VR360教会

マンデラエフェクト」の検索結果

被造物としての時間

Twitterをはじめとしたネット上でもマンデラエフェクトに気づき始めている人が増えてきて、安心してきた。やっぱり僕だけじゃなかったんだなと。 被造物としての時間のどこにいるかは、主の御手が働いているのだと思う。

パラレルワールド間の移行と一神教的考え方

汎神論、理神論的にマンデラエフェクトをともなうパラレルワールド間移動を体験するとわりと混乱するが、一神教のフレームだと、そもそも最初から聖書に書かれていることだから、パラレルワールド間移動の存在そのものは肯定的に受け入れながら、その上でそれを主の栄光と捉えられるので非常に安定的な意識状態になる。最初から聖書に書いているからね。

被造物としての時間

聖書的な世界観においては、時間も創造主の被造物と考えるので、パラレルワールドという世界観も、並行的に存在している時間軸そのものが被造物であると考えれば、そもそも構造的に比較的受け入れやすい世界だとも言える。4-5世紀の神学者アウグスティヌス は、「告白」の中で過去現在未来は全て今の中に内包されていると考え、創造主の時空間からの超越性を解いた。今の時代はこの創造主という視点抜きになかなか時間や空間についての正しい認識を深めていくことは次第に難しくなっていると言える。 そもそも死はアダム以降の人類にとって時間の終焉を意味するわけで、原罪以前の人間は、そもそも時間という被造物の中に閉じ込められているわけではなかった。創造主が時間を被造物として造ったのであれば、別の時間軸へと人を携挙することも簡単なこと。汎神論的な世界では、自分の心が、パラレルワールドを創り出していると考えるが、実際のところこれは間違えていて、あくまで創造主が時間という被造物を造っているという理解が正しいと思う。そうしたことに気づかせてくれたのが、全てにおいてこうしたことが事前に預言されていた聖書の預言書だった。そして何より主イエスキリストとは、時間を含めた被造物世界の王として、神の右に座しておられるということ。僕にとってのマンデラエフェクトの経験とは、結局のところ時間という被造物を造りたもうた創造主の臨在を示すシャカイナグローリーだということになる。 同じパラレルワールドという概念を、一神教的に考えるか、汎神論的に考えるかで、全く違う認識になるね。この違いはすごい。この辺りの被造物としての時間という真実に気づいたのがアウグスティヌス だったんだと思う。 それこそ、パラレルワールドを唯心論的に考えると、まんまとサタニックな方向に進むからね。自分が神だという視点になってしまう。非常にエゴイスティックで、恐ろしい考え方だ。 死とはすなわち自らが被造物であるにも関わらず、創造主から離れて、塵と化してしまうこと。つまり主から離れ、被造物である時間の中に自らを同一化し、ともに滅び去ってしまうこと。時間との同質化が罪による堕落のポイントなのかも。

