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ニューエイジ」の検索結果

パウロの回心

パウロはもともと厳格なパリサイ派のユダヤ人で、イエスを迫害する立場だった。しかしダマスコの道の途中で復活したイエスに出会うという神秘体験を通じ、回心する。 僕自身も、もともとキリスト教において、占星術や占いは忌み嫌うべきものであるということは知っていたし(ゆえに学問としての心理学などを援用しながら、なるべく判断占星術な要素を廃そうとしてきた、しかし「技による救い」をベースにしていて、福音を伝えていないという段階で、結果的に根本からこれは間違っていた営みといえる)、かといってキリスト教はどこか敷居が高いと感じて、ずっと様々な宗教が混交しあったシンクレティズム宗教であるところのニューエイジの文脈の中で生きてきたが、マンデラエフェクトやこれまでの様々な経験を通じて、「ニューエイジ的な思想こそ人や世界を救う」という基本的な認識が、間違えていたことがよく分かった。「福音こそが、人を救う」のだ。 こうした父と子と聖霊の三位一体に基づかない、多神教、偶像崇拝的な集団的他力救済教理は、必ずといっていいほどサタンがつけいることになるのだ。どれだけ注意深く愛をもって伝えているつもりでも、多神教、偶像崇拝的、集団的他力救済論である以上、構造上、それは絶対に避けられない。三位一体論に基づかない救済論的神学は、誰がどう伝えようがは全く関係なく、構造上、必ずカルト化する傾向を持つのだ。つまりそもそもの神学としてのシステム的な欠陥だといえる。これは、グノーシス主義神学(神智学)を学んだうえで、キリスト教神学を学ぶと本当によくわかる。 キリスト教神学入門 アリスター・E. マクグラス パウロはコリント信徒への手紙の中で、自分の神秘体験などについて語る。しかし、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。」「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 」と語る。また、自らのことを、教会を迫害したものとして、「使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」と言い切る。 パウロの誠実に悔い改める姿こそ、キリスト者の規範であると思う。自分自身もニューエイジ文化を歩んできたことを悔い改め、福音を伝えていけるように頑張っていきたいと思う。 「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」 ‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭15:9-10‬ ‭新共同訳‬‬ 「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」 コリントの信徒への手紙二 12:1-10 新共同訳 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」 ローマの信徒への手紙 1:16 新共同訳

エコーチェンバー化する群発カルト

SNS時代に入っても、結局、地道にテキストを書き綴って行くことが大事なんだなと思う。SNSは構造上、どこかで廃れるからね。必ず。 そもそも文節ごとに、社会的評価の対象になっていたら、一貫した文脈のある抽象的な思索や研究は残せないわけで、SNSの文章と結果的に、どちらが残るかというと明らかにしっかりとした思索の上に積み上げられてきた文章だからね。 アメブロや、youtubeなど、ランキング形式で視聴率を稼がないといけないという浅はかな動機で、エコーチェンバー化していくここ5年くらいの言説を見ていて、なんか色々嘆かわしく思う。主がお怒りになるんじゃないかなと。 システムによって実装された一過性のブームは、そのシステムが機能しなくなると一気に崩壊するという、砂上の楼閣だということを知らないといけない。昨今のエコーチェンバー型で群発カルト化するニューエイジ ブームの傾向に、特にこの1年ほど嘆かわしく思っている。ニューエイジ が持つオウム事件の背景にあった本質的な構造と何も変わらない。当時と違うのはSNSが登場したことで論説がゲリラ化、小規模群発化、それゆえに個々の被害が見えにくくなっている、しかし群発化によってむしろ被害は拡大再生産し続けている。つまりエコーチェンバー化する群発カルトの問題に当たっても当事者が泣き寝入りしやすくなっているだけだ。それゆえに、こうした知識を知って、自分の身を守ることはとても大事。 https://www.google.co.jp/amp/s/www.cyzowoman.com/2019/05/post_230997_1.html/amp https://m.youtube.com/watch?v=GLolOIaD3-E こういうエコーチェンバー化する群発カルトは今後本当に自衛や教育が必要になると思う。問題はこうした論説の影響を受けた人がさらにゲリラ的に問題を引き起こし拡大していくという部分にあるんだよね。うんざりする。 オウム問題ですら、さまざまな問題が発覚するまでは、テレビ局は視聴率が取れるという理由でよいしょを続けていたからね。学者も新しい宗教の形ということで追従していた側面もある。同じことを繰り返しちゃいけないし、ましてテレビや宗教団体と違って、SNS上で群発カルト化していく現在のエコーチェンバー型の論説は、核となる中心がないため、その中心っぽいものが失われても、また別の中心がすぐに再生産されて、アメーバのように広がっていく。またゲリラ的なので、被害の全体像が把握しにくく、エコーチェンバー化した集団の中では多勢に無勢で泣き寝入りするしかないので、気付いた時には手遅れになっている場合も多い。和をもって尊しとなす日本人は、泣き寝入りして、そっとその集団を離れるくらいしかできないからね。本当にこうした被害に遭っている人は、可哀そうだと思うし、救われてほしいなと思う。 「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。 子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。 偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」 ‭‭ヨハネの手紙一‬ ‭4:3-6‬ ‭新共同訳‬‬ 「「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」」 ‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:15-20‬ ‭新共同訳‬‬ 「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」 ‭‭ヨハネの手紙一‬ ‭4:1‬ ‭新共同訳‬‬ 「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。」 ‭‭マタイによる福音書‬ ‭24:24‬ ‭新共同訳‬‬ 父と子と聖霊の御名において、日本の霊性が正しい方向へと導かれていくことを、心からお祈りします。アーメン。

