相反する行いが、アウフヘーベンされる形で義とされた。これが、資本主義の倫理のコアとなる考え方。自分の十字架を背負わずに、事業をやったところで、価値なんか生み出せないし、そうやって生きる方法以外に多くの人に感動を与えたり、人を救うような、普遍的な価値は生まれない。わりと今の時代に危険なのは、ニューエイジ的な思想に基づいて自分=価値と考えることで、労働の負の効用に根差した確かな土台が無くなり、価値のインフレーションが起こりやすいということ。これはニューエイジ自体が、エゴのインフレーションに陥りやすいことと深く関係している。しかし、そもそもSNSを発達させていった現在のGAFAのような巨大企業自体が、ヒッピーカルチャーからの延長線上にあるニューエイジ文化に基づいて設計されているので、ここになかなか気づけないという問題をはらんでいる。SNS上で起こってきているエコーチェンバー型のカルトの問題は、こうした資本主義×ニューエイジ文化という中で起こるべくして起こっているバブル経済で、真理に基づかないこの構造は必ずバブルが崩壊する時が訪れることになると思う。その意味で、資本主義のコアの倫理観に基づいて、聖書を学ぶことは、中小企業の経営者にとっても、とても大事なことになるのだと思う。日本独自のマモン崇拝を離れて、確かな主をあがめること。これは自分の身を経済的に守るためにも、これからの時代とても大事なものになっていくだろうと思う。

プロテスタンティズムの経済倫理

経済学的に考えたときに、自分の収入を上げていく方法は、簡単に言うと「よく働くこと」これに尽きる。よく働くことで、「労働の負の効用」が増す。「労働の負の効用」が増していけばいくほど、自分が対価としていただくお金は高いものでなければ納得いかなくなっていく。大事なことはこの「よく働く」の意味を、何も「肉体労働」だけではなく、「よく考え、よく学ぶこと」ということとしてとらえる必要があるということ。仕事の本質は、行為の抽象度を高めていくこと。そのためには、よく学ぶことが大事。本を読んだり、物事を深く考える癖をしっかりと身に付けていくことで、人よりも多く「労働の負の効用」を蓄えていけば、おのずと道は開かれることになる。というよりもそうでないと、納得がいかなくなるわけで、おのずと行動がちゃんと対価をもらえるように自然に動き始めていくことになる。つまり努力の上にしっかりと価値が生まれる、この基本原則はどんな時代になっても変わらないものだ。つまるところ、困っている人を助ける、世の中の価値になるものを一生懸命考えて、提案し続ける。このような、自分の十字架を背負って、主の栄光を讃えるために、生きる覚悟が、資本主義の精神のコアになる倫理といえるのだ。これがプロテスタンティズムの深い部分にある経済倫理。

借金で苦しむニューエイジャーに必要な経済的な知識

わりとニューエイジャーで、セミナーなどで大枚をはたいて借金に追われて苦しんでいる人が多いと思う。これは、これはアクターも含めて。むしろアクターほどそうであることも多い。なぜならアクター自身がこうした借金に追われて、自分を追い込むことで、やむなく稼がなければならないという緊張の中にあるからこそ、事業を拡大させるからだ。しかしこれは本来のスピリチャリティから考えたときに、全く本質的ではないし、負の連鎖が生まれる原因といえる。ここにこそ、ニューエイジ的なマモン(お金)崇拝の罠が存在する。 なぜこうなるのかという背景を考えたときに、経営の安定のために、どれくらいの貯金が必要かということを冷静に教えてくれる人がいないのだと思う。つまり、本質的な諸悪の根源は、アクター側の経営学的な基本知識の欠如にこそあるのだ。 経営学上こうしたことを防ぐ基準は、明確にあって、これを「流動比率」という。大体、月の予算の10ヵ月分~14か月分(仮に毎月20万の経費ならば約2-300万円)は手元に絶対に残していないといけないし、まず最初に作るべきものはこの資本である。 事業の安定性は、臨時支出への体力×定期的支出の体力の掛け算で決まる。つまり10か月分の貯蓄というのは、5ヵ月分×5か月分でリスクが、1/25となるので、4%ととなり、5%以下のリスクを安全性として統計的有意としてとらえれば、10か月の貯蓄をベースとすることがまず何よりも大事。14か月分になれば、これが2%ほどになる。この流動比率を守ることは、本当に鉄則。 こういう経営的知識がないと、アクターの知識の貧困がさらにフォロアーの経済的貧困を生み出すという、貧困ビジネスが蔓延していくことになる。 また、そもそも税金はどのような所得であれ、おおよそ社会保障税や消費税とあわせて、1/3がかかるようになっている。つまり税金を納めずに、決算越しのお金を持つことは難しい。この流動比率はあがらない。節税だと思って、何でも経費として考えていたら一向に流動比率はあがらないし、いつもカツカツの状態が続いていく。何もこれはニューエイジャーだけの問題でなく、意外とこのサイクルの中でずっと苦しんでいる中小企業の方は多いし、特にこの10月からは消費税が10パーセントに上がるので、こういった経済的な知識はものすごく必要なものだと思う。必要な人に届きますように。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

