VR360教会

ニューエイジ」の検索結果

進化論の否定

聖書の世界では、進化論は否定されおり(というよりもそもそも進化論自体が聖書を否定するために生まれたが強い)、まぁこれはマンデラエフェクトなどを見ればわかる通り、確かに直線時間は神の被造物に過ぎず、その視点においても、聖書のロジックは、進化論を否定しうるだけの強度を持っている。まぁ、このことよりもむしろ大事なことは、進化論が、実質的な進化論の枠組みを超えて、神智学の中で、「霊的進化論」という形で取り入れられたことは非常に重要な側面があるといえる。宗教的文化がダーウィンの「霊的進化論」を取り入れたことによって、アセンションなどをはじめとした新しいスピリチュアリズムの文脈が登場した。「霊的な淘汰とそれによる人類進化」という概念も、もともとは聖書的な概念ではなく、あくまでダーウィンの進化論から派生した考え方。スピリチュアリズムにおけるアセンションと、聖書的な携挙という概念の大きな違いを理解するうえでは、こうした「進化論」という背景もしっかりと見つめる必要があると思う。 自己啓発の文脈においても、わりとこのニューエイジ独特の「霊的進化論」は幅を利かせているように思う。こうしたところからも、サタンの介入はあるのだと思う。

占いがなぜ非聖書的か

そもそもの前提として、クリスチャンになって占い師をやめた理由があまり理解されていないが、聖書では明確に占い師やニューエイジ的営みをすることは固く禁止されていて、旧約聖書の時代には死刑に値する非常に重大な罪だった。西洋社会では常識。それを知った上で海外の占星術家などはあえてやっているが、日本ではこうした常識を知っている人が非常に少ない。 「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、 呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。 これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。 あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。」‭‭申命記‬ ‭18:10-13‬ ‭新共同訳‬‬ 「預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、 そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、 その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。 あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。 その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」‭‭申命記‬ ‭13:2-6‬ ‭新共同訳

クリスチャニティのメタフレーム

クリスチャニティのフレームが馴染んできた。それ以前に取り組んできた物事も、さらに色々なメタフレームで見れるようになっていく感じだろうなと思う。特にビジネスの領域は、クリスチャニティのメタフレームがあることで、ビジネスセンスという非言語的な部分が非常に合理的に説明がつく。この辺りはクリスチャニティのフレームが馴染めば馴染むほどに、ウェーバーのプロ倫で論じられるように事業的センスの自己言及性はさらに高まっていくことになると思う。このメタフレームが入ることで、明らかに経営者としての意識の質は、大きく変わる。西郷隆盛をはじめとした明治の志士たちに倫理的、精神的中心を与え、その後稲盛和夫の経営哲学の中心ともなった「天啓愛人」も、クリスチャニティからきた教え。つまり経営哲学とクリスチャニティは非常に深い関係性がある。 経営哲学としての倫理学は無論のこと、波動は聖霊論で一貫して語れるし、ニューエイジにおける自己投資概念ももともとはマラキ書などをベースとした教会への献金が宗教改革で献金先が社会的外部資本に変わったことが挙げられる。自己投資という概念が成り立つのも、そもそも自己=神という信仰があるからであって、汎神論化する前の創造主と被造物という聖書的な理解を深めていけば、その歴史的ルーツに明らかに聖書的倫理観が背景にあることがわかってくる。

聖書学

そもそもキリスト教というから抵抗感が生まれるわけで、「聖書学」といえばいいし、実際プロテスタントの信仰の本質は、聖書学にこそある。この辺がうまいのは、実際にはほとんどマニ教やニューエイジ信仰、呪術的崇拝であるにも関わらず、「文化人類学」「ポストモダン」という言い方をしたことで、実際には単なる信仰であるにもかかわらず、その教義が広がったニューエイジ的信仰形態がある。しかもその本質が宗教であるにもかかわらず、マニ教的、ニューエイジ的信仰は、日本の大学教育の中にも紛れ込むことに成功した。その意味でも日本宣教において、「聖書学」といったほうがむしろ抵抗感は少なくなると思う。伝道師がやるべきことは、信仰の強要では全くなく、あくまで「思惟への奉仕」と「証」である。つまり「思惟への奉仕」と「証」とは「聖書学」以外の何物でもない。つまり「聖書学」で十分ではないかということになる。仏教は前提として、教典を学ぶというフレームがあるので、「思惟への奉仕」と「証」がセットになるし、それを前提に受け入れられているものなので、抵抗がないわけだ。このあたりのプリフレイムやリフレーミングといったセルフプロデュースは、日本のキリスト教世界はもっと自覚的になっていくべきだと思う。

貪欲な狼

占星術師の中には、ニューエイジ文化を裏で暗に批判しながらも、表ではニューエイジを金儲けの手段として使っている人たちがいる。これは聖書的な意味でも、本当に害悪であるし、貪欲な狼だなと思う。少なくとも、そうしたメタ認知できる知性を持っているならば、少なくともそこから離れて、潔くそうした活動は辞めるべきではないかと思う。本当の悪人とは、そういうタイプの人間だと思う。自らの手を汚すことなく、人々をサタンの道へといざなっていく。 そうしたサタンの勢力と霊的に戦っていくうえでも、聖書の御言葉をしっかりと伝えていきたいと思う。主の御名においてお祈りいたします。アーメン。

地の塩であるクリスチャン

マンデラエフェクトを体験しているニューエイジャーに、主イエスキリストを証し、そして、クリスチャンの兄弟姉妹に、ニューエイジャーという罪人がいかに主イエスキリストの十字架によって赦されて、クリスチャンになったのかという証しする、そんな毎日。 世の塩であるクリスチャン。日本の塩分濃度はこれからぐんぐん上がっていくと思う。

六本木や麻布のクラブカルチャー

おそらくキリスト教の日本におけるリバイバルが起こってくる中心の一つが、六本木や麻布といったいわゆる「ワルい」人にとっての憧れの街、そして彼らが集まるクラブミュージックなんじゃなかろうかと思う。イエス様は、我こそは義人だと思っている人に対して宣教したのではない。誰の目から見ても、罪人だと思える人たちと積極的に食事をしたし、今でいうAV女優や風俗嬢のような売春婦とともに時間を過ごて、無償の愛を伝え続けて、十字架の上でその人たちのためにも自分の生命を捨てた。本当に救われるべき人たちは、僕のように占いにはまって、ニューエイジャーになってしまった人だけでなく(わりとこういう人はインテリが多いので自分のことをうっかり義人だと思い込んでいることが多い)、ドラッグをやっている人、犯罪者、風俗嬢など、人生の中で神の栄光に触れることができなかった人たちこそ、本当に意味でイエス様の愛に触れるべきだと思う。これは僕自身がよっぽどそうした人たちよりも、ずっと悪人であることを自覚しているからだし(頭のいい人間の方がよっぽどずる賢いし、自分の手を汚さず、人を蹴落として生きていく)、イエス様が僕のような悪人を一番嫌うことをよくわかっているからこそ。だからこそ悔い改めてクリスチャンになった。一人でも、神の愛を知らずに、苦しんでいる人に、福音を知ってほしい。神の途方もない愛を知ってほしいと感じる。 毀誉褒貶のあるヒップホップミュージシャンのカニエウェストの「ジーザスウェスト」の世界観もまさにこういう世界観。いわゆる教会音楽のゴスペル(ゴッド・スペル/神の言葉)は、当時の被差別層であった黒人音楽がルーツであるし、ニューエイジにおけるある種の讃美歌の位置に占めているビートルズの「imagine」も、当時のロックはあくまで力を持たない人々のためのオルタナティブな音楽だった。当時の社会的な弱者のための叫びに似た音楽という意味では、やはりヒップホップを置いて他にないだろうと思う。こうした文脈から新しい文化の「クール」が生まれてくるし、かっこいいということはどこか常に「悪い」部分があって、そうした「悪」に染まっている罪人こそ、イエス様の十字架において救われていく。これは人類の歴史が証明している確かな事実だ。 カニエウェストのジーザスウォークの日本語訳はこちらから https://w.atwiki.jp/gachmuch/pages/1015.html

罪深いなぁ…(自戒を込めて)

そもそも知恵の実をそそのかせて食べさせた蛇(サタン)がそうであったように、どちらかっていうと、頭のいい人のほうが、わりと罪深いんだよね。その頭のよさゆえに、自分がいかに罪を犯していないか自己弁護するし、敵を作らずに、うまいことを人をくみしていって、自分の手を汚さず、自分の意見をさも正しいかのように通していったりもする。むしろ札付きのワルのほうが、素直で真っすぐで義理堅ったりするものだ。人は見かけによらないというか、意外と悪魔って真摯で、狡猾で、巧妙なんだと思う。だから自分も、「立派なニューエイジャー」だったんだろうなと思う。神様から見れば、人間なんてどんぐりの背比べで、どっちも臭い。神の嗅覚からすれば、人間なんて、どんな偉い人でも、罪の匂いで充満しているものだ。先生、先生といわれて、天狗になっているうちは、あるいは自分が天狗になっていないことに天狗になっているうちは、悪魔の策略の中にいることは気づかないもんだね。しみじみと聖書の御言葉で人間の罪深い心は砕かれるべきものだなと思う。自戒を込めて。主イエスキリストの御名において、お祈りいたします。アーメン。

罪人は常に、主に低く召される。

低く低く召してくださったことはしみじみありがたいことだなと感じる。クリスチャンとして何も誇るところはないし、しみじみ主の愛の深さを日々実感する。これが自分で手に入れた知恵や勲(いさお)なら傲慢にもなるだろうが…しみじみニューエイジャー や占い師だったことは罪人でしかないからね。ありがたいなと実感する。