エコーチェンバー型群発カルトという形態

戦後の日本の霊性って、ヘブル的な価値観が脱色され、中核が無くなったまま、アメリカ型の資本主義経済およびヘレニズム的自由主義、人間中心主義史観へと移行し、さらにそこにビートルズのイマジンに代表されるニューエイジ 的思想、精神世界ブームがポップカルチャーとして到来し、バブル崩壊後はオウム事件という形でニューエイジ 的なカルト思想が表面化し、その後江原啓之氏に代表されるスピリチャルブームがやってきたという形になっているんだな。で、結局今は、オウム事件の時期と異なり、ニューエイジ 的言説は、教団的な形をとらず、情報空間の中で、SNSなどで広がる中心のない緩やかにつながった小規模かつ群発的(ゲリラ的ともいえる)なカルト(エコーチェンバー現象化するカルト)に移行しつつあるという。一昔前に流行ったカルト的なネットワークビジネスなんかも、こういう形態だと言える。基本的なニューエイジの背景知識や危険性の認知は、こうしたエコーチェンバー型の群発的なカルト的思想から自分の身を守るためにも、今後非常に重要なものになると思う。一言で言うと、カルト的なニューエイジの今の形態は、エコーチェンバー型群発カルトといえるかな。小規模群発型なので被害が見えにくい。身を守るためにも、聖書を通じてへブル的価値観を学び、人やものを神とする偶像崇拝を避けるべきだね。

セルフブランディングと偶像崇拝

いわゆる巷に溢れているセルフブランディングというのは、十戒で戒められている偶像崇拝になりうるんだよなと思う。つまりは、自分自身を崇拝される対象、偶像にするということになりうるのだから。特にニューエイジ的なビジネスが、セルフブランディングを謳うのは、偶像崇拝の極み。あるいは、主以外のもの、つまり憧れの人を神のように崇拝することもまた罪(つまりサタンが入り込む要素)になる。カルトは多くの場合、ブランディングされた精神的指導者への偶像崇拝によって成り立つ。無論、ブランディングした結果偶像崇拝の対象になることも、十戒においては滅びの道である。霊的なものを扱うということは、すべからく自他の偶像崇拝を辞めて、主の賛美に立ち返るということが非常に大事なんだと思う。その意味で自分を愛するということや、自己価値を高めるという言説も、ある意味偶像崇拝になりうる。また、こうした自己崇拝は、最終的にはマモン(お金)への偶像崇拝に行きつくことになる。 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 ‭‭マタイによる福音書‬ ‭6:24‬ ‭新共同訳‬‬ 自己価値を高めるのではなく、罪びととしての自分が主イエスキリストによって赦されていることを知ることが大事。あくまで主の教えは、主を愛せよ、そして自分を愛するように人を愛せよ、ということにある。その中で、主の栄光を表すことこそが、真の価値だといえる。 主の栄光を称えれば、主の子供として引き上げられるのだから、わざわざ自己価値を高めるべきとかいうことは必要がなくなる。それが「御名があがめられますように」「御国が来ますように」「御心が天に行われる通り、地にも行われますように」という意味だ。 偶像崇拝というと分かりにくいが、英語ではidol worship(アイドル・ウォーシップ)。何か外側のものや人を、あるいは自分自身をアイドル化(偶像化)することは、常に罪と表裏一体である。特にSNS時代はこうした自己崇拝という偶像崇拝については、気を付けないとね。主を讃えよう。