イエスの十字架を神学的にどのようにとらえるか

イエスの十字架をどのように考えるかも、自分の十字架をどのように背負って生きるかという解釈の違いを生み出すので神学的には非常に興味深い。1000年間の間優位だったイエスが人類の代わりにサタンに打ち勝ったとする「勝利者キリスト説(賠償説)」、宗教改革の時代にルターやカルヴァンが神学的土台に据えた「充足説」「刑罰代償説」、自由主義神学の中で主に扱われ、人間の原罪や罰する神という概念を離れた「道徳感化説」など。聖書を字義通り(ヘブル的に)理解するという信仰義認という教理を中心にすると、「充足説」「刑罰代償説」でなければ論理は整然とは成り立たない。これが福音派の立場。その一方で一般的にはエキュメニスム運動や、宗教的寛容をメインに据える自由主義神学を中心にすると、「充足説」や「刑罰代償説」では、他宗教に対して排他的な教理にならざるを得ないために、原罪や義の神(神の怒り)の側面を強調しない「道徳感化説」をとる。この欠点は何より構造上信仰義認という教理から離れて、技による救いがメインにならざるを得ないという、非聖書的な理解に近づいてしまうという問題がある。現在の一般的なカソリックの神学的な立場はここになる。聖書はあくまで聖伝の一つであるという立場や、何より組織が巨大だからこそ、プロテスタントのような聖書的神学構造についてはある程度妥協せざるを得ない。キリスト教教理の中でも、十字架の救いをどのように考えるかで、かなりグラデーションは別れていくことになる。ただ重要なことはいずれにせよ、「イエスキリストが自分の罪のために十字架で死なれ、墓に葬られ、3日後に復活した」ということを信じれば、どういう十字架理解であろうが人は救われるということ。大局的に見れば、キリストイエスの人格に近づいていくというベクトルは何も変わらない。重要なことはイエスキリストを自らの救い主として受け入れること。このシンプルさと、多様性こそ、キリスト教の持つ豊かさだとも言える。

