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ニューエイジ」の検索結果

現代のカルト

どうもいろいろなデーターを調べていくと2016年から格差社会が固定され、階級社会化が進んでいるね。以前は、小泉政権移行、自己啓発などを学び、ニューエイジ的な言説に乗っかることによって、ITバブルも伴って、豊かさを実感することができた。当時は起業自体に様々な社会的リスクがあったので、数が限られアクターにも希少性があった。むしろ今はそうしたニューエコノミーによる経済格差が進んで、むしろ階級社会となってしまっており、いくらニューエイジ的な文脈を学んだとしても、すでにそういう商機自体が存在していないため(つまり自己啓発ビジネス自体が、レッドオーシャン化してしまっている)、その壁を超えることが難しくなってしまっている。というのもニューエイジ的な言説自体が、すでに貧困ビジネスになってしまっているから。ニューエイジ的な言説を学んで実践するほど、貧困化してしまうという矛盾が、2016年くらいからすごい勢いで広がりつつあるということなんだなと思う。このあたりの流れが、今のアメブロなどでも広がってきている要素なのだなと思うし、こうした流れは非常に危険なものだと思ったほうがいいと思う。 そういう流れの中で、日本のニューエイジ的な言説が、だんだん本来のGAFAに見られるインテリ的文脈から、ヤンキー的な文脈に移行しつつあるのをものすごく感じる。社会が階級化していくということは、ある種ヤンキー的な文脈がメインストリームになっていくということでもある。すでにYouTubeの主力コンテンツは、こうしたヤンキー的文脈なしには語れない。心理学のヤンキー化といってもいいのかな?YouTube(もしくはYouTuber)も、マーケティング的に、ヤンキー文脈はむしろアクター側は、意識して、積極的に取り入れているのだと思う。アメリカでは、そういう文脈の中に、ヒップホップミュージシャンのカニエウエストのクリスチャニティなどのリバイバルが起こり始めているんだろうね。おそらく。本来クリスチャニティと格差社会とは、思想的に非常に相性がいい。基本は、貧者のための救済論(無論、本質は万人救済)。むしろニューエイジ的な言説は、日本に進みつつある階級社会には対応できない。なぜならニューエイジは、本来「知」による救いであって、そのルーツは、インテリの文化だから。ゆえに歴史的に見ても、2016年あたりから広がりつつある貧困ビジネスとしてのニューエイジはどこかで破局を迎えることになると思う。というか、そうした破局が限りなく近づいている気がする。こうした視点から考えてみても、思想的には非可逆的にクリスチャニティに移動していくと思う。結果的にそれがクリスチャニティのリバイバルにもつながっていくだろうと思う。 そもそも階級社会が進むのは、戦後の日本のカミに「経済」が居座り続けているからであって、この中心に「良心(無償の愛)」が来ない限り、永遠に格差社会や、階級社会はなくならない。その「良心(無償の愛)」こそ、「主イエスキリストの御言葉」であり、何より「主イエスキリストの十字架における贖い」であるということに気づいてほしいなと思う。

スピリチャル業界の腐敗

スピリチュアル業界の混沌とした感じが今年に入ってからすごいことになっているな。多分昨年12月のアメブロの商用利用解禁なども原因なんだと思うが、SNSのエコーチェンバー化と相まって、完全に商業主義と一緒になって堕落して行ってる。これを腐敗と呼ばずになんというのだろう。まるでネットワークビジネスを見ているかのように思う。そこに霊的な真実はないかと。 そもそもこうなって行く原因を辿ると、結局のところ戦前の国家神道制が崩れて、戦後に経済中心主義になって以来、結局カミの中心に経済発展という神話があり続けてきたということなんだな。かといってそもそもそれを乗り越えようと思っても、アニミズムではそもそも共有できる神概念ではないので、アニミズムでは、中核は神学的に担えない(ゆえに近代化の中で廃仏毀釈や国家神道制を導入した)。ゆえに伝統的なアニミズムでもなく、資本主義でもないわけのわからないニューエイジ ビジネスが跋扈しつつある。この辺りが今の日本は混沌としているし、結構やばい状態になっていると思う。割とそう遠くない時期に経済的被害、人間関係的な堕落、倫理的堕落を伴ったプチオウムのような事件がおそらく群発していくんだろうなと思う。 贖宥状(免罪符)ビジネスがすごいね。セミナーに出れば、自分の知識やノウハウで人類の原罪が贖われるとでもいうのだろうか? 我々罪にまみれた一般庶民が、いつから人類の救世主になったのだろう?この変貌ぶりはまるでネットワークビジネスにはまっておかしくなっちゃった友人を見ているかのような気持ち。イエスキリストの十字架の贖罪以外にありえないという批判に、日本のニューエイジ の贖宥状ビジネスは、どこまで耐えうるんだろう? すでに海外のニューエイジ の騎手たちには、リバイバルが広がっているというのに。愚かだなと思うし、救われて欲しいなと深く感じる。

王と僕という人格の同居―主イエスキリスト

主イエスキリストの十字架を信じ、聖霊の注ぎを受けると、主イエスキリストの人格へと近づいていこうと、栄化へと向かう聖化が始まる。主イエスキリストとは、王であり、また僕(しもべ)である。王のような存在感と、僕のような献身が、一人の人格の中に同居するようになる。参議院選挙や、吉本の不祥事なども含めて、その背景には力強いリーダーを求める人々の気持ちが背景にあるが、リーダーとはすなわち主イエスキリストのように人々の一人一人を認識する力強い王であり、また、社会の中で最も低きものとしてすべての人の僕(しもべ)であるという二つの側面を持つ。こうした視点は、決してお気軽ニューエイジ的な文脈には持ちえないこと。クリスチャニティにおいてしか、決して、なしえないこと。主こそ我が誉れ。混迷する、日本にリバイバルを。主の栄光はとこしえに。アーメン。

GAFAとヘレニズム主義(なぜ今聖書を読むべきか?)

Google(YouTube)、Amazon、Facebook、Apple(iPhone)(最近はGAFAというらしい)などのネットサービスも登場してわずか数年で世界で有数の巨大企業になった。日本におけるクリスチャニティのリバイバルも、まさにこういう形で一気に広がっていくことになる。今は風前の灯火ともいえる日本のクリスチャニティも、聖霊の注ぎによってリバイバルが起こる時には、とんでもないスピードで広がり始めると思う。少なくとも私たちが生きている時代はまさにそういう時代なのだ。 ちなみにGAFAの背景にある哲学は、ヘレニズム主義(人間中心主義、ヒューマニズム)にある。もともとはヒッピーカルチャーやニューエイジ文化のように、体制に対するカウンターカルチャーだったヘレニズム主義が、今は、むしろ体制側、メインストリームとなったのが今の時代。今の世の中のトレンドを形作っている動きの、背景にある思想をしっかりと知ることはとても大事なこと。ヘレニズム主義をよく理解するという意味でも、聖書を通じて、その反対の極にあるヘブル主義(創造主中心主義)を学ぶことは大事。 そもそもGAFAのシステムの設計思想が、ニューエイジ的なものなので、人々の意識がニューエイジの方向に向かうのは自然。特に、日本においてヘブル主義的な価値観がないため、諸外国よりも免疫がない。ゆえにニューエイジ的な弊害はむしろたくさん出てくるといえる。そもそも、エコーチェンバー化は、こうしたGAFAの設計思想にある重大な欠陥だといえる。このあたりを思想的に乗り越えていかなければならないと思う。 つまりSNSの設計思想上、SNSへの依存度が高まるほどに、知らず知らずの間に、ニューエイジ 的な思想になっていくということでもあるのかもね。SNSの論説が、エコーチェンバー化する理由はこうしたヘレニズム的な設計思想も背景にあるんだと思う。 まぁ基本的な設計思想は、いいね!をもらうために、何も考えなくとも、スマホを開いてパブロフの犬のようにずっと自己言及し続けるという構造だからね。人と繋がっているようで、本質的には繋がっていない。無論、facebookやインスタといったSNS自体の利益とは繋がっているだろう。そもそもSNSができるまで、人は日々の生活の中で、ここまで毎日自己言及しなかった。SNSという形で読まれる日記だからこそ、内容も盛るし、自己演出もする。 もし読まれる前提もなく、日記で自分を盛ったり、演出していたら、ただの気持ち悪い過度なナルシシスト。SNSはこうしたある種のナルシシズムに基づいていて、そもそも人に興味がない。こういうところに疲れる人は、SNSから離れて行くだろうし、ニューエイジ 的思想を強化して行くことに抵抗を感じない人は、どんどん深みにはまって行く。 そしてミイラ取りがミイラになるように、結局ニューエイジ 的商業主義に巻き込まれて、自分の生活もニューエイジ 的経済に乗っかっていくといよいよやめられなくなる。ニューエイジ ビジネスをしている人の発信を続けられる心理状態って、そういう構造なんだと思う。エーリッヒフロムが「悪について」で述べるように、こういったナルシシズム的構造から悪が生まれてくるのだと思う。ニューエイジ の本質ってある種のナルシシズムなんだよな。こういう矛盾を今の日本のSNSは抱えているように思う。

思惟への奉仕と、証を積み重ねること。

思惟への奉仕をして、証を積み重ねていくことは、科学的なアプローチと何も変わらない。その世界観の違いは、万能の主が啓示された御言葉を礎にするものなのか、罪深き人間の揺れ動きやすい感情や、無知の知によるものなのかという違いである。思惟への奉仕と証を積み重ねるという意味においては、その真実性を伝えるアプローチそのものは科学的アプローチと変わらないともいえる。 ニューエイジャーが、自分の成功体験をSNSなどで誇示するのは、いうなれば「証」のつもりであって、ニューエイジの自分を愛するという論説は、「思惟への奉仕」のような体裁をとる。しかしそもそも背景としているものが、罪深き人間の揺れ動きやすい感情の上に成り立つものであって、結局のところ、最終的にはそれが機能しないということを「証」してしまうことになる。 「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」 詩編 1:6 新共同訳

思惟への奉仕

ティリッヒの「思惟への奉仕」という言葉は非常に気に入った。占星術師をやっていた時も、文章を書くということは、思惟への奉仕だったと思う。しかし今は「完全なもの(コリント13:10)」であるイエスキリストを信じるに至った今、この「思惟への奉仕」は本当に深いものがあるなとしみじみと感じる。思惟への奉仕というフレームで、今の日本におけるクリスチャンとしての活動を考えると、本当にいろいろなことができるなと感じるし、ネット社会だからこそ、これまでの時代以上の奉仕ができるのだと思う。とてもありがたいことだし、本当に一人でも多くの方が、福音による救いを感じていただければなと思う。 「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」 コリントの信徒への手紙一 13:10 新共同訳 結局キリスト教神学の完全性ってものすごいものがあるので、思惟への奉仕を通じて、おのずと信じるに至るようになるんだなと思う。これまでの人類の歴史自体がそれを証明している。マニ教(ニューエイジ)は廃れ、クリスチャニティが繁栄していくという真実。