人は罪を犯すが、信仰によって救われる。

十字架を信じ、また十字架を背負うという方法以外に、人間関係のいざこざや、様々な問題を根本的に解決する方法はないなとしみじみと感じる。やっぱ赦しって大事なんだよな、としみじみと感じる。僕は取るに足りない罪人でしかないが、こうして主の恵みによって召されて生きていることに心から深く感謝するし、日々知らず知らずのうちに積み重ねていってしまう愚かさや罪深さを、しっかりと悔い改めながら、主イエスキリストの愛をもとに生きていきたいなとしみじみと感じる。やっぱ35年も生きていると、大体十戒にかかれている、世の中で知らず知らずのうちにやってしまう罪なんて、ほとんど全部やっているわけで(離婚だって立派な姦淫の罪なわけで)、それにさらに自分の場合は占いやニューエイジ(いわゆるスピリチャル)を信奉するだけでなく、推進さえしていた。本当に愚かだなと思うし、ただただ主の前で、恥じ入り悔い改める日々。 しみじみとあらゆる罪を犯してきているな…と感じる。大体誰から見ても、札付きの悪よりも、よっぽど頭がいい、一見品行方正、優等生タイプな人間の方が…、気づかず悪いことをしているものだ。自分もそうなんだろうと思う。聖書を読んでいると、イエス様の御前で、しみじみと恥じ入るね…。罪を犯さないで生きるなんて、まぁ、無理だよなと。その上でいかに悔い改めるかが大事だなと。こんなとるにたらない罪だらけの自分のために、イエス様が十字架の上で屠られて、贖ってくださったなんて…、やっぱり恵みだなと実感するし、自分もそうありたいな…できるかな?できないかな?いや、なんとかやってみよう!と、今日も教会に行って、しみじみと思う。信仰って、そういう積み重ねなんだなと。まるで、「杉本さん、日進月歩でじっくりとだね」とイエス様がいってくださっているよう。 父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

自己義認の罠

汎神論的な世界ではどこまで抽象度を高めても「自分を愛する」という枠組みを超えることはない。なぜなら神とは自分と他者、世界という境界線をとった最大のもの(ワンネス)であると考え、その中には自分自身も含めるから。またそうして広げてワンネスに行き着いた先には、最終的には仏教の悟りや空/無のように、無神論に帰結するし、決して創造主という真実に行き着くことはない。ここが「自己義認」の罠になっている。現在の汎神論の最も普及した信仰形態となっているニューエイジ (スピリチュアル)的な思想の危険性はここに集約されると行って過言ではない。大事なことは、創造主と被造物の自分という関係性を明確にすること。そして、創造主は常に私たちを愛しており、原罪によって死を体験することになった私たちを、自らの御子を十字架の上で屠って、その罪を贖ってくださったという真実を知ることが何よりも大切。これはどれだけ汎神論的な世界の延長線上で考えても、辿り着くことのない真実。ゆえに一神教は啓示宗教であり、決して人間が考え出した宗教形態ではないということ。これは何度繰り返しても、繰り返し過ぎることはない重要なポイントである。自己義認では永遠に私たちは救われない。大事なことは、自らの罪を悔い改めて、十字架の意味をしっかりと受け止めること。

セッションからミニストリーへ

知を共有するセッションから、信を共有するミニストリーへ変化していく時代がまさに今なのだと思う。僕が占い師を始めたときには、個人セッションという言葉は、ほぼ誰にも使われていなかった。大体の場合、「個人鑑定」と呼んだ。今の時代は、多くの人が当たり前のように「セッション」という言葉を使うようになった。そして、今やセッションという言葉は耐久年数を超えはじめて、ほとんど意味のない言葉、場合によっては単なる悪質な霊感商法や開運商法になりつつある。あるいは、単なる参入障壁の低いお気軽にできる副業や、金儲けのための商材(いわゆる情報弱者ビジネス)に成り下がってしまった。また、SNSの発展によって、セッションをしなくても、すでにその人にとって必要な知識はだいたい手に入れられる時代になった。つまり情報にはほとんど意味がなくなった。今後セッションという言葉は、鑑定同様、古い言葉になっていくと思う。セッションに代わる言葉は、「ミニストリー」だ。まずその前提として、ニューエイジ文化から、クリスチャニティ文化への大きな民族大移動が起こるだろうと思う。すでにニューエイジ文化自体が、商業主義に染まって腐敗してきている今、誰の目から見て明らかに「悪」に染まりつつある―つまり単なる金儲け主義に陥っているということを実感するようになってきている。正しいことを成そうとするならば、必ず正しい思想的なベースをもとに行動しなければならない。成る実を見て、その木を知りなさいということがイエス様の御言葉。大事なことは「知識」ではなく、どのように「信仰」を育むべきだということ。知識を教えてくれる人は無数にあるが、聖書に基づく正しい信仰のあり方を教えてくれる人はほとんどいない。これからの時代はここが非常に重要な価値となると思う。知では決して人は救われない。信を共有してこそ、これからの時代の本当の救いは得られるようになる。日々そのことを確信する。「「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」」ルカによる福音書 6:43-45 新共同訳

マンデラエフェクトという徴と、日本的な信仰形態のパラダイムシフト

日本人は非常に信仰深いので、一度明確な徴が個人的に示されると、一気にそちらに移動することはそこまで難しいことではない。ニューエイジがここまでひろがったのも、要は個人的な徴(神秘体験)がそこにあったからだ。そこで大事なことは、一神教の枠組みの中でしか証明できない徴があった時こそ、日本人の宗教観の大きなパラダイムシフトになりうるということ。創造主が現実をクリエイトしている、自分はあくまで被造物でしかないというインパクトを、マンデラエフェクトは与えてくれる。圧倒的な主の臨在をまさにそこに感じることになるのだ。しかもこれが全て聖書の中にしっかりと預言されているということ、しかも、自分が確かにイエス様の十字架での死と3日後の復活を疑わず、信じていたという事実にも、ぶち当たることになる。そういう徴を、主は分かりやすく啓示してくださっているのだと思う。

パーソナルな神様

ある意味日本においても、仏教や神道といった伝統的宗教が、国際化の波の中でシンクレティズム化(スピリチャリズム化)し、その中で生まれたニューエイジ的 信仰を通じて、「共同体の神」ではない「私にとってのパーソナルな神様」ができた。それによって、「個人の信仰に対する(自己批判を含む)批判の余地」が生まれたわけだ。そして、そこにおいて初めて弁証学的な思弁の可能性が生まれてくるわけだ。そして弁証学的な思弁をしっかりと突き詰めていくと、結果的にいかに新旧両訳聖書の世界が神学的によくできているかという真実に行き着くことになる。結局ユダヤ教のパリサイ人であったパウロも、もともとは(現在のニューエイジ と非常によく似ている)マニ教であったアウグスティヌス も、同様の理由から、クリスチャンとして回心することになったわけだ。

日本人が宗教嫌いな理由 ―「信仰告白」と「弁証学」について

日本人が宗教嫌いな理由に、オウム真理教事件に代表されるカルト問題や、宗教特有の組織的な問題(人間関係の問題や、力によるコントロールなど)を上げられることが多い。しかし、本質的によく考えてみたら、「信仰告白」と「弁証学」という文化がないからなんだわ。 「信仰告白」とは、「自分がどんな神を信じているかを表明すること」であり、「弁証学」とは、「なぜ自分がその神を信じているか、逆に他の神をなぜ信じないのか」を弁証することを意味する。 そもそも日本的な汎神論、多神教的な信仰文化において、「信仰告白」をしたところで、同じ日本人でも信じている神様はバラバラだし、そもそも自分一人の信仰においても信じている神は常に移ろう。それこそ仏教だったり、神道だったり、時にキリスト教だったり、自然崇拝だったり、ニューエイジだったり、あるいは占いだったり、宗教をメタ認知してアカデミックにとらえる文化人類学的な視点だったり、時に一切の神を否定する共産主義的思弁だったりと、定まることは無い。たとえ移ろう信仰の対象を、告白をしたところで、そもそも信仰のあり方がケースバイケースの御都合主義でひとつの信条に定まっていないので外部からの批判の対象になりえない。それゆえ、弁証学的な思弁を持つ必要もない。そして、そもそも信仰告白をする理由も必要もないので、たとえ、どんな信仰を持っていても他者から批判されるなんてことも一切ない。むろんキリスト教世界が、その長い歴史の中において自らの信仰形態について自問自答し、その中で生まれてきた自己批判からフランス革命のような市民革命、ニューエイジ文化における反戦運動や、ポストモダン/ポストコロニアル思想を生み出していったような、自己批判するダイナミズムも、日本的な信仰文化においては存在しえない。 ある意味こうした信仰文化である以上、どう考えても、日本においては「私の宗教」を持たない方が、日本に住む上で圧倒的に安全圏内の中でいられるわけだ。 それゆえ、もし自分がある特定の「宗教」を信じるとなると、話が一転する。その瞬間から、それ以外の神を信じることが形式上禁忌となるわけで、その時点から「信仰告白」をしなければならなくなる。そして、「信仰告白」をすれば同時に、なぜ自分がその神を信じるようになったかについて、外部からの批判にさらされ始めるので、「弁証学的な思弁」を身に付けなければならなくなる。 実際にその神によって個人的に救われたというとても強い体験的な理由がなければ、わざわざこうした「信仰告白」や「弁証学的な思弁」を身に付けることは、わずらわしいことであるし、そもそも「信仰告白」をした時点で批判にさらされ始め、人間関係におけるリスクでしかあえり得ないので、わざわざそんなめんどくさいことをしたくないというのが、大きな理由になるのだと思う。 日本が近代化の中で、明治時代に国家神道を制定したのも、ある意味諸外国の一神教的な信仰から、鎖国以外の方法で自らの国体を守るために、「信仰告白」と「弁証学」のフォーマットを作らなければならなかった。それゆえ、仏教を廃し(廃仏毀釈)、「私は天皇陛下を信じます」という「信仰告白」のフォーマットを制定し、その上で、いかに天皇陛下が素晴らしい存在であり、そのほかの宗教よりも優れているのか(国家神道の場合は、万世一系で、世界の中で最も古い歴史を持つという神学的背景を強調する)という分かりやすい信仰形態を、当時の政府が準備し、教育に組み込んだ(教育勅語)ということ。 戦後、天皇陛下の人間宣言によって、あくまで象徴に過ぎず、すべての国民を統合する「信仰告白」の対象ではありえなくなり、また戦前の「弁証学」そのものが、日本を狂った方向へ暴走させた詭弁ということになり、国家神道そのものはGHQによって解体された。 それゆえ、戦後は「信仰告白」と「弁証学」の両方を持ちえない独特な宗教環境の中で、人々が共通して信じうるものが「経済的な繁栄」というところに落ち着くことになった。しかしこの経済的な繁栄という神話が終わろうとしている今、あらためて、自らの信仰をどこに置くべきか、各々が思い思いに自分なりの答えを探していて、それが日本特有のスピリチャリズムやニューエイジ文化に繋がっているのだと思う。 そして、逆に「信仰告白」と「弁証学」を伴わない、汎神論優位主義の主張は、その構造上どうしても稚拙な「キリスト教は、戦争の宗教であり危険な宗教だ」といった、「鬼畜米英」といっていた時代と大して変わらない偏った先入観に陥ってしまう。 日本がSNSや、今後AIによる翻訳技術の発達などで、言語の壁を超えていったときに、まずでてくる信仰上の問題は、こうした「汎神論優位主義」という「井の中の蛙大海を知らず」という問題だ。このことについてしっかりと向き合っていくことはとても大事だし、いずれにせよ自らの「信仰告白」や「弁証学」抜きに、「日本特有の多神教優位論」や、「日本的な信仰形態に近いインディアンやアイヌの文化を持ち出して、汎神論的な自然崇拝こそ素晴らしいと誇るような、よくある文化的色眼鏡」は、異文化を理解するための国際的な感覚に欠け、決して平和的な思想からは程遠いのではないだろうかと思う。 海外に留学して、宗教的な議論を交わして、日本がいかに素晴らしい国かをよく知って、進んで神道や仏教を調べて、自らの信仰を明確にする人が実際に多いように、やはり自身の信仰をメタ認知することはこれからの時代はますます大事なものになるのではないかと思う。 まぁ、そもそもこうした個人の「信仰告白」やそれに伴う「弁証学」といったことを、個人個人が発信できるような時代になったということで、おそらくこれ自体は世界中で起きてくることだし、特に、世界の中でわりとガラパゴス的に隔離されてきた日本でも、SNSの台頭や、今後のAIによる言語の壁の崩壊によって、こうした流れは今後増えていくのではなかろうかと思う。 と当時に、ある意味日本人がその長い文化の中でずっと避けてきた「信仰告白」や「弁証学」から目を背けるひとつの弱さに向き合わなければならない時代が近づいてきているといえるのではないだろうか。 シンプルにいうと「信仰告白」ってめんどくさいっていうことなんだなと思う。「信仰告白」してしまうと、わざわざ人に説明するためのコミュニケーションコストが増大する上に、そもそも日本においてそれをする必要もメリットもないということ。民族、言語、宗教が同じ国土内で一致している稀有な国だからね。同じアジアでもシンガポールのように、多種多様な人種や宗教がある環境とはやはり大きく違うんだよね。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/単一民族国家それが今後SNSとAIの進化による言語の壁の崩壊で、バーチャル空間はどんどんシンガポール化していくからね。ここが今後の日本の信仰の危機とも深く関係していくと思う。すでにそれは日本のニューエイジ 化で現れ始めている。