【ベツレヘムの星便り】362号 ジーザスとともに歩む道

◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り) 2019/8/4                                 362号こんにちは、杉本譲治(旧ユピテルジョージ)です。 今日は古くからの占星術師の友人と10年ぶりに会って、近況報告と同時に、なぜ占星術師を辞めて、クリスチャンになったのかという証をさせていただきました。 その友人は、もともと占星術だけでなく、仏教などをはじめとした神学的な教養を持っている方なので、静かに「ふむふむ」とうなずき、最後まで聞き手に徹して聞いてくださいました。 主が与えてくださった証であるマンデラエフェクトも、ほぼすべて共有ができ、また聖書の背景にある神学や、現代のニューエイジ信仰の危険性などもしっかりと耳をそばだてて、聞いてくださいました。 そして疑問点なども忌憚なくぶつけていただいて、それらも丁寧にお話をしていく中で、なるほどという形でいろいろキリスト教というものに関して持ちうる誤解も解けていったのです。 2年半の証のほぼすべてを数時間の間に怒涛の如く話したので、聞いてくれた友人の方はものすごく大変だったと思います。 しかし、聞き手としての平和な心と深い共感力、そして、抽象的な世界に対する理解力というたぐいまれなる賜物を持っていらっしゃる方であり、もともと世界中を旅して、宗教的な造詣に深い方であったので、話し手としてはとても助かりました。 そして、この数年の中で証をしてきた方の中でも、僕が回心するにいたった道のりを最もよく理解していただけた方だったなとしみじみと感じました。 僕の冗長な、延々と続く小難しい話を、忍耐強く聞いてくださったのは、昔からともに合宿をしたりしながら学んだよき友人であるから、背景に深い信頼関係があったということも非常に大きかったと思います。 そして、最終的には、聖書の中心的なテーマである「永遠の生命」や「キリストの復活」についても深く理解していただけました。 それらすべて話し終わった時には、やはり聖書で啓示されている内容が、汎神論や、多神教といった、伝統的な日本の信仰形態という非クリスチャン的な観点から見ても、その救いの教理に、一切の論理的な矛盾点がないという共通認識にも至りました。 さらにそこにマンデラエフェクトという共有できる主の栄光の徴が現れたことで、信じる信じないではなく、「真実だと悟る」ことになったこと、それゆえ、占い師としてのキャリアや経済的な安定の全てを捨てて、クリスチャンになった(むろん経済的な安定などない)という人生の変容についても、僕自身の視点で追体験する形で理解していただけました。ありがたいことです。 そして、ここまで深くお伝えできても、決して僕には、人を回心させるような力は1ミリもありません。 こうして僕を語らせているのは、主イエスキリストであり、また、聖霊の働きなのです。 僕が、主に召され、それまでの人生の全てを捨てて、100%クリスチャン、100%主イエスキリストの僕(しもべ)として生きるようになってから、できることといえば、思惟への奉仕、そして、証を続けていくこと。 「何事にも時があり、天の下の出来事には定められた時がある。(中略)人が労苦してみたところで何になろう。私は、神が人の子らにお与えになった勤めを見極めた。神はすべてを時宜(じぎ)にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」(コヘレトの言葉3章1~11節) という聖書の御言葉がある通り、僕が体験したような回心を、もし聞いてくださった方が今後の人生の中で体験することがあったとしても、それはあくまで神の御手によるものであって、伝道者の行いによるものではないということは大切なことです。 思惟への奉仕と証。 伝道者にとって、主から与えられたその2つの役割以外については、全てを父と子と聖霊の働きに委ねることになります。 ただただ僕は、主の僕(しもべ)であって、また同時に、話を聞いてくださるお相手の方の僕(しもべ)でしかないのです。 この世界を造りたもうた創造主と、愛する人々に対して仕えること、そして、時に僕を迫害する人々にさえ仕えるということであったとしても、 やはりそれは僕にとっては、心からの喜びであるのです。 本当に一人でも多く福音を知っていただくことで、「永遠の生命」を得て、この世界の万物を創造した主を褒めたたえる喜びを、伝えていけたら嬉しいなと思います。 ジーザスとともに歩む道。主の平和があなたとともにありますように。 父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。 【個人セッション】聖書の御言葉を通じて、自分の心を「無償の愛」で満たす人生の困難に行き当たった時、判断に悩む時、あなたの手元に一冊の聖書と、主イエスキリストへの信仰があれば、常にあなたの道のりを、明るく照らしてくれます。 人生はいいことばかりではありません。しかし、どんな時でも救い主イエスキリストは、あなたのことを見守り、愛しておられます。 この個人セッションでは、聖書的な人間理解、主イエスキリストの信仰をベースとしながら、時間をたっぷりととったマンツーマンのカウンセリングをご提供し、あなたの人生がより良い方向へ向かうように祈り、また、献身させていただきます。 「心の貧しい人々(謙遜な人々)は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイによる福音書 5:3-12 より 新共同訳 ) ▼時間の目安 60分から90分程度▼料金 本カウンセリングは、キリスト教の献身の精神に基づいた活動となるため、特定の料金は定めておりません。あなたがふさわしいと感じられる、主への感謝の気持ちを込めた献金という形でお納めくださいますようお願いいたします。 ―――惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。 (コリントの信徒への手紙二 9:6-7 より 新共同訳) ▼スケジュールの関係上、月10人までのお受付となります。何卒、ご理解、ご了承ください。▼日時 お申し込み後に、ご希望の日時を調整いたします。▼場所は、表参道(東京都)のサロンとなります。ご予約後に住所をお伝えいたします。▼ご遠方の方は、スカイプやLINE、ZOOM等のビデオ通話を使った形にてもご提供いたします。 ▼ご予約はこちらからどうぞhttps://vrchurch.online/personal_session メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)発行者:杉本譲治▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。 ▽本メールマガジンの配信登録/解除はこちらからhttps://j.bmb.jp/bm/p/f/tf.php?id=r_bridge(c)2019 George Sugimoto All Rights Reserved.