【ベツレヘムの星便り】361号 「迷い出た羊」のたとえから、創造主の忍耐強い愛について

◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り) 2019/7/28                                 361号こんにちは、杉本譲治(旧:ユピテルジョージ)です。 今週から、週間占いや満月・新月占いなどを長く続けてきた雄鶏の羽根のサイトをクローズし、こちらの新しいURLのほうに完全に統合いたしました。https://vrchurch.online/ 新しいサイトのブログでは、「元占星術師だった私が、なぜ占いを辞めてクリスチャンになったのか?」というテーマについて、日々語っております。 また、聖書的な世界観をベースにした個人セッションのほうも新しいサイトのほうで受付を始めました。 これをきっかけに、「無償の愛」についての書である聖書の御言葉を通じて、自分の心を深い愛で満たし、また周囲の人たちとの関係性の中で豊かな愛情を分かち合う人生のための献身をさせていただければと思っております。https://vrchurch.online/personal_session/ ▼「迷い出た羊」のたとえから、創造主の忍耐強い愛についてさて、前回は、天におられる創造主の忍耐強い愛について、ミニバイブル(ヨハネによる福音書 3:16)についてのお話をしました。https://vrchurch.online/minibible0316 いかに創造主があなたを愛しておられるかを心で感じられる方法として、このように自分に語ってみるという方法をご紹介しました。 【ミニバイブル】「創造主は、その独り子をお与えになったほどに、【…あなたの名前…】を愛された。【…あなたの名前…】が滅びないで、永遠の命を得るためである。 創造主が御子を世に遣わされたのは、【…あなたの名前…】を裁くためではなく、御子によって【…あなたの名前…】が救われるためである。」 さて、今日は、この前回のメッセージに加えて、創造主があなたに注いでくださっている無償の愛のメッセージについてお届けします。 それが、マタイによる福音書においてイエス様が語られる「迷い出た羊」のたとえです。 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」マタイによる福音書 18:10, 12-14 新共同訳 いかがでしょう…。とても味わい深いメッセージですね。 決して創造主の無償の愛は、一人一人を見捨てることは無く、私たちそれぞれが応答するまで、忍耐強く待っておられます。 常にこの創造主の無償の愛が、イエス様の十字架での贖いを通じて、あなたの傍にあることを感じられるようになった時、人生は決して一人ではないことに気づけます。 その時、私たちは、このように愛されたように、初めて人を深く愛せるようになるのです。 人を無償で愛するには、忍耐強さが必要です。自分が期待したように、すぐに応答されることは稀でしょう。 しかし、創造主が私たちが応答するのを忍耐強く待っておられることを実感し、私たちも、同じように気持ちを切らさずに、他者を愛そうと思えるようになった時、私たちは、すでにもはや孤独の中にはおらず、深い主の愛の中に生きていることに気づけるのです。 今週もあなたが恵み深い主の愛の中で、癒しを得て、心豊かな一週間となりますように。 父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。 【個人セッション】聖書の御言葉を通じて、自分の心を「無償の愛」で満たす人生の困難に行き当たった時、判断に悩む時、あなたの手元に一冊の聖書と、主イエスキリストへの信仰があれば、常にあなたの道のりを、明るく照らしてくれます。 人生はいいことばかりではありません。しかし、どんな時でも救い主イエスキリストは、あなたのことを見守り、愛しておられます。 この個人セッションでは、聖書的な人間理解、主イエスキリストの信仰をベースとしながら、時間をたっぷりととったマンツーマンのカウンセリングをご提供し、あなたの人生がより良い方向へ向かうように祈り、また、献身させていただきます。 ▼時間の目安 60分から90分程度▼料金 本カウンセリングは、キリスト教の献身の精神に基づいた活動(デボーション)となるため、特定の料金は定めておらず、本活動継続のための献金という形でご協力をお願いいたしております。 ▼スケジュールの関係上、月10人までのお受付となります。何卒、ご理解、ご了承ください。 ▼日時 お申し込み後に、ご希望の日時を調整いたします。▼場所は、表参道(東京都)のサロンとなります。ご予約後に住所をお伝えいたします。 ▼ご遠方の方は、スカイプやLINE、ZOOM等のビデオ通話を使った形にてもご提供いたします。 ▼ご予約はこちらからhttps://vrchurch.online/personal_session/ 「心の貧しい人々(注:謙遜な人々という意)は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 5:3-12 新共同訳 メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)発行者:杉本譲治▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。 ▽本メールマガジンの配信解除はこちらからhttps://j.bmb.jp/bm/p/f/tf.php?id=r_bridge(c)2019 George Sugimoto All Rights Reserved.