「スピリチャル」から、本物の信仰である「クリスチャニティ」へ。

今、日本においてクリスチャニティの素晴らしさっていまいちほとんど理解されていないが、ここ数年の流れの中で、ほぼ確実にイケてる文化になるんだと思う。世界中で、そういう芽が確実に出つつある。文化が広がるかどうかは、イケているかどうかも、非常に大事。そういう賜物を持った人たちが、これからイエス様の御言葉を誰にでも分かりやすく伝えていけるように、そして心理的障壁を取り除いていくべく、彩っていくのだと思う。 いまはまだぴんと来ないと思うけれど、確実にこの感覚は2007年に占い師としてスタートした時にもあった感覚。あの当時、とにかく胡散臭いといわれ続けて12年したら、気が付いたら皆心理的障壁は取れてしまっている。占星術や神智学のコアとはつまりは汎神論に基づくマニ教なのだが、そのマニ教は、3世紀までは当時の世界宗教といえるくらいに大きく広がっていった宗教。しかし、その後、教理としての完成度が恐ろしく高い(ゆえに主によって啓示された宗教であることは明確である)キリスト教にとってかわられていく。どちらに真実があるかは、この人類の歴史を見ても明白にわかることだ。 今ニューエイジを信じている人も、ある意味ではちゃんと人類の歴史をカバーしているといえる。あくまでマニ教(ニューエイジ)は幼い信仰から完成された信仰へと向かう段階の「さなぎ」に過ぎない。 ここから多くの人が、スピリチャリティから、クリスチャニティに移行していくのだと思う。少なくともマニ教は、結果的に西洋社会がクリスチャニティへと移行していく際の必要悪(人間が考えられうる最善の方法)だったともいえる。つまり人間が考えた宗教(シンクレティズム宗教)か、主が啓示した啓示宗教か。この違いは非常に重要な違いだ。集団救済論は、啓示宗教である一神教でしか成しえない論理なのだ。 日本もこの世界的な歴史をしっかりとトレースしながら、内的召命によって、クリスチャンになっていく人がものすごく増えていくだろうと予測している。

日本におけるリバイバル

日本におけるホーリネス運動の歴史を調べていたら、中田重治先生って、内村鑑三先生と同時代において行動を共にした日本のリバイバリストだったんだな。うーむ。時代は巡る。どの時代においても、リバイバルは、確実に聖霊の働きの内に起こることは共通する。 そして、今日本でもこのリバイバルが起こるための種をまく時期なんだと思う。時折しも、ニューエイジ系のとんでもない論客たち(多くの場合「自分を愛する」という名目で、心理学を援用したつもりになり、その実、周囲にただのモラルハザードを薦めている人たち)の霊的退廃の度合いがすごい時代なので、本当に世を改めていかなければならないと思う。 アメリカの70年代のニューエイジの影響、その後の2000年代に流行ったスピリチャルの影響を受けて、変な方向に進んで我を顧みない人たちは、本当に、聖書を通じて、基本的なヘブル的知識を、まずもって学んでほしいなと思う。こうした基礎的な知識がないとほぼ確実に95年のオウム事件同様に、自分自身が主体者となって、確実に身を亡ぼすことになると思う。自分の身のためにも、そして何より周りの人たちのためにも、本当に悔い改めてほしいと願う。そういう兆候が本当に最近より強く出つつあると思う。 リバイバルって広義の意味、比喩的な意味で、ペンテコステともいえるな。結局聖霊が注がれることで、リバイバルが起こるんだよな。 神の怒りによって言葉がバラバラにされたバベルの塔と、神の赦しによって言葉がひとつになったペンテコステは、聖書の中で対になるもので、バベル化が極まれば極まるほどに、その反対の極であるペンテコステ的統合、聖霊の内住が重要なものになっていくんだな。 イエスが預言した第二神殿の崩壊と、イエスキリストの復活(ペンテコステの奇跡による聖霊の注ぎと教会時代のスタート)もまた対になる現象だからね。

ジョンウェスレーの神学

ジョンウェスレーの神学(いわゆるメソジスト)をベースとしたウェスレリアン聖書注解(新旧両訳あわせて全7巻)が届いた。ウェスレーの神学はその後ホーリネス運動や、ペンテコステ派などにつながる、アルミニウス主義と聖化のプロセスを強調する神学で、僕自身の召命された背景にあるもののベースとなる神学なんだなと実感。今までの霊的な思索や研究の中で深めてきた内容とも、非常に調和するので、また活路が開かれてきた感じ。主の恵みだね。とても嬉しい。 ウェスレー神学の構造は、信仰義認による救いの教理をベースとしながらも、同時にその後の聖化に対する合理的な説明の基礎を提供するので、非常に心地いい。素晴らしい神学構造だと思う。 例えばこのウェスレー神学に基づいた大学として青学や関学があるように、たしかにメソジスト系が教育業界とも相性がいいのはなるほどと思う。これはこれまで活動してきたコーチングなどとも非常に相性がいい神学構造となるので、ようやく神学的にも活路が見出されてきた感じになるね。これなら牧師としてだけでなく、何より教育者としてしっかりとしたエートス(倫理)のもとで、人に献身することができる。このエートスの不在こそ、日本が異文化誤解して受け取ったニューエイジ 文化について感じていた違和感とある種の嫌悪感だった。これがようやく神学的に説明がつく。本当によかった。 まぁこれで「青学や関学が、背景的神学として基礎にしているウェスレーの神学をベースにした教育法に基づく献身ですよ」という説明ができるようになる。実際にそうだしね。実際、主は僕を牧師としてよりも教育者として召されたと考えた方が自然なんじゃないかなと思う。新たなコーリングが始まっているな。 特に僕自身、経営コンサルタントなどを通じて、経済的なアドバイスなどをするという、主から与えられてきた献身のための賜物があるので、経済活動とクリスチャニティの理論との調和はとても大事なテーマだった。ようやくその解が、メソジスト系の神学の中に見出されるようになってきた。ほっと一安心。 また、この神学のおかげで、今日本に跋扈しているカルト化したニューエイジの特に経済的な諸悪についても、しっかりと論駁できる神学的なベースができたともいえる。エコーチェンバー化するカルト的言説とその背景にある諸悪の霊と戦っていくためにも、エフェソ信徒への手紙の中の神の6つの武具のように、論駁するために必要な神学的ベースが必要だったからね。 正確には、牧師業と、教師業のふたつがあるということだね。あるいはコンサル業といってもいい。これで色々整理がつく。こうした業としての境界がしっかりあることで、例えるならば、「青学や関学は、クリスチャン系の大学だから、すべての救いを求める人を受け入れるために入学試験もありませんし、学費も献金性です、あるいは無償です」とはならないというように、よく理解していただきやすくなるからね。 これまで事業の中で築いてきた教育的資産という側面において、神学的にも、そのベースとなる経済的な価値を全否定する必要が無くなったし、と同時に、僕自身が「無償の愛」ということをずっとお伝えしてきたかったことが、伝道師という形でもしっかりと伝えることができるようになった。 これで、しっかりと僕自身のクレドに基づいて、お客様への誠実さをしっかりと事業の中でも、しっかりと説明ができるようになった。この活路は、活動を継続していく意味でも、本当に非常に重要なものだから本当によかった。 特に僕の築いてきた価値のベースは、教育的な資産にこそあるからね。 ウェスレーの神学のすごいところは、ルター以降の信仰義認の姿勢を固辞しながらも、それまでは戒律主義、自己義認の罪と批判されがちだった規律的生活(ゆえにメソジストといわれる)を、聖化という中に理論的に内包させることで、信仰義認と規律的生活(メソジスティックな姿勢)を両立させたことだね。ロマ書8章の中における、聖化というプロセスを協議の上でも重視視することで、一度はルターがカソリック批判の中で、技による救いとして切り捨てたものを、プロテスタント的神学構造の中で自己矛盾を起こさずに、再文脈・再結合させることができるようになったということなのか。特にカルヴァンの予定説に対抗して、アルミニウス主義(先行的恩寵説)を唱えたことも、こうした神学的な意味での、大きなブレイクスルーになったわけなのか。なるほど。

ティリッヒの教会弁証学

そうか。ニューエイジ批判の抽象度を高めていくと、弁証学になるわけだな。そうすると、個別の批判にならず、むしろティリッヒがいうような「思惟への奉仕」になるわけだな。なるほど。 「弁証学は回心させようとはしない、ということが決定的な限界である」 (ibid., S.48)。つまり、弁証学は信仰の行為そのものを生み出すことはできず(vgl., ibid., S.50)、 ただ知の営みに専念するだけである。しかも、感情や意志への直接的な訴え掛けは福音伝道 (Evangelisation)の仕事であり、弁証学がそれを行うならば、越権行為であると看做される。」 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/57628/1/kondo8.pdf 弁証学について学び、弁証論の抽象度を引き上げていくことが大事だな。。。

イエスキリストは、世を裁くためではなく、世を救うために来た

カニエウエストにように、現代のロックともいえるヒップホップカルチャーで、聖書の詩篇が引用されるようになると、そりゃ若者の間での御言葉の捉え方も変わってくるよね。言うなればそれまでおじいちゃん世代の古い価値観だったものが、文化的なリバイバルを果たしていくわけで。 イエス様の御言葉は何より貧困や犯罪などに巻きこまれる社会的弱者のための御言葉でもあるからね。その意味でもヒップホップと聖書って意外にも親和性が非常に高い。ドラッグや犯罪の現代的な問題は決してニューエイジ 的思想では解決できないからね。むしろニューエイジ はドラッグを肯定さえしてたわけで。いまだに70年代のニューエイジ のヒッピー文化を引っ張っていて、そういう時代錯誤的価値観で薬物を肯定している人も割といる。ダサいなと思う。現実に薬物依存症で苦しんでいる人はそんなラブアンドピースな反権力といったお花畑のような世界にいるわけではない。もっとエグくてヤバイものだ。ましてゲットーやスラム街などの地域であれば、それに犯罪や、暴力、殺人などが常に隣り合わせにある。そういった混沌とした文化の渦中において叫ばれるヒップホップの言葉だからこそ、イエスキリストへの信仰もまたより深い意味合いを持つと思う。 聖書的に考えても、薬物を使って変性意識状態になり、自分が神だと誤認するというようなニューエイジ 文化って、ようはサタンが蛇に扮して「あなたも神のようになれる」と誘惑したやり方と同じだからね。ニューエイジ 的思想で、現代的なテーマである薬物問題が解決するはずがない。 「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」 ‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭12:46-47‬ ‭新共同訳‬‬

若者の文化としてのリバイバル

少し前までは、アメリカでは、キリスト教は、日本のお寺みたいに、おじいちゃんおばあちゃんや、敬虔なクリスチャンが行くイメージだったのが、福音派やペンテコステ派のリバイバル勢力によって、若者の間でも次第にイケてる文化になりつつあるんだよね。こういう文化が日本に入ってくるときはものすごく早いと思う。舶来のものってものすごくありがたがる国民性なので。 まぁそもそもニューエイジ(かつてはオカルト、今はスピリチャル)や占いも、かつては「霊感」とか、おじいちゃんおばあちゃんが「鑑定する」ようなイメージで、決してイケてる文化ではなかったからね。まぁ、それがビートルズや、アンアン、ノンノなどでファッションとして受容され始めてから一気に広がった。そういうことが今後キリスト教文化においても起きてくるんだと思う。大事なことは、キリスト教は、ニューエイジ文化や占いを忌み嫌っているという海外の常識をよく知っておくことだと思う。少なくとも海外のニューエイジ文化や占いは、その大前提の上で成り立っている。つまり常にその論戦が張られた上での敢えてのカウンターカルチャーとしてのニューエイジ、占いを選んでいるという背景を知っておくことは大事だと思う。 スピリチャル=キモい、ダサいという感覚はある意味、日本でもすでにあるっちゃあるが(占い師だった時には、わりとこうしたイメージと戦ってきた)、海外では、アカデミックな側面からも、クリスチャニティという側面からも、もっとそういう風当たりは強い。 と同時に、アメリカ発祥のリバイバルからクリスチャニティ=クールという文脈が入ってきた時には、若者にとっては、まるでニューエイジャーって、70年代のヒッピーおじさんのような、時代に取り残された化石を見るような感覚になっていくんじゃなかろうかと思う。

アメリカにおけるリバイバル

おそらく今アメリカでリバイバルが起き始めているね。それが、ミュージシャンなどに広がって、言語や文化の壁を超えて、日本に入ってきたとき、おそらく日本でもリバイバルが起こり始めると思う。SNSの影響で一気に広がる時は、すごく早いんだろうね。そういう時のための種まきだね。今は。 逆にそうした時に、ニューエイジ思想を垂れ流していたら、気まずい思いをするんじゃないかな? 海外では常識であるキリスト教からニューエイジ文化への批判に無知すぎて、面食らうんじゃないだろうか。ダサいというだけじゃなく、禁忌として疎まれているという世界的な常識をその時初めて知るというのもどうかと思う。悔い改めることって大事だと思う。