プレモダン的信仰形態からの脱却

日本人は宗教と聞くとすぐにアレルギー的反応を示す人が多いが、そもそもこういう西洋世界における信仰と知性という共立を知る機会がなく、なおかつ檀家制度によって実質的に神学的な構造を持たないアニミズム的信仰、もしくは多くの場合それすらもない無宗教になっていったわけで、単なる宗教に対する無知でしかないなと深く実感する。そのわりにニューエイジ的なもの、いわゆるスピリチャル、自己啓発に対しては抵抗感なく入っていく。無論、それが現代的な宗教だということに気づいていない。自分が宗教のど真ん中にいるにもかかわらず(そしてそれがわりとプレモダンな枠組みの信仰形態をとっているにも関わらず)、宗教を否定するという謎の構造になっている。洗練された神学的思考を持たない人の人生は、一向に洗練されることは無いし、無知蒙昧の迷いの中に生き続けることになる。その意味でも宗教的な世界をしっかりと学ぶことは、人生の基礎になるとても重要な土壌になるのではないだろうか。そして、イエスキリストは、すべての人に、信仰のみによって救ってくださる福音を伝えてくださった。自分の功(いさお)に頼らず、信仰のみによって、優れた神学的構造を自分の人生の中に取り入れられる。これほどの恵みはないと、いろいろな宗教を研究してきたからこそ深く実感する。福音はすべての人のためのものなのだ。

日本特有のポストモダニム

汎神論的世界観を離れて、一神教的な世界を受け入れると、デカルト、ベーコン、パスカルなどの近代合理主義の骨格がどのようにキリスト教世界から生まれてきたかが見えてくる。日本の近代化は外発的なものだったが、内発的な近代化は、そのベースにある汎神論から一神教への世界観のメタ認知とシフトが欠かせないと深く実感する。神を否定して科学や合理的思弁が生まれたのではなく、神を信仰するゆえに、無知蒙昧を廃して、科学や合理的思考が生まれてきたという内発的な近代化のリアリティを知ることは非常に大切だ。汎神論的な世界からは決して科学的思考は生まれてこないし、あくまでそれは外発的なものにすぎない。汎神論的な世界をベースにして、科学のふりをした疑似科学をオカルトという。こういう視点からオカルトというのは科学とキリスト教の両面から批判される。特にキリスト教世界から否定されるオカルト性については、日本の汎神論的文脈からはピンとこないが、まずは聖書を読んで、そこからベーコンやデカルト、パスカル、カントなどの著作を読んで、理性とは何かということをしっかりと踏まえなければ、決して科学とも合理主義とも呼べないオカルト的な無知蒙昧に陥ってしまう。これがポストモダンでもなんでもなく、単なるプレモダンでしかないということ。ポストモダンのふりをした、単なるプレモダニストによるモダン批判、ポストモダン礼讃は、無知や不勉強でしかない。つまりポストモダンを語るならば、聖書はちゃんと読んだ方がいいし、キリスト教神学はしっかり学ぶべきだと思う。聖書のパウロ書簡は無論のこと、アウグスティヌス 、トマスアクィナス、ルター、カルヴァンなどは最低限抑えるべきだ。その上でシュライエルマッハーやカールバルト などを読むべきだ。プラトンやアリストテレス、ベーコン、デカルト、パスカル、カントだけを読んでその延長で西洋文明をわかったつもりになって、ニーチェ、ハイデッガー、フーコーや、ドゥルーズ、デリダ、フロイト、ユングなどのポストモダン/ポストコロニアル的視点から近代合理主義に対する批判を加え、ポストモダン的な視点に立ったつもりになるのは、単なる無知蒙昧としか言えない。日本のアカデミズムには、そもそもアカデミズムのベースとなる近代合理主義の土壌となったキリスト教神学が決定的に抜けていることを、自覚しなければいけないと思う。隣人たちが持つ一神教的な世界への理解抜きに、汎神論優位主義に立って物事を考えるのは島国根性以外の何者でも無い。日本人が総じて占いや迷信が好きというのは、近代化が内発的なものではなく、外発的なものであったということ。そして同時に、それはポストモダン/ポストコロニアル的な視点から礼賛されるべきことなのではなく、単純な無知ゆえの恥ずべき反知性主義でしかないということ。日本に民主主義がなかなか根付かないのも、結局のところこういう外発的な近代化という側面が大いに関係していると思う。そうした意味でも日本におけるリバイバルを通じて、真の意味で日本人の思惟の段階を、内発的近代化というこれまで何百年間も見落としていた落し物を私たちは拾うことになると思う。わりと自分が受けた大学教育が、ポストモダン/ポストコロニアル的な文化人類学等の文脈を持った教授陣だったので、キリスト教神学を学べば学ぶほど、井の中の蛙大海を知らずという状態だったんだなとしみじみと感じる。ポストモダン/ポストコロニアル的な教育を受けていなければ、占い師になろうなんて思わなかったし、ニューエイジャーの騎手になることもなかったと思う。教育ってものすごく大事だなと思う。海外留学をしていれば、こうしたことは防げただろうなとしみじみと思う。知性だけでなく、信仰を持つことがいかに大事か、それが相互に深く関係しているということを、大学を卒業して12年経って深く実感する。知性と信仰は相反するものではなく、むしろ相互に深く共立する関係にあるのだと思う。