ジーザスとともに歩む道

今日は古くからの占星術師の友人と10年ぶりに会って、近況報告と同時に、なぜ占星術師を辞めて、クリスチャンになったのかという証をさせていただいた。その友人は、もともと占星術だけでなく、仏教などをはじめとした神学的な教養を持っている方なので、「ふむふむ」と静かに最後まで聞き手に徹して聞いてくださった。主が与えてくださった証であるマンデラエフェクトも、ほぼすべて共有ができ、また聖書の背景にある神学や、現代のニューエイジ信仰の危険性などもしっかりと耳をそばだてて、聞いてくださった。そして疑問点なども忌憚なくぶつけてもらって、それらも丁寧にお話をしていく中で、なるほどという形でいろいろキリスト教というものに関して持ちうる誤解も解けていった。2年半の証のほぼすべてを数時間の間に怒涛の如く話したので、聞いてくれた友人の方はものすごく大変だったと思う。しかし、聞き手としての平和な心と深い共感力、そして、抽象的な世界に対する理解力というたぐいまれなる賜物を持っていらっしゃり、もともと世界中を旅して、宗教的な造詣に深い方であったので、話し手としてはとても助かった。そして、この数年の中で証をしてきた方の中でも、僕が回心するにいたった道のりを最もよく理解していただけた方だったなとしみじみと感じた。 僕の冗長な、延々と続く小難しい話を、忍耐強く聞いてくださったのは、昔からともに合宿をしたりしながら学んだよき友人であるから、背景に深い信頼関係があるということも非常に大きかったと思う。そして、最終的には、聖書の中心的なテーマである「永遠の生命」や「キリストの復活」についても深く理解していただけた。それらすべて話し終わった時には、非クリスチャンから見ても、やはり聖書で啓示されている内容が、汎神論や、多神教といった、伝統的な日本の信仰形態という観点から見ても、一切の論理的な矛盾点がないという共通認識にも至った。さらにそこにマンデラエフェクトという共有できる種の栄光の徴が現れたことで、信じる信じない(これだとまだ背景に疑う姿勢がある)ではなく、もはやこれは主が与えてくださった所与のものとして「真実だと悟る」(もはやこれは真理として受け入れている)ことになって、占い師としてのキャリアや経済的な安定の全てを捨てて、クリスチャンになった(むろん経済的な安定などない)という人生の変容についても、僕自身の視点で追体験する形で理解していただけた。ありがたいことだ。そして、ここまで深くお伝えできても、決して僕には、人を回心させるような力は1ミリもない。こうして僕を語らせているのは、主イエスキリストであり、また、聖霊の働きなのだ。僕が、主に召され、それまでの全てを捨てて、100%クリスチャン、100%主イエスキリストの僕としていきるようになってから、できることといえば、思惟への奉仕、そして、証を続けていくこと。「何事にも時があり、天の下の出来事には定められた時がある。(中略)人が労苦してみたところで何になろう。私は、神が人の子らにお与えになった勤めを見極めた。神はすべてを時宜(じぎ)にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」(コヘレトの言葉3章1~11節)という御言葉がある通り、僕が体験したような回心を、今後もし聞いてくださった方がするとしても、それはあくまで神の御手によるものであって、伝道者の行いによるものではないということは大切なことだ。思惟への奉仕と証。伝道者にとって、その二つの神から与えられた役割以外については、全てを父と子と聖霊の働きに委ねることになる。ただただ僕は、主の僕(しもべ)であって、また同時に、話を聞いてくださるお相手の方の僕(しもべ)でしかない。この世界を造りたもうた創造主と、愛する人々に対して仕えること、そして、時に僕を迫害する人々にさえ仕えるということであっても、やはりそれは僕にとって心からの喜びである。本当に一人でも多く福音を知っていただくことで、「永遠の生命」を得て、この世界の万物を創造した主を褒めたたえる喜びを、伝えていけたら嬉しいなと思う。ジーザスとともに歩む道。主の平和があなたとともにありますように。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