ミュージシャンのカニエウエストが宗教団体を設立

ミュージシャンのカニエウエストが宗教団体を設立。 https://www.vogue.co.jp/celebrity/news/2019-7-08/kanye-west いろんな形で、福音が伝えられるようになってきてるんだな。おそらくゴスペルとも親和性の高いペンテコステ派になるんだろうと思う。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88 日本で宗教団体の設立っていうと、オウム真理教の影響ですぐにカルト?ってなるけど、普通に西洋社会で教会は、いまでも建てられているからね。この件ももちろん、日本においてとらえられるようなカルトという意味あいでとらわれず、あくまで西洋社会では、COOLでイケてるという文脈になる。トランプ大統領が誕生して、日本人の多くの識者があっけにとられたように、こうした流れはしっかりとチェックしていく必要があると思う。 ビートルズによって、ニューエイジ思想が日本に入ってきたように、おそらくこれから福音派やペンテコステ派に転向したアーティストのミュージシャンの影響で、本格的にキリスト教的世界観が日本に入ってくると思う。そうなるといろいろ文化受容も加速するんだろうね。ジャスティンビーバーもペンテコステ派に転向したし。 https://www.gqjapan.jp/life/business/20160409/what-would-cool-jesus-do/page/2 海外の宗教(キリスト教)×クールという価値観は、音楽というメディアに乗ると、日本でもかなり受け入れられやすくなるんだろうなと思う。 SNSの時代の次は、日本の文脈では全く理解できないが、おそらく西洋社会ではリアルなコミュニティであるエクレシア(教会)の時代がくるはずなんだよね。論理的に考えていくと、どう考えてもそうなると思う。 主を畏れ、愛し、隣人と、敵を愛する。これしかエコーチェンバー化するSNSへの、解決策はないんだよね。日本はこの問題をどう乗り越えていくか?ニューエイジの教理では決してこうした問題は解決できない。だからこそ聖書を読むことが大事。 そもそも2007年に占いを始めたときにはたくさんの偏見を浴びせられたからね。それが今や日本では占いはクールな文化になってしまった。 いまキリスト教に回心しても、あの当時のような偏見を持たれることが多いが、まぁ、すでにこうした偏見の目は慣れているといえば慣れている。わりと偏見にさらされることが多かったこれまでに歩んできた道のりを考えれば、今僕がビジョンとして描いているような主の栄光が讃えられる日も遠くないだろうし、今はそういう種まきの時期なんだと思う。 そういう意味でも、これから日本にもキリスト教のリバイバルは確実にやってくると思う。少なくともこのカニエウエストの文脈は、日本の宗教的な文脈をも変える力があると思う。 https://www36.atwiki.jp/gachmuch/pages/1015.html

弁証学

汎神論、多神教的な日本においては、弁証学は非常に重要な要素になるなと強く思う。 これは江戸時代はもちろんのことながら、近代文明が西洋から入ってきた明治維新以降も、意図的に避けてきた論理だといえる。結局キリスト教の組織神学の1/3は、弁証学でできているからね。 こうした長い歴史の中での誠実な取り組みの中で培われてきた弁証学的なアプローチを知らずに、何となくイメージで独善的ととらえる人は、たぶん単純に聖書を読んだことがない、つまり単なる無知なんだと思う。日本のニューエイジ文化によくある汎神論・多神教優位論という無知ゆえの独善性ということに気づいていない。 こういう無知は本当に怖いもので、竹やり(日本的な汎神論優位論)で戦闘機(SNSによる国際化)と戦うつもりなんだろうか?とも思う。そもそもよくある話で、海外に行った日本人が、宗教の話になって全くついていけないと感じる理由も、こうした海外では長い文化と歴史の中で規定された弁証学の教育を一切受けたことがないから、一瞬で話についていけなくなることが理由。エフェソ信徒への手紙のなかで、「御言葉は剣」というのも、つまるところ弁証学。 SNSによって価値観がかつてないスピードで相対化され、国家という枠組みを超えた自分の神概念、信仰形態を深く考える機会が多い今、世界的な信仰形態のスタンダードであるヘブル主義的価値観を知ることは、本当に大事なことだ。そうでないと、今の時代は精神的な安全を保って生きることは難しいのではないだろうか?とも思う。 日本はキリスト教国家じゃないという人もいるが、そもそもキリスト教は、ユダヤ教徒は何の縁もゆかりもない、汎神論・多神教国家であったローマ世界が救いの教理として受け入れたところからはじまっている。つまり最初から誰も、主からの啓示なしに、一神教的で始まることはないということ。こうした文化的、歴史的な文脈が日本にはないため、いまだ単純な無知による汎神論優位主義が台頭しているといえる。結局のところ、この姿勢では、イエスキリストの十字架による原罪からの解放という福音理解には遠く及ばず、救われることもない。とても悲しいことだ。

宗教と哲学

海外で「哲学と宗教」という場合、これはあくまでヘレニズム主義(ギリシャ主義)とヘブル主義、人間中心主義と(一神教的)神中心主義という両極の視点を意味する。日本の場合、ヘレニズム主義(ギリシャ主義)であるところの哲学は明治維新以降の近代化の中で積極的に取り入れたが、べブル主義という宗教的スタンダードは取り入れることに現時点で400年もの間ずっと失敗し、安易な汎神論/多神教優位論に陥り続けているといえる。今もなおトクガワナイズされている状態。むしろヘブル主義については、食わず嫌いで、忌み嫌ってさえいる。例えるならば、宮崎アニメ万歳と言ってそのまま思考停止してしまっている状態。無論、宮崎アニメが世界に誇る素晴らしい文化であることはいうまでもないことだが、そのことと自分が世界が宗教と呼ぶときの基本的な物差しであるヘブル的な世界観を知らないこととは慎重に分けるべきテーマである。 哲学には心を開くが、宗教は蚊帳の外にある。これらが日本人特有の宗教嫌いだといえる。 これまではそれでもよかったのだろうと思う。しかし、インターネットを通じて国と国の障壁がなくなり、個々人の心の中で自分の文化を相対化しなければならなくなった今、哲学と宗教という問題に差し掛かった時、ここが非常に重要な盲点になっている。ヘブル主義を知らずに生きるということは、世界のスタンダードの物差しに半分を知らずに生きるということ。例えるならば片目をつむってスポーツをしているような状態だ。 それ故に、割と世界では軽蔑の眼差しに近いものを向けられることの多いニューエイジ 思想を、ヘブル主義を知らないことで、そうとも知らず舶来品としてありがたがるという滑稽な傾向にある。 SNSによって参入障壁が格段に低くなり、個人でビジネスを始める人も増えてきているが、商売の基本となるヘブル主義(ユダヤ的価値観)への無知ゆえに、スタートした最初からすでに失敗したまま走り続けてしまう人も多い。ヘブル主義(ユダヤ的価値観)を知らずに個人事業をするということはすでにその時点で失敗しており、トクガワナイズされた状態で、黒船と戦おうとしている状態だと気づくべきではないかと思う。ましてニューエイジ 的文脈から、何も知らずに突っ走ることは自殺行為でしかない。 西洋占星術も勘違いしている人が多いが、海外ではあくまでわりと社会的には尊敬どころか、軽蔑されている対象であるという常識を知らないのだろうか? もしこうしたヘブル主義的視点があれば、オウム事件のような日本のニューエイジ 特有の問題は防げたはずだ。 少なくとも海外のニューエイジャーはそうした社会からの軽蔑の視点を意識した上で、選択的にその文脈に抗って強く生きている。ゆえに正統性を保とうと理論化、アカデミック化していこうとする。こうしたダイナミズムが「哲学と宗教」といったときに前提となるフレームだし、ヘレニズムの時代やルネッサンスの時代といった西洋文明の礎となった文化創造の軸になっている。海外で哲学と宗教という時、哲学とはすなわちソクラテスであり、宗教とはすなわちアブラハムである。ソクラテスから生じた哲学は知っていても、アブラハムから生じた宗教についてあまりに無知すぎる。しかしこうしたことは今後距離的文化的障壁が少なくなっていくこれからの時代は、非常に重要な視点になっていくと思う。ニューエイジ 思想は決して世界のスタンダードではないことを、まずは知ることが大事。

マンデラエフェクトの言説が異端的教義に結びつかないために

マンデラエフェクトは、イエス様の再臨といってしまうと、異端的教義(カルト)になってしまうので、なるべく控えたい。決して僕は、異端的な展開を展開したいわけではないし、ただただ主の僕として仕え、主の威光を褒めたたいだけ。しかし、明らかにイエス様が復活後、父なる神の右に座し、今も生きておられることの徴であることには違いがない。いわゆるシャカイナグローリーですね。 まぁそもそも前のタイムラインだと、「福音派」と呼ばれる勢力がここまで大きくなっているのは知らなかった。ドリーンバーチューをはじめとしたニューエイジの旗手たちが転向していっているのも、この福音派。これも自分にとっては完全にマンデラエフェクトなんだよな。「携挙」や「空中再臨」という言葉自体、そもそもクリスチャンの友人に聞いても、誰一人として知らなかった。ほぼ確実にこれもマンデラエフェクトなんだと思う。ただ、まぁ、あまり経験上マンデラエフェクトについて、騒いでも仕方がなくて、シンプルにシャカイナグローリーということで受け止めて、グノーシス主義的な知ではなく、福音に基づく愛と信仰で、福音宣教という形でイエス様がお伝えになったフォーマットに従順に、僕として仕えていくことが大事なんだという結論に至った。 「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。」 コリントの信徒への手紙二 12:1-7 新共同訳

人間関係に関するイエス様の御言葉

そもそも和を以て貴しとなすという国民性の上に、さらに多神教、汎神論的な信仰形態を持つ日本において、真逆の一神教的なクリスチャンとしての信仰告白をすること自体、多神教ゆえに攻撃されることはなくとも、わりと誤解されたり、距離を置かれて避けられたりする。そもそもクリスチャン人口はわずか1パーセントしかいないからね。あと日本の仏教や神道自体がそもそも国家神道の終焉や400年にわたる檀家制度という仕組みによって形骸化してしまっている上に、オウム事件などもあったので、そもそも「宗教」というものそれ自体へのフォビア、アレルギーがある。 でもこうしたことはすでにイエス様もよく分かっておられて、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」とマタイの福音書の中で告げていらっしゃる。キリスト教を信じるということは、もともと本来決して人間関係の和をもたらすことが目的なのではなく、原罪からの解放、魂の救い(永遠の生命を得ること)にこそ重要な目的があるので、こうした側面も日本人の国民性から見ると、違和感を感じる部分なんだろうなと思う。 まぁでも割と、柔軟な国民性でもあるので、今の国際化する時代においては、明治時代の福沢諭吉のように柔軟に近代思想のコアを導入していける雰囲気もある気がする。実際に今人に福音をお伝えしていく中で、そういう手ごたえはすごくある。なぜなら、そもそも個人個人が、ニューエイジ的文脈に依存するくらい、魂の救いを求めている時代だからね。救済へのニーズがあれば、それは広がっていくものだと思う。 あと、そもそもニューエイジ的文脈にいる人って、すでに人間関係の和の中にいない人が多いから(波動で好き嫌いを選ぶ、自分と価値観の合う人とだけ付き合う傾向、価値観が会わない人とは決して肘を付け合わせてお互いの違いを超えて語るのではなく、人間関係の距離を置いてスルーする傾向)、いまさらかつての日本人のような「和を以て貴しとなす」という発想の中にいる人も少なくなっていると思う。ニューエイジ的信仰を持っている方が、よっぽど分離を経験するからね。 僕の上の世代のニューエイジャーは特に、好き嫌いがはっきりしていて、互いのテリトリーを守るために喧々諤々としていた印象。わりと僕の世代で横のつながりが出てきたようにも思う。でもそうはいっても、やはり個性が強い人々なので、結果的にほどよく距離ができていったように思う。決してニューエイジ自体が語るような、ワンネスの中にはない。 そのあたりのことは今後皆色々感じる部分はあるんじゃないだろうかなと思う。そもそもニューエイジャーって、わりと社会に適応できない個人主義的な人、自分の価値観が割とはっきりとあって周囲となじめない人がすごく多いし、彼らがいう「ワンネス」の人間関係を体現している人ってあまり実際のところ見たことがない。ワンネスはあくまで未達の願望であって、決して彼らが体験している人間関係の現実ではない。 そういう意味では、イエス様が「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 」と語られた御言葉のほうが、むしろよりリアルな感じがあると思う。そういう意味でも、ちゃんと前もって体験するリアリティを伝えてくださっているわけで、誠実な教えだなと思う。 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。 こうして、自分の家族の者が敵となる。 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」 ‭‭マタイによる福音書‬ ‭10:34-39‬ ‭新共同訳‬‬