エモとチルは、本物志向の時代への中継点

階級社会化していく中でのマーケティングのトレンドとしては、矜持(きょうじ)をいかに持つかということにかかってくると思う。特に表参道を中心として、ファッションや、美容関係の経営コンサルの仕事を中心として、この6年間ブランドビジネスを展開する中小企業の経営者のアドバイスに従事してきたが、やはりこうした時代感を読み解くということは非常に大切なこと。今の時代は特に2016年以降メルカリやZOZOの台頭により、シェアリングエコノミーが台頭し、これまでの所有感に訴えかけるような高級品志向のマーケティングは機能しなくなってきている。むしろ時代のトレンドは、エモさと、チルが、キーコンセプトになっている。こうしたエモさと、チルさが収斂していく方向性は、おそらく次第に「本物志向」に進んでいくのだと思う。商品のつくり方も常に時代感をベースに設計していかなければならないし、ただ眼の間にある流行に乗るのではなく、常に先に来る流行を先読みしていかなければならない。それが商売の基本である。ここ数年本拠地としてきた「表参道」の持つ意味合いも、時代の変遷によってやはり大きく変わってきていると肌で実感する。盛り、映えの時代が終わったという感覚はすでにこの2年くらいの街の雰囲気で実感していたが、おそらく今のエモとチルは、「本物志向」という次にやってくる波の、中継的なものになっていると思う。ブランドビジネスを展開する中小企業がとらえるべき、今後のビジネスの方向性としては、この「本物志向」のブランディングをどのように考えるか。特に30代半ば以降、あるいはもっというと50代以降の「本物」を体験できた世代だからこそ、この文脈をメタ認知することは非常に大事。経営は、常に変わらない軸を持つことと同時に、その時代の空気感をしっかりと読み解いていく感性に磨きをかけていくこと、勉強を続けていくことを欠かしてはならないと思う。 多くの場合本物に触れてきた世代である50代以降の経営者世代は、自らが持っている文化的資産(日本が物的に豊かだった時代に経験した本物志向のセンス)に対して、多くの場合無自覚。これは10代、20代の声に耳を傾けないと見えてこない側面だし、そもそもデジタルネイティブではないので、情報に経済的な価値を見出すという文脈に疎い場合が多い。多くの場合、たくさんの文化的資産を持っていたとしても、宝の持ち腐れになっていることが多い。若い人は、決して高級品を買わなくなったのではなく、むしろ「本物」を求めた結果、表面的な豊かさに惑わされなくなっていっただけ。つまり今後、「本物」を知る世代が、うまく自分の文化的な道のりを客観視して、それを独自の商品に変えていくのかということが、とても大事なテーマになっているのだと思う。僕が、経営コンサルでアドバイスしていく大枠はそういうことだし、上の世代で築いてきた文化的資産をどのように情報資産に変えていくのかということは、今後も非常に重要なテーマとなっていくと思う。銀座がそうなっていったように、表参道も若者の街から、この20年で、次第に矜持を持つミドルエイジからシニア世代の街へと変貌を遂げていくと思う。その中で、「文化的矜持」に自己言及できるかどうかが、これから先の経営戦略において非常に大事なものとなっていくだろうと思う。 中小企業の経営は、特にこの10月から始まる消費税増税における消費動向の変化に対応できなければいけない。経営というのは常に生ものなので、時代を読み違うと、いままでのうまく行くやり方に固執していると、わりとすぐに事業は立ち行かなくなるものだ。しかし、なかなかそこまでゆっくりと考えられるほど経営者には時間がない場合が多いし、そういう方々の相談にこれまでも数々乗ってきたし、喜ばれてきた。そもそも今の時代は、慢性的な人手不足時代になり、良い人材を雇うにもコストがかかる時代。まして労働力に頼るのではなく、事業戦略そのものの抽象度を高めて、時流に合ったビジネスのシステム化をはかっていかなければ、生き残るのが難しい時代に入ってきている。そういう時代だからこそ、人を雇うよりも安く、なおかつ、自分の事業をメタ認知するために必要な豊富な経験を知識を持った、アドバイザーである経営コンサルをうまくスポットで使っていってほしいなと思う。 あと、商売のセンスを磨くうえでも、聖書の世界の教養は非常に大事。決してニューエイジ的な思想では、ビジネスセンスは身につかない。商売の基本はヘブル主義にこそある。

福音の種を蒔くこと

御言葉を伝えていくこと、福音宣教をしていくということは、素直に悔い改め、救われる方もいれば、聖霊に満たされ涙を流しながらイエス様に感謝を捧げる方もいる。福音を聞いたこときっかけにしてイエス様について考え始める方もたくさんいるし、また批判的に捉え拒絶したり、中には築いてきた関係性を切って去っていく方や嘲る方まで、色々な方々がいる。 また、この2週間だけでも、聖書の御言葉を通じて、夫婦の危機を乗り越え、離婚を踏みとどまった方が2組もいる。ニューエイジ的な思想のルーツはそもそも人間性回復運動や、ウーマンリブやペイガニズムなどの女神信仰にあるので、基本的な方向は、少しでも問題があれば、女性の社会的自立を勧め、離婚に舵を切るようなベクトルに向くことが非常に多い。僕自身もニューエイジ的な思想をベースにして、これまでに2度離婚を経験してきたからこそ、このことをメタ認知することも大切だなとしみじみと思う。 聖書を読み始めて、いかに自分がニューエイジ的な思想に染まっていく中で、日々消耗していたかに気づいて、驚愕する方も多い。 これは当時からそうだったわけで、何もいまに始まったことでは無い。僕にできることは、あくまで思惟への奉仕と証のみ。淡々と福音を伝えていくことが大事だなとしみじみと感じる。結局のところ福音が人を救う力は途方も無いものがあることをよく知っているので、パウロが「わたしは福音を恥としない」と語る通り、人生をかけて一貫性を持って伝えていくことが大事なんだと思う。 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」‭‭ローマの信徒への手紙‬ ‭1:16‬ ‭新共同訳 僕の周囲ではすでにありがたいことに、福音を知って、聖書を読み始める人も増えてきたし、福音の素晴らしさを知るとやはり今の時代にいかに必要なものかも深く感じ取っていただけている。 その中でつくづく思うことは、ニューエイジ 的な思想の問題点をメタ認知していない場合、種を蒔く人の茨のたとえのように、いくら福音の種が蒔かれても、茨が覆いかぶさり、実を結ばないなということ。 特に今の時代はGAFA自身がニューエイジ 的な設計思想に基づいて作られているので、その仕組みをメタ認知せずに、エコーチェンバー化の中にいると本当に気づきにくい。ある意味エコーチェンバー化は、種を蒔く人のたとえの中の「茨」のようなものだなと感じる。 この聖句は、種を蒔く人、すなわち福音を伝える人を励ますもので、種が身を結ぶかどうかは、種や種を蒔く人の責任ではないので、うまく実を結ばないからといって自分を責めずに、あまねく広く福音を伝えなさいと説いたイエス様の御言葉として有名。しみじみと奥が深いなと感じる。 「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」」‭‭マルコによる福音書‬ ‭4:1-9, 13-20‬ ‭新共同訳‬‬

クリスチャニティはインフルエンサーから始まる

おそらくエコーチェンバー化の矛盾やある種の危機感を一番抱えているのは、SNSのど真ん中にいるインフルエンサーたちで、おそらくクリスチャニティ 自体が受け入れられていくのは、インフルエンサーたちなんだろうと思う。割と今はこのインフルエンサーたちの思想は、GAFAによって牽引されてきたニューエイジ 的(ルネサンス的人間中心主義)の思想なのだけれど、これは歴史上で見たときに必ずリバイバルという形で反転する時がくる。そして多分そのインフルエンサーたちの影響力ゆえに、一度発火すると一気にリバイバルの火は燃え上がっていくと思う。結局のところ今の時代一番メディア力を持っているのはインフルエンサーだからね。 そもそもマスメディアがなかった時代に、キリスト教が広がったのは、まさにインフルエンサーを中心とした口コミだったわけで、その意味でもパウロやペテロも、インフルエンサーだったんだよな。時代の変遷は必ず、ニューエイジ(ルネッサンス/人間性回復運動)から、クリスチャニティへ(リバイバル/信仰回復)と移行する。そういうダイナミズムがこれから大きく働き始めると思う。本当に。

福音の伝道師になるということ

そもそもキリスト教は、「宗教的排他主義」をとるわけで、その時点で人の世の価値観からすると「コミュ力が低い」宗教になる。人の世で、相手に対して「お前の価値観は間違えていて、俺の価値観は正しい、なぜなら…」なんていい始めたら、コミュ力以前の問題で、人間関係は破綻する。 そもそも福音の伝道師になるということは、コミュニケーションが、このフレームからのスタートとなる。僕も福音伝道は常に、自らが心を込めて長年築いてきた人間関係が破たんするかもしれないといつもひやひやしながら活動している。その分、口数も多くなるし、多く語れば語るほど、うざくなる。冷静に考えてみても、嗚呼なんて、うざったいセールスマンなんだ! キリスト教が宗教的排他主義というフレームである以上、誰だってコミュ力の低い人間になるわけだ。 それこそ仏教や神道、スピリチャリズムのとる宗教多元主義は、「あなたのいうことを尊重します」から始まるので、非常に「コミュ力の高い」宗教だ。いや、「コミュ力が高い」というよりも、むしろ相手を尊重することは、コミュニケーションの常識だ。だから人としての常識をわきまえた宗教だ。ニューエイジの世界も、どの神様が一番なんてないし、いろいろな神様がいてOKだし、自分の好きなものを信じて、ワクワクすることをしようと伝えるわけで、そもそも絶対的な善悪の基準すらもない。ある意味、こんなにコミュ力の高い宗教もないわけだ。 「好意互恵性」は、コミュニケーションの基本だ。人の世の価値観で考えると、そうしたコミュニケーションの基本すらないのが、キリスト教がとる「宗教的排他主義」だといえる。 しかし、非常に興味深いことは、この「コミュ力低い」はずの宗教的排他主義という構造を持つキリスト教が、なぜか世界では30%の人が信じるほどの世界で最も多い宗教にまでなっているのかということ。戦争ばかりして、力でねじ伏せてきたから?いや、そんなことはないということは以前の記事に詳しく書いた。https://vrchurch.online/aboutwars そして、当時は世界で最も信仰が多かった(つまり当時コミュ力が異常に高かった)現代のニューエイジと非常によく似たマニ教などは、今や見る影もなくなっている。 そして、こんなコミュニケーションにおいてハンデとしか言えないようなフレームであっても、救われたと感じて主に召された人は、皆すすんで福音を伝えていこうと決心する。そしてどんなことがあっても、イエスキリストこそ、主ですと宣言する。たとえ無実の罪で殺されようとも。 そうやって2000年間続いてきたのにはどんな意味があるのだろう?何が人をそこまで燃え上がらせるのだろう? ここに福音の神秘があるのだと思う。それはこの福音のメッセージが真実であるからに他ならない。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」ヨハネによる福音書 3:16-18 新共同訳 さぁ、今日も聖霊の炎に燃えながら、十字架を背負って、進んでいきたいと思う。アーメン!

嗚呼、主よ、あなたを賛美します!