時制の消失

マンデラエフェクトを追って行くと、やはり色々不思議過ぎる。 結局アウグスティヌス もこの経験(時制の消失)をしていたんだろうなと思う。本当に聖書って真実なんだよな。。ほんと参っちゃう。 携挙が始まってきている。ほぼ確信している。

ライフワーク

しみじみ福音伝道はライフワーク。マンデラエフェクトをはじめとした、ここ数年ずっと追ってきた研究材料をしっかりと説明できるのは聖書だけ。

地道に福音を通じて

結局2017年3月27日に巨大隕石が落ちて、この世界がすでに死後の世界になっているといくらグノーシス主義的なベースで知識でもって伝えても、まともに受け取ってもらえないので、まぁ結局のところ地道に福音における無償の愛を伝えていくことが聖書的なアプローチなのだと思う。アウグスティヌス もおそらく同様の経験をしたんだろうなと。死後の世界に復活したことに気づき、そのことをいくら伝えても伝わらない。ゆえに告白の中には時間論がしっかりと入っている。時間を超越した創造主は、時間をも創造したという理論。まさにマンデラエフェクトを経験していないと書けない理論だし、そもそも福音を信じていれば、確かにこの世界が死後の世界だということも受け入れられるのだから、順番ってのがあるんだな。2年半、この世界が死後の世界だということを伝えてきて、結局クリスチャンしか伝わらないので、しみじみ基本の福音を伝えていくという地道なプロセスが大事なんだなと思う。できるだけ多くの人に福音を知っていただきたいなと思う。 「「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。 そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。 人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」」 ‭‭マタイによる福音書‬ ‭24:29-31‬ ‭新共同訳‬‬ しかしつくづくアウグスティヌス の三代著作「告白」「神の国」「三位一体」はすごいなと思う。パウロに次いでアウグスティヌス が今のキリスト教教理のほとんど全てと言ってもいいくらい重要な概念を考え出しているんだよね。特に当時流行っていたマニ教やグノーシス主義への鉄壁の守り(異端教義からの護教は、初代教会、パウロ書簡の時代から、一神教であるキリスト教において常に重要な神学となる)は、非常に鮮やか。まさに聖霊の導きによって書かれている。

イエス様を救い主として受け入れて

パラレルワールド化やマンデラエフェクトも、ひとつのシャカイナグローリー(神の臨在が人間に知覚できる現象となって現れたもの)の一種で、つまるところそれ自体は目的ではなく、主の栄光を称えていくことが一番大事。 あと結局のところイエスキリストを救い主として受け入れることが一番の波動を上げる方法。ただ波動を上げるだけでなく、憐れみの心を持って、どんな波動にも柔軟に適応でき、全ての世界を行き来できるようになる。ただただ高い波動だけを目指し、低い波動を断捨離等を称して切り捨てるのは、心が狭い&考え方が幼い証拠。自分の幸せのことしか考えていないし、主はそうした人を決して好まないであろうと思うし、結果的にそうした人々は今は良くてもそのうち滅びるだろう。大事なのは社会全体に対する責任を持つこと。憐れみと自己犠牲。こうした心を持っていれば、波動が高かろうが低かろうが、主が大いにお用いになってくださる。父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン。