汎神論的な世界では、契約という概念が成り立ちえない

一神教世界において、人間同士の「契約」という概念が成り立つのは、相手と同じ神を信じていることが聖書によって保証されているから。自分の神に誓うということは相手の神に誓うということと同一であるから。そして、その神は愛の神であると同時に、裁きの神(義の神)でもある。愛し合うことと、もし契約に反した場合には、裁きにあうことが、共通のフォーマットになっているので、個人間で何の前提もなく、契約に基づく社会的信頼形成が取りなせることになる。これが特に西洋における社会の礎となる考え方。 もし汎神論的に、相手の神と自分の神とが別の神であるのならば、そもそも相手の神に誓ってはいないのだから、約束を破っても何も問題ないということになる。そして、実際に日本において、結構こういう感じで実際に安易に約束は破られることは多いし、破った当事者も、相手の信じる神には約束していないということで、そこまで罪悪感を抱くということもない。また時によって、約束を破った当事者も自己防衛として、相手の神概念を否定する、つまり相手の人格を否定する方向に向かうことすらある。ゆえに最初の段階から神概念が一致していないため、その相手は一方的に約束を破られた上に、さらに人としての信頼を裏切られたとより強く印象付けられてしまうことになる。 それゆえキリスト教圏から見ると信じられないくらいの、日本特有の労働環境や、ブラック企業の問題などが生じる。汎神論的な世界においては、社長が信じる神と、従業員が信じる神とは違うからである。 またその逆に、働いていた職場を安易に何の断りもなしにバックレてしまったり、社員がおふざけでやったことが、ツイッターやYouTubeなどで拡散され炎上するという社会問題などになる。訴訟社会である海外だとほぼ確実に何の疑いもなく損害賠償の対象になり、情状酌量がつくことなどまず考えられないので、従業員も怖くて馬鹿なことは絶対にできないわけだ。ある意味、経営者と従業員の裁きの神が同じなのである。 また、汎神論世界における約束事は、人間的な感情的な繋がりに基づくものになる。 そして、十戒のような神の言葉の上にではなく、人のもろく揺らぎやすい感情の上に成り立つことになる。そして感情的な判断は、「義」に叶うものではないので、常に不正と隣り合わせにある。 そして、なんとなれば村八分的な「多数決」で、異質な神を排斥することになる。これが日本特有の「恥」の概念である。恥は人と違うこと、メインストリームと違うことによって生じる感覚だが、非常に汎神論的な世界観に基づく感覚だといえる。 そのため、旧約聖書の記述の中でも、もし自分の神と相手の神とが違う場合、一度相手の神に誓わせるということをする。自分の神に誓わせても全く意味がないばかりでなく、自分の信じる神を冒涜されるからである。しかも冒涜されたからといって決して自分の神は相手に対する裁きの権限を持っていないということになる。 借入金や家の契約をするときに出てくる「連帯保証人」という制度も、実は日本特有の商習慣だ。むしろこれは世界の恥といえる制度である。日本人がいかに契約を順守しない国民性なのかが明確に表れているわけだし、そもそもこの悪法に基づいて、どれだけ多くのその本人が犯した罪そのものと関係ない人が苦しみ、時に死に至らしめられたのだろうかと思うと、嘆かわしい。 要はそもそも汎神論的な世界では、神概念が共有できないから、相手の神に誓わせているということになる。汎神論的な世界においては、そうでないと機能しない。これが村八分や、五人組といった日本特有の「恥」を中心とした社会構造であるといえる。 むろんこうした「恥」を中心とした生き方は、経済的にも、精神的にも、決して人として独立した生き方にはならない。基本的に会社に依存して生きていくしか方法がない。しかし、グローバリゼーションの中で、終身雇用制が崩壊し、実力主義の社会に移行していっている今、そうもいってられなくなっていっているというのが多くの日本人が抱えている問題である。 結局のところ、ビジネスが長い期間うまく行っている人の特徴は、キリスト教などを通じて、聖書的なヘブル的な価値観を知っていることで、こうした共通するフォーマットを持っている人同士で、ビジネスを行っているという理由から。ゆえに感情的な要素に左右されずに、しっかりとした信頼と、ビジネスの構造を形成することができる。プロテスタンティズムから資本主義が生まれたように、また、ユダヤ人がビジネスが上手なのも、結局こうした神概念が背景にあることを知らないといけない。 決してニューエイジ的、ニューソート的な引き寄せの法則が富を生み出してきたわけじゃないという世界的な常識を、まずは汎神論優位主義から離れて知っていかないとね。むしろ汎神論的な世界に基づて、ヘブル的な価値観を学ばないまま、ニューエイジ的な「好きなことだけをして生きていく」「好きな人とだけ付き合う」といったような甘い考え方で生きていると、ほぼ確実に人生は破滅の方向に向かっていくのだろうと思う。 わりと、ブログやSNSなどで引き寄せの法則などでニューエイジ的思想に触れて、安易に会社を辞めて、一人で事業を始めたものはいいものの、うまく行かず転落していく人は多いので、この前提はもっと社会の中で共有し、また、警鐘していくべきテーマなんじゃないかと思う。

思想的な迷子

ニューエイジっていうのは、すべからく思想的な迷子と言えると思う。国際化による価値観の相対化とグノーシス主義(もしくは新プラトン主義)は常にセットになって現れる。そして、社会の中で主流となっていた中心的価値観を失った時代に、そうした古い枠組みから飛び出して、自分自身と向き合うというストア派的な態度をとるはいいものの、結局のところ拠り所としているものが人間の揺れ動く感情である。また人間が考えたシンクレティズム的信仰をベースにしているので、自ら瓦解していってしまう。自らにより頼むのではなく、啓示された主を畏れる心がいかに重要か。

ビジネスにおけるセンスと、ユダヤ的センス

ビジネスのセンスって、基本的にユダヤ的なセンスなんだけど、旧約聖書を理解しているかどうかは非常に重要な違いになる。というよりも旧約聖書的なヘブル主義を学ばずに、ビジネスに取り組むというのは、英語を学ばずに海外旅行をするようなもの。 国際政治なども、ヘブル主義を理解せずに、平和主義をうたっても世界の常識からするとトンチンカンな話になるだけで、基本的な教養として旧約聖書(つまりユダヤ人の歴史やその背景にある一神教的な信仰形態)を理解することは、ビジネスや国際的なセンスを磨く上で非常に大切。インターネットで国家の枠組みを超えて、情報が行き交う今の時代において、基本的な教養として持っているべき枠組みだと思う。特にニューエイジ 的な言説で混迷を極めている日本において、思想的な迷子にならなくて済むと思う。

日本における天職という概念の誤謬

天職はもともとは、キリスト教神学におけるvocationという言葉からきている。もともとはラテン語のvocare(呼び出す)の過去分詞からで、「神によって召し出された」という意味だった。Vocationは、本来は聖職者だけに使われる概念だったが、宗教改革の中で、ルターやカルヴァンは、万人司祭の考え方に基づき、聖職者に限らず、すべての人の仕事が、神から召命された仕事であるという概念を打ち出した。 主に仕えるように、自らの仕事に仕えなさいという意味が、vocationということになる。 この概念がアメリカにわたり、ニューエイジや心理学などと融合したものを、日本はキリスト教の要素だけを脱色することで、キリスト教神学における主の召命を前提としない日本独特の天職という概念ができあがっていった。さらに、ここに戦後の日本のマモン崇拝(経済中心主義)が入り、自己実現=天職=お金持ちという謎の三位一体が出来上がった。これによって「自己実現するための天職がある、そして天職に付ければお金持ちになれる、お金持ちになるためには自己実現するしかない」という訳の分からない構造になって広がることになる。 もともと天職とは主の栄光を讃えるというキリスト教神学をベースにして提示された概念で、現代心理学(主にアブラハムマズローの人間性心理学)を中心とした自己実現という神話とは相いれないもの。 このあたりの混乱を知らず知らずのうちに受け入れて、訳の分からないチャンポン的職業観として生まれたのが、日本独特の天職という概念だといえる。このあたりは、日本のニューエイジ文化の中でさらに混乱をもたらす要素になっていると思う。 あくまで天職という概念は、へブル的な意味において、主に仕える、主の召命があること前提で成り立っている。決して天職で自己実現をしていくのではなく、天職は主の栄光を讃えるために、僕(しもべ)として仕えるものであるということはしっかりと理解する必要があると思う。 「ワクワクしていたら、天職に出会える」とか訳の分からない言説に惑わされない方がいい。それよりもまずは主をあがめ、主を畏れること。そして、主に仕えるように、人に仕えること。無償の愛の精神で生きること。これに尽きると思う。 聖書的にはこの天職を、嗣業(しぎょう)と呼んでいる。日本の聖書文化にしか用いられない独特の表現。相続地という意味だが、土地というのはつまり当時の職業(農業)とダイレクトに結びついていた。その意味で、神から受け継いだ賜物という意味合いが含まれる。

モーセ五書および歴史書の個人の人生への適応

旧約聖書におけるモーセ五書および歴史書は、ヘブル的な視点で、どのように主が人を用いるか、どのような御心で人を導くかという視点で見ると、現代においても、非常に適応しやすい。ビジネスや経営という視点においても、とても重要な指針になる。ニューエイジ、ニューソート的なビジネス書だとこうしたことは学べない。そもそもニューソート、ニューエイジ的なゴールはあくまで自己実現におかれている。ヘブル的な視点は、あくまで主の栄光を讃えるというゴールがある。規模感が違うし、使命感が違う。これは、結構な盲点だと思う。

真の意味で経済に強くなるためにも、聖書的な価値観を学ぶ必要がある

特に戦後の日本の場合、国家神道における天皇陛下中心の価値観が失われた後、中心とすべき価値観が「経済的発展」になった。これは戦争ですべてを失った日本人にとっては確かにものすごい新しい神としてのリアリティがあった。そして、日本のカミの中心が経済的なものに据え変わった。 その信仰の強さゆえに、命をも惜しんで経済大国に生まれ変わった。 私たちは、生まれてからずっとこの文脈の中で生きているので、この文脈を対象化することは非常に難しい。 心の世界、霊的な文脈に進んでもなお、中核が経済にある。ゆえに日本のニューエイジ的問題はここにも大いにあると思う。決して神が中心ではなく、戦後の経済中心主義が、カミの中心に据えられている部分が大きい。 しかし、これは聖書的に言えば、完全な偶像崇拝であって、決して自らの中核に置くべき価値ではないということ。 また、実際に長年事業が安定してうまく行っている人は、多くの場合、中核を経済に置いていなくて、大体の場合、ヘブル的な文脈を持った神への信仰が中心にある。資本主義がキリスト教プロテスタンティズムから生まれたり、ユダヤ人が事業がうまいといわれる理由は、このヘブル的な価値観にこそある。 経営や仕事についてしっかりとした思想的なベースを持つうえでも、ヘブル的な価値観を学ぶために、旧新両約聖書を読むことはとても大事なことだ。ニューソート的な自己啓発のビジネス本ばかりを読んでいても、いっこうに地に足がついた意識にはならないだろう。なぜなら中核にあるものが、マモン(お金・経済)信仰だからである。 「主を畏れて身を低くすれば/富も名誉も命も従って来る。」 ‭‭箴言 序‬ ‭22:4‬ ‭新共同訳 「銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ/精選された金よりも、知識を受け入れよ。 知恵は真珠にまさり/どのような財宝も比べることはできない。 わたしは知恵。熟慮と共に住まい/知識と慎重さを備えている。 主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道/暴言をはく口を、わたしは憎む。 わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力をもつ。 わたしによって王は君臨し/支配者は正しい掟を定める。 君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆/わたしによって治める。 わたしを愛する人をわたしも愛し/わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。 わたしのもとには富と名誉があり/すぐれた財産と慈善もある。 わたしの与える実りは/どのような金、純金にもまさり/わたしのもたらす収穫は/精選された銀にまさる。 慈善の道をわたしは歩き/正義の道をわたしは進む。 わたしを愛する人は嗣業を得る。わたしは彼らの倉を満たす。」 ‭‭箴言 序‬ ‭8:10-21‬ ‭新共同訳