パウロは燃え上がるセールスマンなんだと思う。そもそもセールスマンが好きな人なんかいないように、宗教の伝道者(伝道マン)が好きな人なんていない。商品がいくら良くたって(効用=信じるだけでもう死ななくなるというものであってすら)、結局のところ、それを聞く相手にとっては人と人とのコミュニケーションなのだから、コミュ力って大事なんだなと思う。いくらセールスマンの手元にいい商品があったとしても、その商品の説明書をくどくどと説明されたり、相手を人として尊重しないような礼に書いた接し方をしていると、どれだけ商品が良くても、「どんだけいい商品かしらんが、すくなくともあんたからは買わんわ」となる。伝道マンにとって、ラポールの形成は非常に大事。それを、イエス様は、僕(しもべ)になりなさいといったわけだ。広がらないのは福音の責任ではなく、完全に人の問題。特にキリスト教で救われた人って、そもそも僕を含め、社会経験で挫折した時などに主に救われているわけで、ベースとして人との関係形成能力が低く、コミュ力が低い場合が多い。そもそも神様は、罪人を愛されていて、完璧な人間よりも、でこぼこの個性的な人間を選ばれる傾向がある。パウロも実際に手紙では雄弁だったけど、実際に会うと決してコミュ力が高かったわけではない。しかし、同時に、彼は常に彼は聖霊の炎で燃え上がっていた。それは、結局のところ、自分が救われたように、人に救われてほしいという、捨て身の投げうってキリストに従う覚悟と、自分を迫害する相手すらも無条件で愛する無償の愛と、志をともにする熱い仲間たちがいたからなんだと思う。僕は決して社会的なコミュ力が高いわけではないし、そもそもキリスト教世界からすると禁忌とされるような占い師やニューエイジをずっとやってきた、クズみたいな人間なわけだけれど、そんな僕でも主は赦して、愛してくださった。そして、細かい部分では信条は違えど、素晴らしい仲間に恵まれつつある。 嗚呼、主よ、あなたを賛美します!あなたに全てを捧げたいと願います!主イエスよ! この愛を、精一杯伝えていきたいと思う。主の御名においてお祈りいたします。アーメン。

【ベツレヘムの星便り】362号 ジーザスとともに歩む道

◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り) 2019/8/4                                 362号こんにちは、杉本譲治(旧ユピテルジョージ)です。 今日は古くからの占星術師の友人と10年ぶりに会って、近況報告と同時に、なぜ占星術師を辞めて、クリスチャンになったのかという証をさせていただきました。 その友人は、もともと占星術だけでなく、仏教などをはじめとした神学的な教養を持っている方なので、静かに「ふむふむ」とうなずき、最後まで聞き手に徹して聞いてくださいました。 主が与えてくださった証であるマンデラエフェクトも、ほぼすべて共有ができ、また聖書の背景にある神学や、現代のニューエイジ信仰の危険性などもしっかりと耳をそばだてて、聞いてくださいました。 そして疑問点なども忌憚なくぶつけていただいて、それらも丁寧にお話をしていく中で、なるほどという形でいろいろキリスト教というものに関して持ちうる誤解も解けていったのです。 2年半の証のほぼすべてを数時間の間に怒涛の如く話したので、聞いてくれた友人の方はものすごく大変だったと思います。 しかし、聞き手としての平和な心と深い共感力、そして、抽象的な世界に対する理解力というたぐいまれなる賜物を持っていらっしゃる方であり、もともと世界中を旅して、宗教的な造詣に深い方であったので、話し手としてはとても助かりました。 そして、この数年の中で証をしてきた方の中でも、僕が回心するにいたった道のりを最もよく理解していただけた方だったなとしみじみと感じました。 僕の冗長な、延々と続く小難しい話を、忍耐強く聞いてくださったのは、昔からともに合宿をしたりしながら学んだよき友人であるから、背景に深い信頼関係があったということも非常に大きかったと思います。 そして、最終的には、聖書の中心的なテーマである「永遠の生命」や「キリストの復活」についても深く理解していただけました。 それらすべて話し終わった時には、やはり聖書で啓示されている内容が、汎神論や、多神教といった、伝統的な日本の信仰形態という非クリスチャン的な観点から見ても、その救いの教理に、一切の論理的な矛盾点がないという共通認識にも至りました。 さらにそこにマンデラエフェクトという共有できる主の栄光の徴が現れたことで、信じる信じないではなく、「真実だと悟る」ことになったこと、それゆえ、占い師としてのキャリアや経済的な安定の全てを捨てて、クリスチャンになった(むろん経済的な安定などない)という人生の変容についても、僕自身の視点で追体験する形で理解していただけました。ありがたいことです。 そして、ここまで深くお伝えできても、決して僕には、人を回心させるような力は1ミリもありません。 こうして僕を語らせているのは、主イエスキリストであり、また、聖霊の働きなのです。 僕が、主に召され、それまでの人生の全てを捨てて、100%クリスチャン、100%主イエスキリストの僕(しもべ)として生きるようになってから、できることといえば、思惟への奉仕、そして、証を続けていくこと。 「何事にも時があり、天の下の出来事には定められた時がある。(中略)人が労苦してみたところで何になろう。私は、神が人の子らにお与えになった勤めを見極めた。神はすべてを時宜(じぎ)にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」(コヘレトの言葉3章1~11節) という聖書の御言葉がある通り、僕が体験したような回心を、もし聞いてくださった方が今後の人生の中で体験することがあったとしても、それはあくまで神の御手によるものであって、伝道者の行いによるものではないということは大切なことです。 思惟への奉仕と証。 伝道者にとって、主から与えられたその2つの役割以外については、全てを父と子と聖霊の働きに委ねることになります。 ただただ僕は、主の僕(しもべ)であって、また同時に、話を聞いてくださるお相手の方の僕(しもべ)でしかないのです。 この世界を造りたもうた創造主と、愛する人々に対して仕えること、そして、時に僕を迫害する人々にさえ仕えるということであったとしても、 やはりそれは僕にとっては、心からの喜びであるのです。 本当に一人でも多く福音を知っていただくことで、「永遠の生命」を得て、この世界の万物を創造した主を褒めたたえる喜びを、伝えていけたら嬉しいなと思います。 ジーザスとともに歩む道。主の平和があなたとともにありますように。 父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。 【個人セッション】聖書の御言葉を通じて、自分の心を「無償の愛」で満たす人生の困難に行き当たった時、判断に悩む時、あなたの手元に一冊の聖書と、主イエスキリストへの信仰があれば、常にあなたの道のりを、明るく照らしてくれます。 人生はいいことばかりではありません。しかし、どんな時でも救い主イエスキリストは、あなたのことを見守り、愛しておられます。 この個人セッションでは、聖書的な人間理解、主イエスキリストの信仰をベースとしながら、時間をたっぷりととったマンツーマンのカウンセリングをご提供し、あなたの人生がより良い方向へ向かうように祈り、また、献身させていただきます。 「心の貧しい人々(謙遜な人々)は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイによる福音書 5:3-12 より 新共同訳 ) ▼時間の目安 60分から90分程度▼料金 本カウンセリングは、キリスト教の献身の精神に基づいた活動となるため、特定の料金は定めておりません。あなたがふさわしいと感じられる、主への感謝の気持ちを込めた献金という形でお納めくださいますようお願いいたします。 ―――惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。 (コリントの信徒への手紙二 9:6-7 より 新共同訳) ▼スケジュールの関係上、月10人までのお受付となります。何卒、ご理解、ご了承ください。▼日時 お申し込み後に、ご希望の日時を調整いたします。▼場所は、表参道(東京都)のサロンとなります。ご予約後に住所をお伝えいたします。▼ご遠方の方は、スカイプやLINE、ZOOM等のビデオ通話を使った形にてもご提供いたします。 ▼ご予約はこちらからどうぞhttps://vrchurch.online/personal_session メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)発行者:杉本譲治▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。 ▽本メールマガジンの配信登録/解除はこちらからhttps://j.bmb.jp/bm/p/f/tf.php?id=r_bridge(c)2019 George Sugimoto All Rights Reserved.

ジーザスとともに歩む道

今日は古くからの占星術師の友人と10年ぶりに会って、近況報告と同時に、なぜ占星術師を辞めて、クリスチャンになったのかという証をさせていただいた。その友人は、もともと占星術だけでなく、仏教などをはじめとした神学的な教養を持っている方なので、「ふむふむ」と静かに最後まで聞き手に徹して聞いてくださった。主が与えてくださった証であるマンデラエフェクトも、ほぼすべて共有ができ、また聖書の背景にある神学や、現代のニューエイジ信仰の危険性などもしっかりと耳をそばだてて、聞いてくださった。そして疑問点なども忌憚なくぶつけてもらって、それらも丁寧にお話をしていく中で、なるほどという形でいろいろキリスト教というものに関して持ちうる誤解も解けていった。2年半の証のほぼすべてを数時間の間に怒涛の如く話したので、聞いてくれた友人の方はものすごく大変だったと思う。しかし、聞き手としての平和な心と深い共感力、そして、抽象的な世界に対する理解力というたぐいまれなる賜物を持っていらっしゃり、もともと世界中を旅して、宗教的な造詣に深い方であったので、話し手としてはとても助かった。そして、この数年の中で証をしてきた方の中でも、僕が回心するにいたった道のりを最もよく理解していただけた方だったなとしみじみと感じた。 僕の冗長な、延々と続く小難しい話を、忍耐強く聞いてくださったのは、昔からともに合宿をしたりしながら学んだよき友人であるから、背景に深い信頼関係があるということも非常に大きかったと思う。そして、最終的には、聖書の中心的なテーマである「永遠の生命」や「キリストの復活」についても深く理解していただけた。それらすべて話し終わった時には、非クリスチャンから見ても、やはり聖書で啓示されている内容が、汎神論や、多神教といった、伝統的な日本の信仰形態という観点から見ても、一切の論理的な矛盾点がないという共通認識にも至った。さらにそこにマンデラエフェクトという共有できる種の栄光の徴が現れたことで、信じる信じない(これだとまだ背景に疑う姿勢がある)ではなく、もはやこれは主が与えてくださった所与のものとして「真実だと悟る」(もはやこれは真理として受け入れている)ことになって、占い師としてのキャリアや経済的な安定の全てを捨てて、クリスチャンになった(むろん経済的な安定などない)という人生の変容についても、僕自身の視点で追体験する形で理解していただけた。ありがたいことだ。そして、ここまで深くお伝えできても、決して僕には、人を回心させるような力は1ミリもない。こうして僕を語らせているのは、主イエスキリストであり、また、聖霊の働きなのだ。僕が、主に召され、それまでの全てを捨てて、100%クリスチャン、100%主イエスキリストの僕としていきるようになってから、できることといえば、思惟への奉仕、そして、証を続けていくこと。「何事にも時があり、天の下の出来事には定められた時がある。(中略)人が労苦してみたところで何になろう。私は、神が人の子らにお与えになった勤めを見極めた。神はすべてを時宜(じぎ)にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」(コヘレトの言葉3章1~11節)という御言葉がある通り、僕が体験したような回心を、今後もし聞いてくださった方がするとしても、それはあくまで神の御手によるものであって、伝道者の行いによるものではないということは大切なことだ。思惟への奉仕と証。伝道者にとって、その二つの神から与えられた役割以外については、全てを父と子と聖霊の働きに委ねることになる。ただただ僕は、主の僕(しもべ)であって、また同時に、話を聞いてくださるお相手の方の僕(しもべ)でしかない。この世界を造りたもうた創造主と、愛する人々に対して仕えること、そして、時に僕を迫害する人々にさえ仕えるということであっても、やはりそれは僕にとって心からの喜びである。本当に一人でも多く福音を知っていただくことで、「永遠の生命」を得て、この世界の万物を創造した主を褒めたたえる喜びを、伝えていけたら嬉しいなと思う。ジーザスとともに歩む道。主の平和があなたとともにありますように。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