トマスアクィナス

おそらくなんだけど、「神学大全」のトマスアクィナスも晩年にマンデラエフェクトを体験したんじゃないかと思う。あくまでこれは予測ではあるが、アリストテレスのスコラ哲学に基づいた神学の再構成をしていたわけだから、基本的にロジカルな神学構造をベースしていている。しかし、そうした論理的な世界観を超える事象(おそらく非線形時間との出会い)によって、すべての前提が崩れてしまったんじゃないかなと思う。 トマスは1265年ごろから「神学大全」の著述にとりかかっているが、第三部の完成を目指して著述を続けていた1273年12月6日、ミサを捧げていたトマスに突然の心境の変化が起こった。神の圧倒的な直接的体験をしたと伝えられている。『神学大全』も秘跡の部の途中まで完成していたが、彼は以後一切の著述をやめてしまう。 著作を続行するように僚友のレギナルドゥスがしきりにすすめたが、トマスはただ「私にはできない。私が見、私に啓示された事柄にくらべると私が書いたことはすべてわらくずのように見えるのだ」と答えたという。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AD%A6%E5%A4%A7%E5%85%A8?fbclid=IwAR1gp7dFX9mS2aQxCyUZua8nUzeOs-lNgPWT3oyDc8A4rXLu2R7UT5K4a_Q

時間の終焉と黙示録

この世界、あの世なんだよな。皆、すでに死んでいる。でも、そのまま継続しているので気づかないという不思議な世界。クリスチャンは、死後の復活という概念があるので、これが復活かなるほどと理解ができる。マンデラエフェクトが起きている、時間の終焉がやってきたということはそういうこと。不思議な世界の中にいる。 ダニエル書やヨハネの黙示録などの終末論において、イエスキリストの再臨と直線時間の終焉について示唆されていたり、アウグスティヌスの告白の第3巻でキリストと時間論が語られていたり、パウロが聖書の中で第三の点に挙げられる神秘体験について語る様子なども、おそらくマンデラエフェクトを経験したことが原因なんだよな。イエス様がゲッセマネの園でお祈りする時に、ペテロはじめ3人の弟子が、3度に渡って寝てしまうのも、ようはイエス様の祈りによって振動数があがって眠くなってしまうってことなんだよな。。 この世はすでに死後の世界。わかっている人は分かっている。 聖書記者ヨハネはヨハネの黙示録の中で世界の終焉について主が語ることを書き記したが、同時にヨハネの福音書では、キリストはロゴスであったと告げている。日本語だと言(ことば)と訳されているので分かりにくいが原典のギリシャ語ではロゴス。つまりロゴスが実体化(受肉)したのがイエスキリストであって、再臨とはまさに時の終焉を意味するのだと思う。正直、はじめにロゴスがあったといった方がよくわかる。ロゴスは神と共にあった。ロゴスは神であった。このロゴスは、初めに神と共にあった。万物はロゴスによって成ったという風に。 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」 ‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭1:1-5‬ ‭新共同訳‬‬ 本当は、初めに「真理」があった。といった方が、わかりやすいんだけどね。本義からずれるが、日本語のニュアンスとして意訳すると。神は真理とともにあり、真理が受肉したのがイエスキリストといえば、非常にわかりやすい。 おそらくそのように翻訳してしまうと、グノーシス主義に陥ってしまう可能性が非常に高いから、言と訳したのかなとも思う。英語でもこの部分はあくまでWordだからね。 確かにロゴスを知的なプロセス探求するのはエリート主義に陥り、必ずそのプロセスは人を僭越にさせる。主は、ロゴスを、普通の人であり、また人類で最も謙遜な人であったアブラハムに啓示した。また、12人の使徒たちも、決してパリサイ派のラビたちような学問的エリートではなく、漁師や徴税人などの普通の人たちだった。ロゴスは、知的なものではなく、イエスキリストという存在によって啓示されたからこそ、人を告白と赦しへと導き、ロゴスに触れれば触れるほど、低く、低く、謙遜にさせていくのだ。主の栄あれ。ハレルヤ! 「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」 ダニエル書 12:13 新共同訳 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。」 ヨハネの黙示録 22:12-14 新共同訳 「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」 ‭‭マルコによる福音書‬ ‭13:24-27‬ ‭新共同訳‬‬