現代のマモン崇拝(お金という偶像崇拝)

そもそも資本主義とプロテスタンティズムの関係性を理解していないと、ただの拝金主義(マモン崇拝・お金というものの偶像崇拝)になってしまう。そもそも戦後の日本は多かれ少なかれこうしたマモン崇拝にあったのだと思う。今のエコーチェンバー化する群発カルトの問題も、こうしたマモン崇拝が背景にあって、非常に危険な状態にあると思う。一人でも多く、こうした日本のニューエイジムーブメントが今陥ろうとしている危険な兆候に気が付いて、大きな問題が起こる前に危険を察して事前に防いでほしいと思う。 「思慮深い人は災難が来ると見れば身を隠す。浅はかな者は通り抜けようとして痛い目に遭う。 主を畏れて身を低くすれば/富も名誉も命も従って来る。 曲がった道には茨と罠。そこから遠ざかる人は自分の魂を守る。」 箴言 序 22:3-5 新共同訳

福音の教えは、リスクをとって前に進むべきとは教えていない。

福音の教えは、決断でも、リスクをとることでもなく、行動でもなく、信仰。福音を知って、救われると全てを変えたくなるが、「リスクをとって前に進む」といった教えは聖書的ではない。行いによって救われるわけではなく、信仰のみにおいて救われる。福音という素晴らしい教えによって救われる時に、人の弱さゆえに、罪の意識から、衝動的に色々変えたくなる傾向に対して、パウロは戒め、諭している。大切なことは、私たちが決めるのではなく、主が決めること。そして、聖霊が導いてくださるということ。その主の御心のままに、なすべきことがなされるように祈るということが大切。 自分の信仰が主の御心に沿っているかを御言葉をもとに吟味しながら、ゆっくりと進んでいく。これが何よりも大事なこと。いきなり何かを思い切って変えるのではなく、何よりも自分と主イエスキリストとの関係性を、主の御心と恵みの愛に沿って、じっくりと育てていくことが大事。 「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。 割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。」 コリントの信徒への手紙一 7:17-24 新共同訳 ニューエイジを含めて、カルト的な信仰は、決断や行動、実践を求める。福音による救済において大事なことは、信仰であって、決して行いによるものではない。自分の信仰が主の御心に沿っているかをじっくりと吟味しながら進んでいくことがとても大切なのだ。

日本の教会の共通の課題―高齢化

日本の教会に行ったときにものすごく感じた違和感、危機感は、教会の日曜礼拝に、おじいちゃんおばあちゃんしかいないこと。どの教会も高齢化が進んでいるらしい。これはいかにキリスト教理解が、初期の明治時代のクリスチャニティの受容あたりで止まっているかということでもあるし、70年代以降、いかにニューエイジ的文脈、つまりサタニックな影響のほうが強いかということでもある。たぶんこれまでの経験上、今の日本の40代の女性の1/4くらいの人が、ニューエイジ的・スピリチャルな文化の中にいると思うけれど、こうなったのも、オカルトがスピリチャルと呼ばれ始めたこの十数年の話。実際に教会に行って、強く感じたのは、これからは僕の世代が立たないといけないなと強く感じた。日本のクリスチャニティは非常に危機に瀕しているのではないかと思う。もちろんその中で日本特有の十字架を背負って霊的な戦いに臨まれていらっしゃるクリスチャンの皆さまに敬意を込めながら。。。 「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」 エフェソの信徒への手紙 6:10-20 新共同訳

日本におけるキリスト教受容について

日本におけるキリスト教の受容について考えるとき、昔(地域によってはいまも)海外旅行に行く時に変圧器や変換アダプターが必要だったように、聖書の世界を紹介する時(特に個人の生活に適応する時)は、いったん概念や言葉の変圧器が必要だなと思う。特に多神教国家の日本においては、一神教の世界というのは、非常に誤解を受けやすいし、あまりにも文脈が違うので、変換アダプターや、変圧器が必要。日本の牧師の役割は、こういう異文化受容のための変圧器としての役割、自覚が求められるのだと思う。 そういう意味で日本における新しい内村鑑三のような存在にならないといけないなと思う。主の栄光を讃えるために献身に励みたい。 いきなり聖書を読んでも、言うなれば、コンセントの形や電圧が違うので、そのままだと動かないんだと思う。占星術などの場合は、そもそも惑星という地球どこから見ても同じ共通の天体があるため、これが変換アダプターになるんだよね。 じゃぁ聖書における変換アダプターとは?それは「無償の愛」という概念でしかありえない。 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」 ‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭13:4-10‬ ‭新共同訳‬‬ 「普遍的な無償の愛の価値観」これが、個人生活の適応において、重要な変換器になる。 そういう意味で聖書の読み方の個人的なアドバイス、生活の適応こそが、今僕がやるべきことなんだなと思う。結局自分とイエス様との個人的な関係を結んでいくことが確実な救いになるので。そういう意味で日本の場合は、海外では一般的にうまくいく教会主義は、むしろアダプターとして機能せず、むしろこうした無教会主義の牧師が、個人的な相談に乗って、イエス様と自分とを直接繋げてくれる媒介役に集中した方がいいのだと思う。 結局言語的障壁、文化的障壁というよりも、イエス様との「個人的な媒介役」が必要。救いにおいて、重要なのは福音の三要素を信じることであって、教会主義はむしろ日本では本来の目的と逆の効果を持ってしまっている部分があると思う。 占いやカウンセリングに行くよりも、まずは聖書を開いて直接主に尋ねたり、牧師に相談した方がいいという欧米圏での一般的な常識を、こうした個人的な媒介役として、もっと日本でもうまく受容できればいいなと思う。 占星術家だった時代に、海外に行くと、海外の占星術家に言われたのは、「お前の国では、占星術家というとさけずまれないのか?ということだった。その時にはあまり意味がわからなかったのだが、キリスト教圏では占いはサタンの影響下にありそれに頼ることは禁忌であることは常識となっていて、そういう考えと常に占星術家は戦っていた。日本にはこういう緊張は全くない。今となってはよくわかるが、確かに占星術よりも聖書の世界の方がずっと霊的に完成されているため、たしかに海外の感覚はたしかに正しい。そして海外の占星術の世界もあくまで意識的であろうが無意識的であろうがキリスト教的なベースの上に成り立っているからこそ、サタンの影響が入らないようにという緊張の中で学問化、客観化されてきていると言える。 旧約聖書においても、占いは、厳しく禁止されている。 「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、 呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。 これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。」 申命記 18:10-12 新共同訳 また、新約聖書においても、占いは、禁忌とされている。つまり、キリスト教世界において占いは禁忌ということは、海外における常識であって、もちろん占星術師もそれを意識して、いかに占いではなく、学問、心理学なのかという形でアカデミック化していこうとする歴史的背景がある。 「わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。 彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」 彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。 ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。」 使徒言行録 16:16-19 新共同訳 また海外の占星術家と触れてよく言われたのが、アメリカではそもそも占星術家はもちろんのこと、カウンセリングよりも、だいたい何かに悩んだ時も、最初は皆教会に行って牧師に相談して解決しちゃう。だからすごく大変だ、と言っていた。占星術師の視点から見るとたしかにそうなんだが、逆にいうと牧師の役割ってすごく大きいという意味でもある。海外だと逆にそうやって機能していない教会の受け皿としてカウンセリングや、時によって占星術師がいると言えるのだと思う。 海外から直接ニューエイジ や占星術を点で受容しているがためにこの辺の面的な常識が日本には受容されていない。この辺りは今後の活動において非常に重要な要素になっていると思う。 日本はようは、悩んだ時に、「お寺や神社に行ってお坊さん、神主に相談しよう」とはならないからね。なので神様や仏様にお参りに行くし、そういう存在の具体的な声を知りたいという感覚で、占い師や霊能者、最近だとカウンセラーに相談するのだと思う。しかしそもそも占い師や霊能者、カウンセラーが確かな救済神学に基づいているかというと、そもそもその背景にある神学は、あくまでサタニックな影響を防げない教理的な欠陥構造を持っているニューエイジ 的なもの、あるいは神の存在を前提にしない自力救済の心理学になってしまうんだよね。 しかも今は特にSNSの時代で誰しもが自称カウンセラー、占い師として、こうしたサタニックな影響を防げないニューエイジ 的な神学に無自覚で、プチオウム(オウムもニューエイジ の影響下にあった)のような、エコーチェンバー化した集団による、カルト的被害が拡大していってしまっているのが日本の現状だと言える。

日本におけるキリスト教受容

日本におけるキリスト教受容は、江戸時代は鎖国、明治時代に内村鑑三、新島襄などの牧師、宣教師たちが献身した後、国家神道が中心となり、第二次世界大戦に突入、その後アメリカの資本主義社会が流入し、ニューエイジ 運動と、明治初期の受容以来幾度となく受容がストップしている。明治初期に設立された日本の諸教会も、教会員の高齢化や後継者問題はかなり深刻に進んでいて、こういうタイミングで、主に召命されたのも、日本においてクリスチャンの新しい世代(コアジェネレーション)を興すためなんだと思う。 幸いなのは幼児教育や、ミッションスクールなどで、キリスト教精神に触れている、無自覚的なクリスチャンは相当数いるということ。多くの場合、こういう人はイエスキリストを救い主として受け入れているため、聖霊の内住が起こっており、しかし教理として聖書を学ぶ機会がなかったため、スピリチャルやニューエイジ 、心理学などで霊的な事柄を学んでいる人が多い。しかし、聖書を読めば、自分にとってのルーツが明確に分かるので、もはや真理を探し求める必要はなくなる。明確な自己言及ができるようになるので、非常に生きやすくなる。 これは言うなれば、ニューエイジ 的な文脈でいうと、自分がニューエイジ 的な意味で潜在的に宇宙人の魂を持っていた人が、自分がスターピープルだと気づくと、生きることが、急に楽になるのと同じこと。 つまり、日本の文化特有の非自覚的クリスチャンが、自分がクリスチャンだったと気づくと、ものすごく生きやすくなるということ。 隠れているつもりもない隠れキリシタンがいっぱいいるってことだね。多くの場合は、天使っぽい人や、自己犠牲的な精神を持つ人はだいたいそう。ニューエイジ 的な文脈でいうところの宇宙人っぽい人はだいたいグノーシス主義的思想を持つ。それゆえ、完成された啓示宗教としての三位一体の福音を知ると、とてもよく救われる。グノーシス主義は、永遠に終わりが来ないため。