クリスチャニティの素晴らしいところ

僕のようにクリスチャンの信仰告白をしてすぐに、超教派的な集会に出ると、大学生の新歓コンパのようにそれぞれの教会へのお誘いを受けるのだが(むろん皆さん熱心なので心からの愛でそうなさっている)、教派や、信条が違っても、結局のところ、熱心な信仰を持っていらっしゃる方ほど、イエスキリストを頭としたひとつの身体(普遍的教会)であるということを熟知されていらっしゃるので、たとえ一時的にその場ではお断りしたとしても、何のわだかまりもなく普通のお付き合いがしていける。たとえ真反対の信条を持っていても、何の問題もなく温かい人間関係を築いていけるという不思議な(あるいは恵み深い)構造がクリスチャニティ。ニューエイジ的な文脈になると、これがそうはいかない。引き寄せの法則という信条によって、波動が違う人とは違う世界を形成すると信じているので、決して「汝の敵を愛せよ」とはならない。このあたりが、結局最終的に、ヘレニズム主義が台頭した後に、クリスチャニティが広がるという歴史的必然性に繋がっていくのだと思う。個人の感情によるものなのか、主が啓示された御言葉によるものなのかという違いは非常に大きい。特にエコーチェンバーの場合は、関係性内部での同質化が高まってくると、 最初は気にならなかった微妙な違いをお互いに意識するようになり、その結果新しい分断をもたらしていくというようなことがよく起こる。やはり時代の分断を生み出しているエコーチェンバーを乗り越えていく方法は、クリスチャニティにこそあると日々深く感じる。

GAFAルネッサンスから、福音派リバイバルへ

諸外国ではGAFAルネッサンスからの福音派リバイバル、日本では階級社会化に対するマルクス主義的アカならぬ、イエスの十字架の血の赤、という風になっていくんだろうね。 GAFAルネッサンスというフレームが一番分かりやすいな。結局日本のニューエイジの浸透も、GAFAルネッサンスの文脈上にある。 そしてGAFAルネッサンスの上に、今度は階級社会化とクリスチャニティ のリバイバルという流れが生じてきているのはまさに時代の必然性と言えるのではないだろうか。

階級社会化する日本の中で

経済指標から追ってみても、確実にこういう流れが来ている。ニューエイジ 思想にはこういう状態を救う教理が存在しない。日本でもすでに2016年以降急速に進行していっている階級社会を救う思想は、クリスチャニティ しかあり得ないと思う。 https://news.line.me/issue/oa-newspostseven/2acb3680aebf?utm_source=Facebook&utm_medium=share&utm_campaign=none&fbclid=IwAR3NttGn1T0oQ01HPDWmrPuw2AFVTDxcRC_AHbsABauXqW3FgAJQtIpAO9k

人間がお金の抽象度を超えた時代

やはり2016年秋(ちょうどトランプが当選した頃)あたりから、お金の抽象度よりも、人間存在の抽象度の方が高くなった。つまりお金は物質の抽象度を最大限まで高めたものだが、人間存在が非物質化したことで、お金の抽象度を超え始めた。結局お金を神と据えてきた現代社会では、もはやお金が神概念として機能しなくなった。それ故に本当の神概念について深く知らなければならなくなった。今の時代感を示すようなオルタナティブな神概念はGAFAのニューエイジ 思想になると思うのだが、どうも確実にこれは三位一体の神概念に聖書を通じて収斂していくのだと思う。

GAFAの思想を乗り越えるために

わりと、まだmixiもなかった時代から(2004年の段階)、占いやニューエイジが一般的になる時代が来ると予見していた。そのあたりからすでに学生占い師を始めていて、大学ではかなり変人扱いをされていた。カルトだのオウムだのいわれた。その後SNSの波がきて、結果的に今は、どかんと占い師やセラピストという職業が一般的になる時代が来た。と同時に、2020年代に入る今、その時と全く同じ感覚で、どう考えてもこれからクリスチャニティの時代が来ると感じる。そして、やはり今もあの時代同様、変人扱いされている。カルトだのオウムだのいわれる。(そもそもキリスト教はカルトではないが)しかし、人々の根源的欲求を分析して、なおかつテクノロジーの進化なども総合的に鑑みても、やはりどう見てもそういうリバイバルの波が来る。こういう直観は外れた試しがない。そしてルネッサンスが起こった後に必ずリバイバルが起こるということも、歴史的にも幾度となく証明されている事実だ。 結局GAFAも当時からその背景にある思想が、10代の若者の感性に刺さったからこそ、爆発的に広がったわけで、この辺りの視点はものすごく大事だと思う。

コミュニケーションコストがかからない優しい共同体としてのエクレシア

まぁおそらく消費から信仰に変わるんだろうな。すでにこうした変化は起きつつある。GAFA経済自体がすでにニューエイジ的信仰(個人主義の崇拝)をベースにしているからね。おそらくこれが今後クリスチャニティ に回帰していくのだと思う。実際聖書におけるエクレシアの概念って、SNSの次に来る概念だからね。信仰を共有した共同体。エモやチルもしばらく続く中で、おそらくジャスティンビーバーのように、エクレシア的共同体に収斂していくのではないかと思う。 エクレシア共同体内部では、コミュニケーションコストをほとんどかけずに、優しい人間関係が築かれるからね。多分SNSの次にくるエモ&チル的流れはこういうベクトルに向かっていくのではなかろうか。 「コミュニケーションコストがかからない優しい共同体」というのが今後の鍵になるのだと思う。 教会的なお祈りの場ってエモいしチルいからね。自己啓発的ニューエイジはわりと盛るからね。 自己啓発が盛りと映えで、教会的なお祈りの場がエモくてチルい感じなんだろうね。  階級社会になっても、クリスチャニティ であれば、しっかりと社会全体に大切なことを教育として伝えられるし、何より社会全体にとって非常に益となる。日本におけるリバイバルは、階級社会になっていく日本という現実を踏まえた上で、非常に重要な霊性運動になっていくだろう。特に若者は自己啓発ではなくクリスチャニティ に強い共感を感じていくのではないかと思う。特にコミュニケーションコストをかけなくていい優しい共同体というエクレシアの形成はとても大事。 わりとこれまでの時代は、場づくりやコミュニティづくりといっても、消費行動と紐づけられた場にならざるを得ないし、そもそもその共同体を規定するディスプリンはないので、入ってもわりとコミュニケーションコストがかかることが多かった。そういう意味で、御言葉というディレクションがしっかりとあって、初対面の人ともコミュニケーションコストもかからない、エクレシアは、今後おそらく結構長く続くであろうエモ&チルのベクトルにかなりあった場になっていくだろうと思う。

2016年ごろからトレンドが変わってきている

やはり2016年あたりから、何かしらのトレンドが変わってきているように思う。おそらくメルカリや(当時まだイケけた頃の)ZOZOなどが一気に浸透したこと、そしてサブスクリプションサービスが一般的になっていったこと、インスタグラムでコミュニケーションの抽象度合いが、言語から映像になったことなどで、社会全体の消費行動の原則が根本的に変わったように思う。 多分戦後日本がコアに据えていた経済中心主義という神概念が、そもそも経済構造自体がシェア経済へと変遷していく中で変容していっているのだと思う。と同時におそらくここ2016年あたりから格差が固定化されて階級社会が登場しつつあるのだと思う。今回の選挙のれいわムーブメントは、そうした固定化された階級意識の現れなのではないかと思う。 アメリカでは南部ではキリスト教福音派、都市部ではヒッピー文化の延長にあるニューエイジ 的思想という形でわりと思想が分かれる。 2016年からの動向は一言で言うと、中産階級の消失なんだなと思う。 この10年で貯蓄0世帯が単身者で30パーセントから50パーセントに。 まぁ基本に忠実に考えてみても、上部構造(文化)を見る際に、下部構造の変化(経済)ってすごく大事だな。 2016年くらいまではわりとトレンドだったインスタ映えなどのリア充消費が、階級社会化していくなかで、確実に不謹慎な時代になってきているのだと思う。 https://backyard.imjp.co.jp/articles/wakamono_9 今の時代感はチル。金閣寺銀閣寺の例えはすごくわかりやすい。 盛りからチルへというのは本当にイメージしやすい。表参道に事務所があるので、常に若者の流行が定点観測できるが、まさにこんな感じ。時代感を捉えることはものすごく大事。