パウロの回心

パウロはもともと厳格なパリサイ派のユダヤ人で、イエスを迫害する立場だった。しかしダマスコの道の途中で復活したイエスに出会うという神秘体験を通じ、回心する。 僕自身も、もともとキリスト教において、占星術や占いは忌み嫌うべきものであるということは知っていたし(ゆえに学問としての心理学などを援用しながら、なるべく判断占星術な要素を廃そうとしてきた、しかし「技による救い」をベースにしていて、福音を伝えていないという段階で、結果的に根本からこれは間違っていた営みといえる)、かといってキリスト教はどこか敷居が高いと感じて、ずっと様々な宗教が混交しあったシンクレティズム宗教であるところのニューエイジの文脈の中で生きてきたが、マンデラエフェクトやこれまでの様々な経験を通じて、「ニューエイジ的な思想こそ人や世界を救う」という基本的な認識が、間違えていたことがよく分かった。「福音こそが、人を救う」のだ。 こうした父と子と聖霊の三位一体に基づかない、多神教、偶像崇拝的な集団的他力救済教理は、必ずといっていいほどサタンがつけいることになるのだ。どれだけ注意深く愛をもって伝えているつもりでも、多神教、偶像崇拝的、集団的他力救済論である以上、構造上、それは絶対に避けられない。三位一体論に基づかない救済論的神学は、誰がどう伝えようがは全く関係なく、構造上、必ずカルト化する傾向を持つのだ。つまりそもそもの神学としてのシステム的な欠陥だといえる。これは、グノーシス主義神学(神智学)を学んだうえで、キリスト教神学を学ぶと本当によくわかる。 キリスト教神学入門 アリスター・E. マクグラス パウロはコリント信徒への手紙の中で、自分の神秘体験などについて語る。しかし、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。」「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 」と語る。また、自らのことを、教会を迫害したものとして、「使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」と言い切る。 パウロの誠実に悔い改める姿こそ、キリスト者の規範であると思う。自分自身もニューエイジ文化を歩んできたことを悔い改め、福音を伝えていけるように頑張っていきたいと思う。 「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」 ‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭15:9-10‬ ‭新共同訳‬‬ 「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」 コリントの信徒への手紙二 12:1-10 新共同訳 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」 ローマの信徒への手紙 1:16 新共同訳

行為義認ではなく信仰義認で

神智学的に言うとコーザル層までは占星術でいいのだが、時空の制限が外れてマンデラエフェクトが起こり始まるブッディ層まで行くと、キリスト教神学じゃないと対応できなくなる。神智学だとそもそも行為義認になるので、コーザル層のカルマを完全に解消するために、第四イニシエーションの磔のイニシエーションにて、恐ろしいくらいの修業や犠牲が必要になる。こうしたことは一般の人が普通に生きていく中で達成することは絶対に不可能だ。しかし行為義認ではなく、信仰義認によってコーザル層にある人間の原罪(カルマ)を永久に贖ってくださったのは、主イエスキリスト。特別な修業をしなくても、ただただイエスキリストを自分の救い主として受け入れるだけで、ブッディ層からやってくる聖霊の内住(アンタカラーナの形成)によって、どんな人でも分け隔てなく最後の審判の日に、メンタルマカバという新しい光の身体へと変容し、ブッディ層の領域に行けるようになる。そしてマンデラエフェクトという形で、最後の審判の日という時空の終焉と、永続的に続くマインドフルネスという主の栄光を見ることになる。今や主による一方的な恵みによって、イエスキリストを信じればどんな人でも義とされることを僕自身がさまざまな経験と証を通じて確信しているわけで、やはりここに僕自身が主の愛に誠実に生きていくことが大事なんだと思う。今後キリスト教神学をしっかりと学び、牧師として生きていく覚悟ができてきた。主イエスキリストの御名において主に感謝し、お祈りいたします。アーメン。

なるほど!

とてもシンプルに理解できた。イエスキリストは、三位一体であられ、そもそも父なる天地創造の主であるから、マンデラエフェクトという形で大陸を動かしたり、山を作ったり、時間や空間の制限を終わらせることもできるわけだね。それが預言書の中における雲に乗ってやってくるということだったのか。そりゃ、あらゆる全ての人がそれを見ることが可能になるね。なるほど! 聖書の世界の中においては、イエス様は、宣教開始から、十字架の磔までの3年半の間に、実に様々な奇跡(技による救い)をなされた。それゆえに、この方はイザヤ書の中で預言されていたメシアだと信じられるようになった。そして、今回の再臨においては、天地創造の主であることをお示しになるために、マンデラエフェクトという形で、奇跡を起こされている。つまり、イエス様という人格を持った三位一体の創造主としての姿を、お示しになっているということ。アーメン。