いい人であること

今後展開する事業における、新しいサービスは、単純にビジネスコンサルティングや、個人コーチングというだけでなく、聖書の御言葉と世界観に基づいた、人格陶冶というテーマが主軸になるんだと思う。提供するコーチングも、ヘレニズム的価値観(人間性の解放)と、ヘブル的価値観(アガペー)のバランスが取れた、より確かな世界観にもづいたものを提供しなければ、通用しない時代が来ているように思う。結局のところ、確かな人格をベースに物事は積み上げていかないと、今のスピードの速い時代の中ですぐに滅び去ってしまうことになると思う。何においても、普遍的なものを、価値提供の根本にしないとだね。そういうことを、今回の選挙の動向や、吉本のニュースは教えてくれているのだと思う。ようはリーダーは「いい人でありましょう」という強い社会的なメッセージなんだと思う。 結局のところ、「いい人でありましょう」ということをベースにすると、やっぱどこまでアカデミックにやったってそもそも倫理的な意味合いで、占い師っていうこと自体が、矛盾があるんだよな。それがシンプルに、クリスチャンになって、迷信を廃した理由。これまで出会ってきた占星術家で、しっかりとした人ほど、この種の自己批判は誰しもがやっていたと思う。社会的に占い師が、マイノリティだったときはまた自己批判だけでよかったが、今や誰しもが自称占い師になる時代になったので、こうした矛盾はさらに社会全体として強くあぶりだされるような時代になっていると思う。吉本の問題も、ある種こういう部分があるのだと思う。社会的な影響力が増すほどに、業界の自己批判、自己規律だけでは保てなくなってくる。「特殊な業界だから」とか、「あの人たち私とは違う」といくら業界内部で主張したところで、結局のところは、外側から見ると本質的には同じことをやっているわけで、そのあたりは今後、ある種の臨界点に達していくのではないだろうか。そういう意味でもいろいろな業界が、ちゃんと倫理観に基づいて、一度考え直さないといけない時代が来ているのだと思う。そして、こうしたところに、リバイバルの種があるのだと思う。これはどの時代もそうだった。ルネッサンスで個人主義が台頭したのちに、必ずリバイバル(宗教改革)が起こってくるのだ。

才能は賜物であって、主と人に仕えるためのもの。

主に与えられた自分の賜物(才能)は、Gift(才能とプレゼントという両方の意味がある)という呼び名の通り、決して自分個人のものではありえない。我が身を誇ることなく、主の栄光を讃えるために、主に仕えるように、人に仕えていくことが主イエスキリストの教え。主はその憐みのゆえに、ご自身の御子を遣わし、十字架における贖いの御業を通じて、罪深き人間を義としてくださった。 「王のように自信をもって、僕のように人に仕える生き方」。新しい時代には、これがとても大事。結局のところ、政治も、吉本の問題も、ここに行きつくんじゃないだろうか? 父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

ルネッサンスとリバイバル

SNSはある種のルネッサンス文化だったんだな。GAFAもそうだね。資本主義の硬直で行き詰まった社会を、人間性回復運動の思想に基づいて、柔軟性を取り戻す動き。ただその一方で、人間中心主義が行き過ぎるということは、同時に神から離れることを意味し、ここにリバイバルの流れが世界的にも起こってきているということになるんだな。そして日本ではそもそもリバイバルの翻訳が必要ということ。ドリーンバーチュー が福音派に回心してだいぶ経つけど、その歴史的文脈を日本人のニューエイジャーはちゃんと分かってないからね。

目に映るすべてのものはメッセージ「ではない」

目に映るすべてのものはメッセージ「ではない」ことが大事なんだよなと。必ず御言葉に基づいた取捨選択が必要ということ。そのためにも聖書の正しい知識はとても大事。 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」 ‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:13-14‬ ‭新共同訳‬‬

一言でいうと

ひとことでいうと、ニューエイジ思想に左右されずに、地に足をつけましょう、ということかな。 世界的な常識としては、その地に足をつけるに含有される意味合いとして、「クリスチャニティ的に考えて」、ということになる。

時代遅れの悲しきヒッピーたち

もはや2020年代に入るから、何も1970年代の霊性文化をベースにする必要もなくなっているんだよね。もはや50年前の話であって、おじいちゃん世代だからね。むしろ世界的にもニューエイジ思想が飽和し、アメリカでの福音派の勃興などの世界的なリバイバルが起こり始めている今、日本でも、1920年代の内村鑑三や新島襄、中田重治といった、リバイバリストの思想をコアに置いた方がいいんじゃないかと思う。 ニューエイジ思想自体が、メタからベタに変わり、むしろ時代遅れのおじさんたちの思想になってきている。おそらくこうした時代の変化に取り残されていくと、ゆくゆくは老害といわれるようになるのだろう。実際すでに今の若者の感性では「あッー、あの情報商材や自己啓発セミナーの痛い人たち?」と思うだけで、今後人生観を通じて共感することは減っていくと思う。まるで時代遅れのヒッピーたち、もしくはジュリアナ東京で訳もなく踊り狂っていたバブリー世代を見るような目線で…。