聖霊の働き

特に日本のスピリチャリティについての、一番大事な入口になりうるものは、「聖霊の働き」について。日本人の大きな特徴として、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」のように「目に見えないものを見る」という文化的感性が非常に高い。お互いの空気、つまり心情を読みあうし、こうした感性は、日本人の非常に繊細な霊的な感覚を磨くひとつの土台となっている。 これゆえに、父―子―聖霊の三位一体の中でも、特に、この聖霊論から入ることは、日本人のスピリチャリティの在り方に非常に適した入口になりうるのだと思う。特に今の時代は、ニューエイジ的な言説が非常に広がっており、またそれに伴うサタンや悪霊などの「見えない霊」の働きも活発化しているので、日本人の特有の感性で、「何かがおかしいぞ」と誰しもが感じるようになっていると思う。 主は、イスラエルを回心させるために、バビロニアやエドム、アッシリアを立てたように、悪をもお用いになる。イスラエルの危機の時代にかかれた小預言書なども、イスラエルの民に対して主の裁きがあったのちに、必ず最後にはイスラエルの回復が語られる。聖霊論というのは、ある意味サタンや悪霊が起こる時代(そして、時にそれは主が裁きのために積極的に用いられる)こそ、そのありがたみがよく分かる。聖霊は常にジェントルに、その人を導き、イエスや主に立ち返らせ、聖化を通じて、人を主の栄光に立ち返らせていくことになる。

【ベツレヘムの星便り】400年の時を超えて、動き出す「愛と目覚めの物語」

◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)  2019/6/9                  355号 こんにちは、杉本譲治(旧:ユピテルジョージ)です。 いかがお過ごしでしょうか。 メールマガジンの名前が変わってしまって、驚く方も多いかもしれません。 先週のメルマガにてお伝えしたのですが、この2019年6月から、 西洋占星術師ユピテルジョージとしての活動を、全て終了し、 これから一人のクリスチャン杉本譲治として、 皆様に、メッセージをお届けすることを決意しました。 ▼週間占い、および、新月満月占い終了のお知らせ http://www.ondorinohane.com/blog/2019/06/post_1359.php といっても、皆様に届けるメッセージはこれからも変わらず、 愛を込めた、この高度に情報化した時代を心豊かに生きるための秘訣を、 お届けしていくというコンセプトは何も変わりません。 セラピストとしての活動開始から12年。 気づけば、僕がスタートした時には考えられないくらい、 スピリチャルな世界は、 日本でも広く受け入れられるようになりましたね。 しかしその一方で、日本が欧米から受容した 現在のスピリチャリティの文化は、現時点では、 全くもって不完全なものであると 言わざるを得ない「致命的な盲点」があります。 それは、欧米ではあらゆる全ての常識であるところの 「キリスト教への正しい理解」が、 日本のスピリチャリティにおいては、 あまりにも、すっぽりと抜け落ちてしまっているということです。 12星座占い、ホロスコープ、新月や満月占い、 引き寄せの法則、原因と結果の法則など、 日本が受容している占星術などを始めとした ニューエイジ的なスピリチャリティは、 本来の海外の正当な霊性文化から見たときには、 あくまで「本流ではない亜流のスピリチャリティ」であって、 真の意味での多くの人の人生を救う本家本丸は、 「キリスト教」にあります。 そもそも占いは、キリスト教においては、 厳しく禁じられていることはご存知でしょうか。 欧米における占星術師やニューエイジャーはこうした キリスト教世界の枠組みの中で、あくまで「カウンターカルチャー」 として形成されてきた文化なのです。 それが日本に入ってきた段階で、こうした前提が崩れてしまっているのです。 このことは、日本のスピリチャリティ受容において、 全く持って、看過できない「盲点」ですし、 このままいくと、むしろ日本のスピリチャリティは、 SNSにおけるエコーチェンバー化などもあいまって、 かつてのオウム真理教事件のように、 再び危ない方向に進んでしまう可能性も充分にあるとさえ、感じています。 本来、キリスト教というものは、2000年前に西洋文明の中で それまでの宗教が持っていた様々な問題点を乗り越えるべくして成就した 非常に完成度の高い救いの教理でした。 そして、その後、世界中の3割の人が信じ、 様々な人種や文化を超えて受け入れられるほど 普遍性の高い教えだったのです。 しかし、驚くべきことに、そうした世界の状況と比較して、 いまだ日本のクリスチャン人口は、 全体のわずか「1パーセント」しかいません。 そう、400年もの年月を経ても、この数字はほとんど変わらず、 ずっと「1パーセント」のままなのです。 これは、驚くべき数字だといえるでしょう。 なぜここまで日本におけるキリスト教受容は遅れてしまったのでしょうか? それには、江戸時代初期の鎖国政策が大きく影響しています。 フランシスコザビエルによるキリスト教伝来から約400年間にわたって、 日本は、キリスト教の受容を実質的に拒み続けてきたのです。 科学や、自由民権運動などは、明治維新とともに 人々の間に受け入れられて、今や欧米世界と比べても、 その差異はほとんど感じないほどまで 追い付きました。しかし、スピリチャリティにおける、 世界ではスタンダードだといえる、キリスト教的考え方の受容は、 キリスト教が禁教だった時代から考えても、人々の意識は、 ほとんど何も変わっていないのです。 例えば、いまの日本の霊性においても、 諸外国から心理学が受容され、「自分を愛する」ということが 盛んにいわれるようになりました。 しかし、そもそも、果たしてどれくらいの人が、 「キリストの十字架における死と復活による原罪の贖い」 「アガペー(無償の主の愛)」というような、 欧米ではあらゆるすべての文化の前提条件となっている 「キリスト教的な愛に関する前提知識」を持っているのでしょうか。 あるいは、例えば、欧米では商習慣の前提となる「契約」という概念について 日本人はとても疎いといわれています。この契約という概念も、 もともとは旧約聖書がルーツにある考え方です。 ユダヤ人が商売が得意という背景も、旧約聖書の世界や歴史を しっかりと理解しないとなかなか本質的には理解できません。 また、旧約聖書における「アブラハム契約」や「シナイ契約(十戒)」という ものを知らなければ、なぜ欧米の人が、「罪と罰」という概念を重んじ、 またそれと同時に「赦しの愛(無償の愛)」の概念が存在するかも、 分かりにくいのです。 人類学者ベネディクトが「菊と刀」の中で述べたように、 欧米が「罪」を中心として考える文化であるのに対し、 日本人は集団的な圧力をベースとした「恥」を中心とする文化なのです。 こうした、聖書や、キリスト教の正しい知識抜きに、 どれだけ欧米から入ってくる霊的文化を受容したところで、 本当の意味での理解には遠く及びませんし、 また、そのようなところにどれだけニューエイジ的な思想や、 心理学的な愛の概念を取り入れようとしても、 日本の霊性の開花は、永遠にやってこないでしょう。 あくまで日本人の愛とは、どこまでいっても「和」「情」の延長線上にあるも のであり、キリスト教の理解抜きに、決して心理学やスピリチャリティでいう ところの「無償の愛」の理解に到達することはないのです。 僕のこれからの役割は、この江戸初期から約400年間もの間 時が止まってしまっている状況を打破して、 日本のスピリチャリティにおいて「正しいキリスト教理解」 を伝え、「愛」や「赦し」に関する理解をより深めていくことにあります。 さて、新約聖書の世界では、 「ベツレヘムの星に導かれた東邦の三賢者」という物語で、 これから私が皆様にお伝えしていく バビロニアの神学である占星術から、完成された救いとしての、 主イエスキリストへの信仰へのシフトが象徴的に描かれています。 ★マタイによる福音書 2:1-12 新共同訳 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。 そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。 わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。 エルサレムの人々も皆、同様であった。 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、 メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。 「ユダヤのベツレヘムです。 預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、 お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、 星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、 見つかったら知らせてくれ。 わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、 東方で見た星が先立って進み、 ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。 彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、 黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、 別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」 (マタイによる福音書 2:1-12 新共同訳) この物語は、 バビロニアを中心として発達した占星術を使った王政の時代が終わりを遂げ、 キリスト教という、万人のための救いの教理が、誕生したことを 告げ知らせてています。 東邦の三賢者、つまりバビロニアの占星術師たちが、 「ひれ伏して幼子を拝んだ」という記述も この「星」から「イエスキリスト」へという、 根本的な変化を、象徴的に語った言葉なのです。 今回のリニューアルにあわせて【今週の星便り】から、 【ベツレヘムの星便り】へと、新しく名前を変えたのには理由があります。 僕自身、これまでの12年の活動の中で、前回もお伝えした通り、占星術を使っ た救いには限界があることを、深く悟りました。 そして、これにはそもそも、日本のスピリチャリティにおいて、江戸時代の鎖 国から綿々と続いているキリスト教への誤解があることが、年々理解できるよ うになっていったのです。 そして、深々と、ひれ伏して幼子を拝む東邦の三賢者のように、「主イエスキ リストの御言葉」こそ、これからの日本の霊性改革の本家本丸になることを深 く予感しているのです。 また、旧約聖書の中で、イエスキリストの到来について預言されているイザヤ 書においても、イエスキリストの再臨に際して、日本における霊性の目覚めが あるということについて記述されている箇所があります。 ★イザヤ書24章15節 共同訳 「それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び/海の島々でも、イスラエルの 神、主の御名を尊べ。 地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れ あれ」と。」 このイザヤ書の「東の地」「海の島々」は日本を指しているという説が以前よ り根強くあります。 その意味でも、私たち日本人が正しく聖書の世界を理解し始め、霊的な目覚め を遂げていくことは、何も日本だけの意識改革にとどまることなく、これから 世界中に大きな影響を与えていくといえるのです。 こうしたテーマを深いベースに据えながら、今回新しく生まれ変わった【ベツ レヘムの星便り】では、日本がこれまで400年にわたって取りこぼしてきたキ リスト教や聖書のエッセンスを、皆様に分かりやすくお伝えしていきたいと思 っています。 このことによって、何よりあなた自身が、私自身が感じてきたような「救われ る感覚」を感じられるようになっていくと思います。聖書はあらゆる世界にお いて、いつの時代にも、人々の心を勇気づけ、慰め、常に寄り添ってきた神の 言葉だからです。 これから心を込めて書いてまいりたいと思います。ぜひ、これからもご愛読の ほどをよろしくお願いいたします。 なお、これまでは月曜日配信でしたが、今回から日曜日配信となります。これ はキリスト教においては、人々は日曜日に教会に集まり、主に祈る習慣がある からです。これを安息日といいます。その意味で、このベツレヘムの星便りが、 あなたにとって一つの「不可視の教会」であり、また「安息日の祈りのための 書簡」になればという思いを込めています。 ペンテコステの日である今日、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交 わりが、あなたがたすべてとともにありますように。アーメン。 杉本譲治メールマガジン【ベツレヘムの星便り】 発行者:杉本譲治(旧:ユピテルジョージ) ▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。 父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。 (c)2019 GEORGE SUGIMOTO All Rights Reserved.