クリスチャニティという門を通じて、合理的な近代人として生まれ変わること

クリスチャンになったことで、占いという迷信から離れて、より科学的、学問的な内容が伝えやすくなったな。「杏とクルミを一緒に食べると、低GIでダイエットに有効だし、クッキーみたいで美味しい」みたいな情報や、「中小企業の個人経営においても、バランスシートにおける流動比率を80-120%で保つことが大事」みたいな役に立つ情報を、普通に伝えられるようになるんだなと実感。占いだとなんでもかんでも汎神論的象徴に結びつけて、常にサタンの誘惑に晒されながら、いかにそれを乗り越えていくかなんか考えて、ものすんごい周りくどいからね。さらに自分自身が偶像崇拝の的になる(共依存の関係に陥る)という危険を常にはらむという。ある意味で迷信に基づかない合理的な発信と、信仰という両面をしっかりと分けて伝えられるようになった。名前をユピテルジョージから、本名の杉本譲治にしたように、得体の知れない「占い師」だった時と比べて、逆にこれからは灘高卒、早稲田大学政経学部出身みたいな、わりと世の中的に受け入れられやすい肩書のほうが、結果的に身を助けていくことになるんだろうなと思う。一応、これまでだって経営コンサルタントとして関わる企業に、しっかりと売り上げを立ててきたコンサルティング会社の社長だしね。ある意味こうした高学歴ということ自体も、聖書的な信仰を間接的に知っていたからこそ、自分を責めて、呪っていたんだと思う。学歴を自分の経歴で使うこと自体にものすごく抵抗感があった。でも、結局聖書の 「また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい(ヤコブの手紙1章9節)」 という御言葉に救われた。結局、聖書の知識ってものすごく大事なんだなと思う。占い(神智学やグノーシス主義)にそれを求めたが、結局のところそこに答えはなかった。それが明確によく分かった。なんかようやく普通の人生になってきたのかもな。これも何よりも主イエスキリストのおかげです。。まぁ、たぶん、そのうちクリスチャン色もしだいになじんでいって、自然に透明になっていき、「作家」「教師」という形になっていくんだろうな。いまは自身がどっぷりと浸かっていた、ニューエイジ文化をメタ認知するための自己批評に、ある種手いっぱいだからね。これからの生き方は自分の賜物である知性を、主のため、世の中のために献身的に使っていくという明確なイメージが心の内側にあるし、イエス様がそうであったように、より力強く、また謙遜な生き方に近づいていけるのだと思う。そしてそうありたい。少なくとも占い師という元型を背負って、迷信深く生きる必要はなくなるし、本当の意味で、アカデミズムだけでなく、クリスチャニティという門を通過することで、合理的な近代人として生まれ変わったということなんだろうなと思う。 そもそもこの数年で20キロ痩せたのも別に占いのおかげでもなんでもなくて、普通にインストラクターの先生についてもらって継続的にピラティスを実践して、さらに、自分で食事をしっかりと作って(外食をしないのはもちろんのこと、低GIにこだわるために全粒粉のパンを自分で焼いて作るところまでやってきた)低糖質ダイエットを続けたからなんだよね。結局占いと一緒にこういう健康についてのコンテンツをからめて発信しなかったのは、そもそも何でもかんでも占い的な象徴に結びつけることが知的ではないということを感じていたからなんだと思う。そもそも迷信と絡めた段階で、多分人はそれを妄信して、決して自分では継続的に実践しないからね。迷信はやっぱり迷信であって、迷信で決してダイエットはできないし、お金の知識だって占いという迷信と絡めることで、やはり間違って伝わると感じてきたからなんだと思う。そういう意味で主イエスキリスト は、結果的にカント的合理主義に基づく、近代人としてのあるべき姿に正しく導いてくださったということなんだな。

キリスト教信仰と戦争について

特にクリスチャンが弁証学的な話をしている時(なぜ集団救済論において、汎神論ではなく、一神教である必要があるのかについての説明)に、わりとこうしたコミュニケーションのずれが起こりやすいことなんだけれど、クリスチャンが「無償の愛」を伝えるために話しているのに、特に日本の場合「キリスト教=戦争ばかりしている」というレッテルを貼って、拒絶するということが日本ではよく見かける。これってそもそも最初のメタフレームが、かたや「無償の愛」かたや「暴力」という形で180度ずれているわけで、本当に不幸なことだなと思う。そもそも自力救済型の汎神論という構造では、弁証学を持つ必要がないので、そもそも集団救済論を持つ一神教が、一神教を維持するために自己言及的に必要な弁証学的な話に、ある種の排他的な拒否感を感じてしまうのだと思う。さらにここに日本の汎神論優位論のフレームが入ってくるので、拒絶感はさらに強まり、だから一神教は独善的でダメだ、こういうことばかりやっているから戦争になるという話になる。これはディスコミニケーション以外の何物でもない。まるで男女の会話のように、わりと自分と相手のコミュニケーションパターンをメタ認知しないと、永遠にすれ違うということになりかねないと思うし、実際日本ではずっとそうだったんだろうなと感じる機会が非常に多い。 そもそも引き合いに出される戦争のイメージも、第一次世界大戦以降の国と国との戦争ということが前提となる。その意味で、そもそも私たちが国と呼ぶ国民国家という概念自体が、神聖ローマ帝国の崩壊以降、キリスト教共同体から発達していった概念で、キリスト教が私たちの考える戦争の原因なのではない。むしろ十字軍遠征の時代は、日本では鎌倉時代だったわけで、むしろ宗教は力を持たず、 国民国家という概念は当然あり得ないし、 実質的な権力は暴力によって人を支配する構造でしかありえなかった。宗教がひとつの平和な共同体を作ったのはクリスチャン精神(汝の敵を愛せよ)という思想があったからこそ。それは聖書を読めばよく分かる。「汝の敵を愛せよ」といったイエスの思想が、なぜ暴力の思想になるのだろうか?むしろ、十字軍の遠征の時代、日本では、同じ仏教同士、神道同士である者たちが、自らのそれぞれに信じるカミと正義を中心に据えて、争っていたわけで、こうした汎神論優位主義に基づく、否定はあまり根拠がない話なのだ。 そして、むしろこちらの方がよく引き合いに出される例なのだが、イラク戦争やベトナム戦争、湾岸戦争というWW2以降の特にアメリカの戦争。また、それに対する反戦運動。しかしここで考えてみてほしいことは、そもそも反戦運動というものは、当時信仰が形骸化し、弱体化していたキリスト教世界における自己批判という形で生まれたニューエイジ文化として世界中に広がっていったもの。そもそも国家神道を中軸としていた戦前の日本において、どれだけの人が戦前信仰に基づいた自己批判をできただろうか?そして、もし日本が戦利国となった時にどれだけの人が、「汝の敵を愛せよ」という思想に基づいて、「鬼畜米英」として戦っていた相手に対して、自己批判へと立ち返ることができただろうか?今の日本の原発などの問題などを見ていても、決してイエスが示した「汝の敵を愛せよ」「僕として最も低いものとして人に仕えよ」という自己批判に長けた信仰が、今、普遍的に日本人の中にあるうるとは思えない。まして教理の中に「悔い改め」「原罪」というベースがないために、いつまでも主からの赦しではなく、「技による救い」「自己義認」に頼るほかはなく、どれだけ経済的な支援をしたところで、本当の意味で悔い改めが起こらない限り、隣国の韓国との和解もおぼつかないということに、神学的な不完全性があることは否めないのではないだろうか。確かにアメリカは奴隷制度を通じて、多くの黒人を虐げてきたが、アメイジンググレイスで歌われるように、主の赦しの愛によって、悔い改め、結果的に「黒人(という言葉は差別用語になりうるので、今の時代では正しくはアフリカ系アメリカ人)大統領」 が生まれるまでいたったではないだろうか?こうしたキリスト教信仰が持つダイナミズムを否定して、盲目的な汎神論優位主義、「キリスト教信仰=独善的ですぐに戦争をしたがる」という、戦中の「鬼畜米英」のフレームとそこまで変わらないレッテルで物を見ることこそが、自身が批判している一神教的なエゴイズムと同じものであるといえるのではなかろうかと思う。あくまでキリスト教の「汝の敵を愛せよ」に立ち返る意味で、自己批判を行ったうえで生まれた思想が、「ニューエイジ文化」であり、「反戦運動」なのだ。ビートルズも、間接的にローマ法王を否定しこそしたが(その後和解する)、イエスキリストそのものは決して否定していない。そうした文脈を理解せず、キリスト教=戦争というイメージを持つことは、正しい理解だとは決していえないであろう。聖書の時代には、「反戦運動」も、「国民国家」も「奴隷解放運動」もなかったが、いずれも、すでに2000年前に啓示された聖書の御言葉の中で、すべてイエス様が人類に普遍的なメッセージとして「汝の敵を愛せよ」というメッセージで明確に伝えている。奴隷解放運動も、すでにその萌芽が、パウロ書簡の「フィレモンの手紙」の中に、奴隷であったオネシモを、クリスチャンとして自発的に解放してもらえないだろうかとフィレモンに綴る内容として記されている。奴隷制度が常識であって誰も疑っていない時代に、現代の奴隷制度解放運動に繋がる精神的萌芽があること自体が、とても驚異的なこと。これらが散逸したバラバラの教典の一部としてではなく、啓示されまとめられた「一冊の本」の中に全てが記載されているということ自体は、尊重されうるべきことなのではないだろうか。日本で言うと、卑弥呼がいた時代が2世紀なので、その200年前に、現代社会の全ての基盤となっている聖書の御言葉が、啓示されていたということをあらためて深く感じ取ってみてほしいなと思う。反戦運動についても、むしろ、イエス様は決して人間は愚かで罪深いので戦争そのものはなくならないということを、聖霊を通じてヨハネの黙示録などを通じて伝えている。また自らの教えを伝えることで決して世界は平和にはならず、むしろ人々は争うことになるだろうとすら伝えている。これは人間の罪の愚かさを十分に分かっているからこそ、現実的に伝えているわけだ。その中でも、イエス様は、主の教え「汝の敵を愛せよ」とひとりひとりの心の中に伝えることで、必ず世界は最終的に、審判の日以降には、主によって平和がもたらされるということを約束されている。人間の愚かさを直視して、決して理想主義だけに陥らないという意味でも、どの時代にても適応されうる、もしくは今の時代だからこそ深く知るべき、非常に現実的な考え方といえるのではないだろうか。聖書をしっかりと読むということは、日本人が、国際人として眼を開くうえでも非常に重要なことなのではないかと思う。すくなくともインターネットがより深い世界的変容をもたらしていくなかで、決して避けては通れない日本人特有の課題になるのではないかと思う。