日本におけるニューエイジ文化の終焉

揺れ動く感情という不確かなものではなく、主によって万物が創造される以前から存在している御言葉という確かなものに積み上げていければ、事業は安定する。それが本来のクリスチャニティから生まれた資本主義の精神。ニューエイジ文化においても、事業的に長年ずっとうまく行っている人は、そもそもこうしたクリスチャニティ教育をどこかで必ず受けていて、そうした世界観に知らず知らずのうちに生きている。結局、ニューエイジ事業といっても、ビジネスである以上、価値を与え着付けていかないと安定した事業にはならないから。ずっと日本においては、教会文化が非常に弱かったので、こうした人たちのよりどころは昔は、ニューエイジしかなかったということ。しかし今は、リバイバルの時代なので、ようやくクリスチャニティが明文化される時代が来ている。 であるならば、何もわざわざ危険なニューエイジ文化の言語で話す必要は一切ないわけだ。 ニューエイジの本質はルネッサンス(人間性回復運動)にあり、90年代以降形骸化した社会システムの中で歯を食いしばって歯車になって生きてきた日本人を救った考え方。しかし、同時に歴史的に見ると、ルネッサンスと対になって現れるのが、キリスト教信仰の回復(リバイバル)で、ルネッサンス的世界観だと方向性的には宗教的堕落を生み出していくので、必ず反動でリバイバルが起こることになっている。これは歴史的真実。  中世のヨーロッパで近代に向かう前に、ルネッサンスと宗教改革が同時に起こったことは、このルネッサンスとリバイバルという対になる現象の一つの大きな鋳型となっている。これは様々な文化が国際的にまじりあう時代に必ず起こる現象。そもそもキリスト教自体も、ヘレニズムの時代に成立した宗教。皆、今は日本においてもSNSの台頭で、異口同音にルネッサンス(人間性回復運動)の論説になびいているが、世界全体は大きな波であるリバイバルの時代に入りつつある。霊的な文脈を正しく理解できる人は、おそらくこれからの10年を世界的なリバイバルの時代ととらえるだろうと思う。日本においても、安易なニューエイジ論になびかずに、時代の先端をしっかりと見て、世界的にやってくる大きな波であるところのリバイバルを、非クリスチャン国家である日本人に対して、いかに文化翻訳できるかが、価値ある仕事ができるかどうかという軸になると思う。 日本におけるニューエイジ文化の終焉と、クリスチャニティの到来というのが今後の重要な研究課題になっていくね。

キリスト教信仰から見たシンクロニシティ

キリスト教において主への信仰に基づくシンクロニシティは聖霊の働きの範囲内。つまりその源が主にあることという信仰に基づき、聖書に調和しているかどうかが前提となる。しかし、ユングのシンクロニシティの場合は汎神論的な世界にそれを広げた。ある意味シンクロニシティとは容易に諸霊(悪霊)が働きかけることができる。しかしこれは汎神論ではこの霊がどんな霊かを問うことがない。ここにサタンや悪霊が入り込む隙間が常にある。故にシンクロニシティの全てを是とする考え方は、大いに霊的に危険な側面があると言える。これがキリスト教的な文脈において占いが迷信である理由だ。ユングが提唱したシンクロニシティは、ジェームズレッドフィールドの聖なる予言で、ニューエイジ文化 の中でも一般化したが、この辺りはしっかりとメタ認知して、無条件に鵜呑みにするのではなく、再考しなければならない概念だと思う。 サタンや悪霊からすると、ニューエイジャー に対して自らに与するようにシンクロニシティを起こせばいいわけで、サタンにとってそれはなんのことはないこと。 「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。 だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。 だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」‭‭コリントの信徒への手紙二‬ ‭11:13-15‬ ‭新共同訳‬‬