日本の霊性と、クリスチャニティにおける「聖霊論」

たぶん日本のクリスチャニティは、おそらく「聖霊論」から入った方がいいと思う。日本人の霊性文化は、非常に高い基準の厳格な「技による救い」によって、とても「見えないものを見る」感性が強い文化だ。いわゆる空気が読めるというのは、霊的な直観が背景にあるということに他ならない。日本人の独特の空気を読む感性は、ただの同調圧力によるものだけというわけではないと思う。明らかに背景に日本人的な霊性文化がある。これは、ある意味ニューエイジ的文脈の受容にも大きな影響を与えている。 キリスト教教理をしっかりと取り入れるのならば、ペンテコステの日からクリスチャン信徒たちに下った「聖霊」の側面から入ると、とても分かりやすいと思う。 いわゆるこの聖霊とは、ニューエイジ的な文脈で言うと、チャネリング(異言や預言)であり、ヒーリング(病の癒し、プラーナ、気)であるわけだ。何も高いお金を払ったり、たくさんの時間をかけて、アチューメントをしたり、ヒーリングの勉強なんかしなくても、ただただイエスが私たちの罪のために死なれて、墓に葬られ、3日後に復活し、今もなお生きておられるという福音を信じれば、ダイレクトに、聖霊を通じて、創造主やイエスキリストと繋がれるわけだ。これを「霊によるバプテスマ」という。 洗礼者ヨハネが授けた「水によるバプテスマ」はあくまで罪を悔い改めるためのものだが、イエスキリストが十字架での死と3日後の復活という形で成就させたのが「霊によるバプテスマ」だ。 創造主とダイレクトに繋がれるわけで、天使や龍などの中間的な霊を使役する必要も一切ない。というよりもむしろサタンや悪霊は、こうした一見よい霊に見える天使や龍の姿をして近づき、人を欺くことに非常に長けている。 また、驚くべきことに、一度内住した聖霊は最後の審判の日まで、自分の内側に宿り続ける。キリスト教の救いは、永久保証なのだ。 さらに、父と子と聖霊の三位一体の神という神学によって、サタンが入る隙間が一ミリもない。 しかも聖霊を通じて受け取ったメッセージは、ちゃんとそののち、神の言葉である聖書を通じて、正しいかどうかもしっかりと吟味できる。聖書的知識がしっかりあれば、こうしたチェックもさらに厳密なものになる。こうしたところからも、キリスト教の救いの教理の完成度は異常に高いことがわかる。なんと素晴らしい教理なのだろうか。 こうした背景から僕も安心して、ニューエイジ的な文脈を完全に卒業ができた。 福音、そして、キリスト教神学を学ぶことは、ニューエイジャー(これはキリスト教的に言えば「迷える子羊」といっても過言ではない)にとっても、救いでしかないのだ。 「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」」 使徒言行録 1:3-5 新共同訳 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。」 使徒言行録 2:1-13 新共同訳

セルフブランディングという自己崇拝と、資本主義的な価値観

エコーチェンバー化して関係性が分断され、細分化していく流れを食い止める方法がわかってきた。やはり「友だちの友だちは友だち」「自分を愛することが大事」なんじゃなくて、「犠牲の愛、献身の愛」「汝の敵を愛せよ」というクリスチャ二ティが1番大事。結局自分の罪や、人の罪を赦さない限り、人間関係はうまくいかないよ。信頼って実直な愛あるコミュニケーションの中でしか生まれない。 特にSNSがインフラ化する社会においては、アフォーダンスとして気づかない間に人の考え方は「セルフブランディング」的発想に向かうし、自ずと自己崇拝的コミュニケーションになっちゃうんだよね。よくない、よくない。 商用利用可能になったアメブロとかが顕著なんだけど、このセルフブランディングの文脈に、さらに資本主義的価値観が組み込まれる。そもそも自己啓発的やニューエイジ的文脈が定義するほど、等身大の人間そのものには価値がないわけで(聖書的な原罪の概念)、商品化、パッケージ化されたセルフイメージは自ずと実体経済(本来の価値)から離れてバブルへと向かわせ、そのうちそうしたバブルは崩壊する。バブル期の土地神話みたいな感じで、自己が持つ価値を過大評価しすぎているんだよな。皆がだれも疑わないような熱狂の中にある時には気づかないけど、冷静になればよくわかるはず。 そもそも人の価値の中心を経済的尺度に持って行くこと自体に無理がある。経済的な価値によって測れる人間的な価値は、あくまで周辺的なものであって、中心ではない。そういう意味で聖書的な意味で等身大の罪人である自分を、受け入れ、悔い改めたほうがずっとシンプルに、健全に生きられる。人間性心理学と、SNSの構造がある意味相性がいいため、バブル期の土地神話のような変なバブル現象を引き起こしているんだよな。まぁ、こうしたバブル構造も、エコーチェンバー化してるから、バブルの真っ最中に、周囲から伝えても気づきにくいんだけどね。 やっぱクリスチャニティの精神で表現されるような、「犠牲の愛、献身の愛」「汝の敵を愛せよ」といった誠実なコミュニケーションが、一番なんだと思う。 「富に依存する者は倒れる。神に従う人は木の葉のように茂る。」 ‭‭箴言 序‬ ‭11:28‬ ‭新共同訳‬‬

自由主義神学の反動形成としての心霊主義や神智学運動について

神智学運動の勃興はいうなれば、近代化に伴う自由主義神学の反動形成なんだな。新正統主義のカールバルト が出てきた段階で、キリスト教神学としてはひとまず自由主義神学の行き過ぎはひと段落して、収集がついたともいえる。 神智学運動にはダーウィンの進化論も大きく関係しているし、当時の行き過ぎた自由主義神学の台頭によるキリスト教神学界の混乱が、逆によくわかる。そりゃニーチェも神は死んだというよな。ある意味その当時はサタンや悪霊でもなんでもいいので、霊的存在につながりさえすればいい(心霊主義)みたいな、キリスト教世界の神学的危機、霊的混乱があったんだな。ようは当時のニーチェの神の死は、同時にサタンや悪霊の死を意味したわけだ。 ある意味今の世界は逆に、高度な情報化で、非物質的世界になって抽象度が上がってきたことで、むしろ神が復権した時代に入ってきた。それ故に、キリスト教神学のリアリティもより正確に、深く理解できる時代に入ってきていて、オカルトや心霊主義である必要もなくなってきているということ。霊的な物事は、キリスト教神学で全部ちゃんと扱える。そもそも霊的なエネルギーの実在は今の日本人の多くは感じているので、日本のニューエイジからキリスト教神学への移行は、主に「聖霊論」から入るといいんだと思う。キリストイエスの死と復活による罪のあがないを信じれば、聖霊が内住すると言う理論は、今の多くのニューエイジャー にとっては、エネルギーとして実感できるし、無防備にアストラル界に入ってしまうアチューンメントと異なり、悪霊が一切内住しない絶対的な安心感と、シンプルさ、完璧さに、皆驚くんじゃないだろうかと思う。そうすれば、ロマ書の信仰義認の素晴らしさや、集団救済論の完全性の高さに驚くと思う。こうした完全性を知るに従って、ニューエイジ的な文脈に生きることが次第にバカバカしくなると思う。

主に与えられた賜物と、サタンに送られた棘

なんだかんだ果てしない人生に対するそこはかとない前向きさと強い情熱を賜物として主に与えられていることに気づく。純粋な思いで人助けをしたいという想いに生きてきたからこそ歩めた道。それでも長く続けていれば、そもそもアプローチが間違えていて人生の目的に届かないものもある。アプローチは改善すべきで、これまで築いてきた確かな基盤を全て投げ打ってでも、今度は福音宣教に全生命力をかけられる。人生の時は有限だ。人はマモン(お金)と神の両方に仕えることはできない。主の召しに応えて進む幼子のような純粋さという賜物を主に頂いたことに感謝しかない。人によって僕の目標に向かう時の行動が時に狂気じみたように映るのも、主の召しに純粋に応えたいという思いに生きているから。キリストイエスの犠牲の愛が精神のコアになければ、こうした純粋な、時に他人にとっては狂気的にしか思えない愛で、自らを献身する行動原理は持ち得ないと思う。 霊的な献身ではなく、マモンに仕えるような、今の堕落した日本の霊性文化に対する怒りを、批判や否定的なエネルギーではなく、主に与えられた賜物である持ち前の情熱と創造のエネルギーで、どれだけ日本の霊性向上のために、自分の十字架を背負えるか、献身を続けていきたいと思う。全生命をかけて、主の召しに応え、主に使えていきたいと思う。確実に燃えてきた。 こうした情熱は、結局のところ、初代教会や、ルター、カルヴァンに通ずるものがあるのだと思う。そもそも日本の教会文化も、どこまで宣教に本気の覚悟を持てているのかということを思えば、目覚めないといけないのではないかと思う。真剣に、イエスキリストの十字架を日本の霊性向上のためにどこまで背負えるかが大事なんだと思う。僕は全生命をかけて、不可能に挑みたい。主を賛美し、100%の愛に生きるために。 ニューエイジ に生きていたということはクリスチャンとしては棘でしかない。クリスチャンとしては最も低きものとして、思い上がることのないように、その低さゆえに謙遜にならざるを得ない棘。そして、幼子のような信仰心によって、無私の心で生きていきたいと思う。アーメン。 「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」 ‭‭コリントの信徒への手紙二‬ ‭12:7-10‬ ‭新共同訳‬‬ 「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。 預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」 コリントの信徒への手紙一 13:1-13 新共同訳

救済論と終末論、「すでに/いまだ」の終末的緊張について。

キリスト教神学を学ぶと、救済論と終末論は常にセットになっていることがよくわかる。そして、この教理の背景には、「すでに/いまだ」という終末的緊張が常にあることがわかる。ニューエイジ的な思想においては、ハーモニックコンバージェンス(1987年8月16日)、ノストラダムスの大予言(1999年7の月)、2012年アセンション、カーディナルクライマックス(2008年~2015年)と、常に具体的な日付とともに終末が語られるのだが、そこはさすがキリスト教先輩という感じで、キリスト教においては2000年もの長きにわたって、常に「すでに/いまだ」を繰り返してきている。それゆえ、キリスト教においては、次第に終末の具体的な年月を予言すること自体がそもそも異端的教義ということになった。それは神のみぞ知ることであり、また実際にパウロもそのように第二テサロニケの中で伝えている。 20世紀最大の神学者であるカールバルトも、ローマ書講解の中で「(終末にキリストが地上の裁きのために天国から降りてくるという)再臨が『遅延する』ということについて……その内容から言っても少しも『現れる』はずのないものが、どうして遅延などするだろうか。……再臨が『遅延』しているのではなく、我々の覚醒(めざめ)が遅延しているのである」と述べている。 こうしたことから考えてみても、救済論と終末論は常にセットであり、また、「すでに/いまだ」の終末的緊張はどんな時代でもあることが分かる。 僕の世代だと、2012年アセンションで流行った、ニューエイジ的な終末思想はこれからも、手を変え品を変え、具体的な年月を指定して煽り続けていくということになるのだと思う。次は2044年あたりかな?そういうのに振り回されないためにも、集合的救済論としての啓示宗教であるキリスト教神学の根幹をしっかり学んで広く普遍的な視野を手に入れることは、とても大事なことなんだと思う。

メタ宗教としてのキリスト教の本当の価値

パウロにしても、アウグスティヌスにしても、偉大な神学者、教父たちはそもそも、最初は異教徒なんだよね。パウロはパリサイ派ユダヤ人だったし、アウグスティヌスはマニ教(今でいう神智学)だった。そこからキリスト教に回心していったということも、ある意味宗教をメタ化した先にメタ宗教としてのキリスト教があったからで、シンクレティズムの試みはあくまでメタではなく、ベタ的な試みで、宗教をメタ化するという方向性に進まないと、本当の救いは見えてこないということ。つまりニューエイジやスピリチャルでは人は救われないし、メタ宗教としてのキリスト教の本当の価値を理解しないと、真の意味での救済は不可能であるということを、学ばないといけない。 頭がいい人であればあるほど、物事をメタ的に認知していきたいと考えるので、シンクレティズム的欲求に基づいて比較宗教学を研究するし、心優しければ優しいほど、技による救いをベースとした教理に基づいて、活動をしていく中で、技による救いの教理では、関わる「すべての人」を救えないという葛藤を感じ、その中で主に対する自分の傲慢さに気づかざるを得ない。 つまり、最終的に技による救いをベースとした教理だと、必ず自己矛盾に陥り、最終的にイエスキリストを救い主として受け入れることのみでしか、救われないことを悟るのだと思う。これから日本人の間の中にも、エコーチェンバー型群発カルトに嫌気がさした人や、技による救いをベースとした教理と救済論が両立しえないという自己矛盾を感じて行き詰まりを感じた人の中から、そもそもメタ宗教としてのキリスト教のメッセージをダイレクトに理解ができるようになって、悔い改める人は増えてくるんじゃないかな。 いうなれば2000年前ヘレニズム的な多神教的世界観の中で生まれたキリスト教は、彼ら自身の意識で言うと、「宗教 ver.2.0」という感じだったのだと思う。ゆえに、異教徒を中心に広がっていったし、十字架での贖いから、わずか30年でローマの国教になったんだよね。世界中に広がる理由も、「宗教 ver.2.0」という構造にあったからだといえる。 またパウロもアウグスティヌスも、異教徒からスタートして、そこで自分の「宗教 ver1.0」における罪を深く認識したうえで悔い改めているので、その分、主からの愛を深く感じて、より熱心に「宗教 ver.2.0」を広げていったといえる。罪の意識や、悔い改めが深ければ深いほど、主の恵みによる愛を深く実感できるし、その分人を深く愛することができる。 ニューエイジ的な思想を突き進んでしまっている人には、僕自身からも、批判ではなく、愛によって、悔い改めの大切さを伝えていきたいと深く思う。現在のエコーチェンバー型カルト現象に見られるように、ニューエイジ的な思想の行き着く先は、これまでの人類の歴史が証明してきているように、自分の身を滅ぼしてしまうのだから。