クリスチャニティの倫理がもたらした資本主義の精神

クリスチャニティをベースにしたことで、わりと自由になった話題はお金の話題。ニューエイジ文化の中で、お金を語ることは、多くの場合すぐにマモン崇拝、サタンの誘惑が入り込むことになる。そもそも資本主義経済が発達するベースとなったのは、マックウェーヴァ―がいうように、カルヴァン主義にこそある。カルヴァン主義における予定説によって、禁欲と蓄財という宗教的には二つの相反する行いが、アウフヘーベンされる形で義とされた。これが、資本主義の倫理のコアとなる考え方。自分の十字架を背負わずに、事業をやったところで、価値なんか生み出せないし、そうやって生きる方法以外に多くの人に感動を与えたり、人を救うような、普遍的な価値は生まれない。わりと今の時代に危険なのは、ニューエイジ的な思想に基づいて自分=価値と考えることで、労働の負の効用に根差した確かな土台が無くなり、価値のインフレーションが起こりやすいということ。これはニューエイジ自体が、エゴのインフレーションに陥りやすいことと深く関係している。しかし、そもそもSNSを発達させていった現在のGAFAのような巨大企業自体が、ヒッピーカルチャーからの延長線上にあるニューエイジ文化に基づいて設計されているので、ここになかなか気づけないという問題をはらんでいる。SNS上で起こってきているエコーチェンバー型のカルトの問題は、こうした資本主義×ニューエイジ文化という中で起こるべくして起こっているバブル経済で、真理に基づかないこの構造は必ずバブルが崩壊する時が訪れることになると思う。その意味で、資本主義のコアの倫理観に基づいて、聖書を学ぶことは、中小企業の経営者にとっても、とても大事なことになるのだと思う。日本独自のマモン崇拝を離れて、確かな主をあがめること。これは自分の身を経済的に守るためにも、これからの時代とても大事なものになっていくだろうと思う。

ルネッサンスとリバイバル

SNSはある種のルネッサンス文化だったんだな。GAFAもそうだね。資本主義の硬直で行き詰まった社会を、人間性回復運動の思想に基づいて、柔軟性を取り戻す動き。ただその一方で、人間中心主義が行き過ぎるということは、同時に神から離れることを意味し、ここにリバイバルの流れが世界的にも起こってきているということになるんだな。そして日本ではそもそもリバイバルの翻訳が必要ということ。ドリーンバーチュー が福音派に回心してだいぶ経つけど、その歴史的文脈を日本人のニューエイジャーはちゃんと分かってないからね。

一言でいうと

ひとことでいうと、ニューエイジ思想に左右されずに、地に足をつけましょう、ということかな。 世界的な常識としては、その地に足をつけるに含有される意味合いとして、「クリスチャニティ的に考えて」、ということになる。

時代遅れの悲しきヒッピーたち

もはや2020年代に入るから、何も1970年代の霊性文化をベースにする必要もなくなっているんだよね。もはや50年前の話であって、おじいちゃん世代だからね。むしろ世界的にもニューエイジ思想が飽和し、アメリカでの福音派の勃興などの世界的なリバイバルが起こり始めている今、日本でも、1920年代の内村鑑三や新島襄、中田重治といった、リバイバリストの思想をコアに置いた方がいいんじゃないかと思う。 ニューエイジ思想自体が、メタからベタに変わり、むしろ時代遅れのおじさんたちの思想になってきている。おそらくこうした時代の変化に取り残されていくと、ゆくゆくは老害といわれるようになるのだろう。実際すでに今の若者の感性では「あッー、あの情報商材や自己啓発セミナーの痛い人たち?」と思うだけで、今後人生観を通じて共感することは減っていくと思う。まるで時代遅れのヒッピーたち、もしくはジュリアナ東京で訳もなく踊り狂っていたバブリー世代を見るような目線で…。

キリスト教信仰から見たシンクロニシティ

キリスト教において主への信仰に基づくシンクロニシティは聖霊の働きの範囲内。つまりその源が主にあることという信仰に基づき、聖書に調和しているかどうかが前提となる。しかし、ユングのシンクロニシティの場合は汎神論的な世界にそれを広げた。ある意味シンクロニシティとは容易に諸霊(悪霊)が働きかけることができる。しかしこれは汎神論ではこの霊がどんな霊かを問うことがない。ここにサタンや悪霊が入り込む隙間が常にある。故にシンクロニシティの全てを是とする考え方は、大いに霊的に危険な側面があると言える。これがキリスト教的な文脈において占いが迷信である理由だ。ユングが提唱したシンクロニシティは、ジェームズレッドフィールドの聖なる予言で、ニューエイジ文化 の中でも一般化したが、この辺りはしっかりとメタ認知して、無条件に鵜呑みにするのではなく、再考しなければならない概念だと思う。 サタンや悪霊からすると、ニューエイジャー に対して自らに与するようにシンクロニシティを起こせばいいわけで、サタンにとってそれはなんのことはないこと。 「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。 だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。 だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」‭‭コリントの信徒への手紙二‬ ‭11:13-15‬ ‭新共同訳‬‬

SNS社会におけるエコーチェンバー型群発カルトから身を守るために

つまりエコーチェンバー化の影響で、SNSで怪しいニューエイジ 情報や発信者がものすごい増えているけれど、聖書の知識が少しでもあれば、自信を持って「それって単なる迷信ですよね?」の一言で済む。もし相手が自分がやっていることは科学的で量子力学がどうこう言い始めたら、聖書読んだことありますか?と聞けば良い。読んだことがなければそもそもモグリだし、読んだことがあるといえば明確な嘘になる。少しでも読めばニューエイジ(当時はグノーシス主義やマニ教と言われた)や、技による救い(自己義認)が、全面的に論破されていることを知らないはずがない。こういうやりとりがそもそも日本に全くないわけだな。。聖書の知識とイエスキリストへの信仰さえあれば、このやりとりだけでエコーチェンバー型カルトから身を守れる。

占いは迷信である

ようはシンプルにいうとクリスチャニティ からすると占いは迷信であるということ。こういう世界的常識が日本にはなかった。 日本人にとって科学的精神(近代合理主義)は明治維新で取り入れたからこの視点からは占いは迷信であると理解できたが、もう一つの側面が抜けていたということだね。クリスチャニティ という視点から、占いという迷信を信じるのはやめましょうということが、僕の一つの新しいメッセージになるんだな。 科学的精神が大事なのと同じくらい、クリスチャニティ は大事だということをしっかりと示して行くことが大事なんだな。そこが日本の文化には抜けているわけだ。 それがオウム事件や、現在のニューエイジ 的文化の腐敗に繋がったというわけか。つまり自称スピリチャリストで、ニューエイジ稼業をやっている人は、そもそもそれが単なる迷信だということすら知らず、聖書すら読んだことがない厳然とした偽物ということになるわけだ。 海外では占いを信じる人は「Oh you are so superstitious.(なんて迷信深いの)」とバカにされる。実際占い師だった時に海外に行ったら占星術家にさえ、バカにされないかとよく聞かれた。これはようはクリスチャニティ から見た時の意味での迷信という意味だったんだな。今はよくわかる。占いもニューエイジも、全くもって迷信に過ぎないと。

ヘブル主義から見た「迷信」について

そういえば最近、迷信という言葉を聞かないね。迷信っていう言葉は、西洋においてはカント的理性主義からのものだけではなく、キリスト教からの視点からも批判が加えられることが当然であるということはとても大事な論点だと思う。しかし日本ではこのクリスチャニティ からの迷信への批判という文脈はほぼ皆無。故にオウム事件のようなカルト事件が起こる。ニューエイジ =迷信であるということを、合理主義という観点からだけでなく、霊的な視点、つまりキリスト教神学からの批判もしっかりと受けなければならないのではないかと思う。そのためには日本のニューエイジャー は、聖書を読むことが何にもおいて非常に重要なことなのではないかと思う。そうすれば自分が迷信に囚われていた、騙されていたことにはっきりと気づくことになると思う。 つまり「迷信」という概念は、キリスト教すなわちヘブル主義的観点からも、科学すなわちヘレニズム主義的観点からも、両方から批判されるべき対象であるということなのだ。日本はアニミズム的信仰がメインで、そもそも本格的な一神教への回心、リバイバルが起きていないので、この種の「迷信」に半面においてしか対応ができていないという脆弱性があるわけだ。 このあたりのヘブル主義がしっかりと根付かない限り、日本における失われた30年というのは永遠に去らないのではないかと思う。カネがカミでありえなくなった今(本来元々そうなりえないのだが、戦後の荒廃の中ではそれがリアリティを持ちえた)、日本人が主によって召され、救われること、汎神論から一神教へのリバイバルは非常に重要なテーマになるのだと思う。

資本主義のコア

マーケティング的に考えれば、日本社会のカミである経済を中心に商品を設計すればサービスは売れるのだと思う。しかし、そもそもそのカミに仕えることは、結果的に偶像崇拝であって、身を滅ぼすことになる。大事なのは、主に仕えることであって、結果的にそうすることで、富も誉れもついてくるというのがユダヤ人(旧約聖書)、あるいはクリスチャンの教え(新旧両訳聖書)。 特に資本主義のコアには、プロテスタンティズムがあり、キリスト教のコアは、十字架を背負うこと。罪なきイエスが、自分の罪を背負って死んでくださったように、無実の自分が相手の罪をかぶって贖うことが、クリスチャンが考える無償の愛。この刑罰代償の概念なしに、無償の愛も、それに基いた献身や赦しはありえない。常に自分の十字架を背負うことが非常に大切。 社会の中で一番貧しく、弱い人ほど、一番社会に必要な人。その十字架を背負うことがクリスチャンの生き方なのだと思う。 そもそもサービスとは献身であって、サーヴァントは僕(しもべ)という意味。資本主義のコアである付加価値の創造は、僕(しもべ)として人に仕えることにある。 この辺りは最近のニューエイジャー が、自分の価値を認めること=お金であるということをただただ鵜呑みにして取り入れているが、あまりにも雑な論議。一度しっかりと見つめなおすべきテーマだと思う。 確実に今のマモン崇拝をコアに置いたニューエイジ 文化は、エゴのインフレーションによって、バブル経済とその崩壊に瀕していると思う。人は罪人であるから、自己義認によっては決して自己に価値を見出すことは絶対にありえない。資本主義がなぜプロテスタンティズム(カルヴァン主義) をベースに成り立ったのか、マックスウェーバーがプロ倫で論じたように、正しく資本主義の成立の歴史について知り、基本に忠実であることはとても大事。