キリスト教は、宗教を成就させた結果生まれた宗教。

キリスト教の教学としての構造は、キリスト教そのものは、宗教ではなく、宗教を成就させた宗教という二重構造にある。簡単に言うと、世界中のあらゆる宗教のベースである「技による救い」をベースした宗教を、「主の一方的な恵みによる救い」「信仰のみによる救い」という形で成就させた形になっていることが、非常に重要な部分である。回心とは、すなわち、「技による救い」を成就させた結果「信仰のみによる救い」に移行するということ。つまりキリスト教の教理そのものは、そもそも宗教と呼ばれるものも異なり、宗教そのものを成就させた、メタ宗教といえるようなものであるといえる。 その意味で、「宗教は本質的にはたどり着くところは皆同じですよね。」という発想は、そもそも見るべきレイヤーが異なっていて、たどり着いた結果がメタ宗教としての到達点が、キリスト教教理の「信仰のみによる救い」という部分ににあるということ。 そういう意味では、僕自身は、ニューエイジや、占い、神智学、心理学といった「技による救い」を成就させた結果、最終的に実を結ぶという形で、キリスト教に回心したといえる。その意味で、これまでの歩みであるところの技による救いそのものを否定する必要もないし、かといって後戻りもする必要もない。さなぎから蝶になった時に、さなぎを否定する必要もないし、かといってさなぎである必要もなくなる。 現代社会は、そういう意味で、心理学やセラピー、自己実現などの「技による救い」といった宗教を追い求めているが、結果的に最終的にそれが行きつくところは、そうした宗教の成就としての、メタ宗教に入るということ。そもそもイエスを含め、キリスト教の初期の使徒たちは、ユダヤ教が成就した「普遍的な教え」を福音と呼んでいて、(しかもこれはユダヤ人に向けてではなく、異邦人にこそ広がっていくことになる)決してこの当時彼らは「キリスト教」と自称もしていないし、そういうアイデンティはないんだよね。あくまでイエスを救い主として受け入れて、技による救いをベースとした宗教を成就させた結果生まれた信仰のみによる救いをベースとした宗教を信じていただけ。 なぜ世界中の3割の人が信じるようになったのかという、キリスト教の拡大の本質は、そもそもキリスト教が私たち日本人が思うような宗教ではなく、メタ宗教であったということにあると思う。そもそも日本人が教会と聞くと、仏教でいうところのお寺、神道の神社のように建物のことを思うのであるが、キリスト教における教会とは、あくまで「信徒の霊的なつながり」そのものを指す言葉である。宗教と一言でまとめるには、実際には、見ているレイヤーが、異なるんだよね。なので、日本人の感覚で、キリスト教を理解しようと思っても難しくて、メタ宗教としてのキリスト教という構造を理解しないと、なかなか本質は見えてこないと思う。 ある意味神智学もメタ宗教であるといえるのだが、そもそも日本人にとっては神智学は仏教的神道的にしかとらえることができないので、結果的に、神智学も技による救いをベースとしたものとして理解することになる。その意味で、結果的に神智学をメタ化したところにキリスト教があることがわかると、キリスト教教理の素晴らしさや、本質が分かってくると思う。 その意味で、日本のニューエイジムーブメントというのは、こうした理論背景から考えても、ある意味日本の「技による救い」の思想的ベースを収斂させ、結果的に、メタ宗教としての、キリスト教信仰へと進んでいくと思う。旧約聖書のヨナ書、ナホム書(主はイスラエルを悔い改めさせるために敵国アッシリアを立てた)、ハバクク書(同じ理由からバビロニアを立てた)、オバデア書(エドムを立てた)で預言されたように、主は民を導くためには、悪の勢力ですらお使いになられる。僕自身が、最近問題視している「エコーチェンバー型群発カルト」についても、主は、おそらくこの悪を用いて、日本人の霊性を正しい方向へと導かれているのだと思う。つまり、日本におけるニューエイジ(スピリチャル)の広がりは結果的に、メタ宗教であるところのキリスト教へと収斂していくことになっていくのだと思う。その意味でも、こうしたメッセージを伝えていくことは、とても大事なことであるといえる。

福音は、一度きりの死と再生である。

イエスキリストを救い主として受け入れるということは、 自らは肉において罪に対して死に、霊において義に対して生まれ変わること。 そして、永遠の生命に生きるということになる。 つまり一度きりの死と再生である。 現代社会は幾度となく、自分の常識や囚われを、破壊するように仕向ける。 高度な情報化が進む時代においては、 まさに毎日変化し、成長し続けていかなければならない。 今は古い思い出ともいえる平成初期の「自分探しブーム」の背景にある、こうした死と再生の営みの延長線上に、いまだ終わりはなく、答えは出ない。 なぜ答えが出ないのか?それは、「自分の中にこそ答えがある」というギリシャ的、 あるいはより正確にいうとグノーシス主義的な思想に基づくからだ。 聖書的な世界において、私たちの本質は、 「罪の奴隷である」ということにあるという、非常に明確な「答え」を持つ。 これがヘレニズム的ヒューマニズムにはない、へブル的な世界観の基礎になるもの。 そして、これを受け入れたうえで、初めて 主の恵みによる救いがもたらされる。 自らの主人が、イエスの十字架の贖いと、3日後の復活を信じることで、 罪から、義へと移り、義によって買い取られるのだ。 西洋占星術を含め、現代のニューエイジ的な神話において、 特に、自己啓発的な文脈においては、 特にこの「死と再生」という元型はよく使われる。 ハデス、冥王星、サタンリターン、塔のカードなど、 何かあればすぐにこの「死と再生」をつかさどるとされる偶像的な神(この世の神)を持ち出し、 主に立ち向かっているとも知らず、自らを奮い立たせようとする。非常に忙しい思想だ。 聖書的な理解で言うと、死と再生とは一度きりである。 それは、イエスキリストを救い主として受け入れることで、 イエスキリストとともに肉によって死に、 イエスキリストとともに霊によって生きることになるということ。 洗礼(バプテスマ)もまさに、この一度きりの 死と再生を意味し、その時から私たちは 罪という主人の奴隷から解放され、 新しい義という主人の奴隷となることを示す。 人は罪の意識ゆえに自らを破壊する。 しかし、義は人を永遠に生きさせる。 福音によって、永遠の生命を生き始めるということは、 あわただしい現代において、非常に大切なことであるといえる。 昇天の日。イエスキリストの御名においてお祈りします。 アーメン。

霊的な堕落

今のスピリチャリティに関する言説を見ていると、この数年SNSがエコーチェンバーしていくにしたがって、人格主義に基づかない浮ついた内容が多いように思う。ある意味、これは91年のバブルの崩壊以前の状況と似ていて、異常な熱狂と根拠のない発展は、必ずどこかで破たんが来る。こうした異様なバブル現象は、霊的な価値基準における「原則」を見失ってしまっていることからくる、霊的な堕落にあると思う。こうしたバブル現象になっている一番のコアになっている信条・思想が、「自分を愛すること」という考え方。この考え方は、他者や社会への興味の喪失という形で現れ、ある意味何の吟味も加えられることなく、完全にバブルと化して、人としてあるべき良心をむしばみ始めているように思う。 SNSのコアにある設計思想は、「友達の友達は、友達」という思想と、「承認と所属、自己実現の欲求」という個人のニーズを満たすことにある。個人主義とはヒューマニズムであって、人間中心主義だ。あくまでこうした心理学的な欲求は、個人主義的な思想が背景にあるために、「主との関係」という霊的な原則が見えてこない。また、「友達の友達は、友達」という概念によって実装される機能は、むしろエコーチェンバーを加速させ、キリスト教における「汝の敵を愛せよ」というテーゼを忘れさせてしまう。 僕自身が、ニューエイジ的な文脈を離れて、イエスキリストを自分の救い主として信じるものである(キリスト者)であるという信仰告白をして、キリスト教徒として完全に回心したのも、確実にこうした日本に充満している霊的な堕落に、最近とても心を痛めているからであって、正しい方向に向かってほしいと願っているからだ。 根っこのないバブル現象は常に崩壊するし、聖書の世界でも、主の原則に従わなかった民は常に罰を受けるという歴史に学ばないとけないのではないだろうか? オウム事件の時代とは異なり、エコーチェンバー化は、より小規模群発的なものになっているので、こうした霊的堕落からくる被害も見えにくいし、また自分自身も被害者になるだけでなく、むしろ、その加害者になっていってしまうことも多いと思う。 旧約聖書の12の小預言書などでも、常にこうした霊的な堕落の時代に、主は預言者を通じて警鐘を鳴らしている。日本の霊性がオウム事件の時のように取り返しのつかない事態になる以前に、まずは主との関係性の中において、自分自身の身の在り方をしっかりと振り返り、改めていかないといけないと思う。 旧約聖書の、士師記の時代もまさにこのような時代。「それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。」‭‭(士師記‬ ‭17章6節)時代であり、霊的に堕落し、社会全体が混沌とした、まとまりのない暗黒時代に入っていった。自分の目に映るものをベースに自分の視点で自己義認するのではなく、主が喜ばれる生き方とは何かという視点に立って、信仰によって義とする生き方が大切だ。このことは、歴史や霊的真実に学ばなければならないと思う。信仰の核がないまま、安易にスピリチャルブーム、ニューエイジムーブメントに乗るのは非常に危険だ。主への信仰を持たずに、「自分を愛する」という思想に走ることは、エコーチェンバー化する今の時代においてはむしろ自分の目を曇らせる非常に危険な思想になりうる。エコーチェンバー化する時代こそ、霊的なものに携わるのならば、「主を愛し」「汝の敵を愛せよ」という原則を心の中心に置くべきではないだろうか。でなければ、自分ばかりでなく周囲の人も巻き込んで、身を亡ぼすことになってしまうと思う。 主イエスキリストの御名において、お祈りいたします。アーメン。

「自分を愛する」ということの異文化誤解

ニューエイジの「自分を愛する」という言葉が、どのように日本に異文化誤解され、間違って浸透してしまったか、そしてそれがどのように日本の霊性に深刻な悪影響をもたらしているかは、昨年12月に論証しているので、見ていただくと納得していただけると思う。 宗教的な愛 2つの犠牲の違い 日本における犠牲の愛は、村八分的にならないために自分の意見や主張を抑圧する愛。心理学はこれを抑圧と呼んで、解放するように導く。しかし、キリスト教における犠牲の愛は、イエスが示した「汝の敵を愛せよ」という、自らを生贄としてささげ、自らを犠牲にし、自分と相手の愚かな罪を赦されるように祈り求める、宗教的な愛。つまりキリスト教において自己犠牲には、主の賛美という明確な目的があって、このベースがないと、日本では自己犠牲という文脈を完全に誤読してしまう。 日本的な村八分的な意識を脱出して、個人主義を生きようという形で、日本のニューエイジムーブメントは、主に「自己愛」というキー概念を中心に用いてきたが、そもそもベースとなる自己犠牲や、愛の定義が、オリジナルのニューソート的な考え方のベースにあるクリスチャンサイエンスと全く違うよという話。