オールドエイジ

結局のところ、ニューエイジ ではなく、オールドエイジ的な主こそが、父性としてはしっかり機能するということだね。

福音と完成された父親の元型

ヘレニズムの神は、ゼウス。すなわち父親として放蕩的な神であり、決して父性としては理想的な神ではない。占星術でいうと天王星(ゼウスは木星ではあるが、むしろヘレニズムは固定化された伝統的文化を破壊し、相対化、普遍化する力であり、天王星の象徴下にあるといえる)であり、エディプスコンプレックス、父親不在的な神。ヘブライズムの神は、聖書の神であり、つまりは父と子と聖霊よりなる三位一体の神。厳しくも、愛を持って導く完成された父親像。占星術でいうと土星的な父性。父親不在のテーマは、ヘレニズム的なプロセスでは癒されない。最終的には、三位一体の神であるところの、ヘブライズム的な神として受け入れない限り、永遠にエディプスコンプレックス的な物語は終焉しない。つまりいくら占星術やニューエイジ(スピリチャル) 、自己啓発、自分探しをやろうが、三位一体の主の愛、完成された福音に触れない限り、永遠にエディプスコンプレックスは癒されることはない。 エディプスコンプレックスにおいて、人が救われるとは、すなわち、ヘブライズムにおける主イエスキリストを救い主として受け入れることで、初めて癒され、完成するということ。それこそが福音の素晴らしさなのだ。

奉仕や犠牲の愛とは何か?

他者への奉仕とは、奉仕する相手である他者のためということはもちろんなのだが、しかしむしろ大事なことは、何よりも自らの犠牲を通じて、主の栄光を賛美するためにすること。そうした純粋な行為を通じて、主を知らない人にも、主の栄光を知っていただけるというのが大切なテーマ。 罪なき主イエスキリストが自身を、罪にあふれた人類の生贄に進んでなられたように、他者のために自らを犠牲にするという無償の愛には、主の賛美という視点がなければ理解できない行為。これはヘブライズム的な価値観や、福音という要素がない、まるで自分が神になったように考える、ニューエイジ のナルシシズム的な自己愛の考え方には仕組み上理解し得ない構造。正しく主を畏れ、主を賛美する姿勢は非常に大切。こうしたことは主の義の側面や、主を畏れる気持ちを何よりも強調する旧約聖書を読んでいて思う。犠牲の愛の本質は主の賛美にあるというクリスチャニティ の理解は、主イエスキリストの愛を知る上でとても大事。

自己義認に陥らないために(自己義認の迷路)

福音を知るといいことは、自己義認/行為義認から離れられるということ。そして、信仰義認によって、罪人としてのありのままの自分を受け入れられるということ。そして、神によって自分が赦されたように、人を赦せるようになるということ。これは、赦しの愛に基づく、人との親密さや、人生における非常に深い安心感と平安を与えられる。 ニューエイジ的な思想においては、ありのままの自分とは、神のような無限の可能性がある素晴らしいものと教える。また、自分の意識が自分の世界を創造しているので、善悪はなく、価値観があわないのは相手との思いの周波数があわないだけで、距離を置いて、離れるべきだと教える。SNSの仕組みが幸か不幸かそもそもこうした価値観と非常にあうシステムなので、この10年でこうした価値観は蔓延していくことになった。そして、いつの日か「人間関係の断捨離」や「スルースキル」とまで呼ばれるようになった。こういった考え方は、非常に悲しいことではないだろうか。 無論こうした考え方であれば、自分の罪を振り返るということはなくなり、また、自分とは異なる価値観を持った他者との親密さを感じることもなくなる。結果的にこうした考え方は、こうした、日本に広がっているニューエイジ的な思想は、結果的にエコーチェンバー現象という現象をさらに加速していき、その人の人間関係を、孤立させていくだろう。 「自分を愛してくれる人だけを愛したところで、ほめられたことでも何でもありません。神を知らない人でさえ、それぐらいのことはします。 よくしてくれる人にだけよくしたところで、何の意味があるのでしょう。罪人でさえ、それぐらいのことはします。」 ルカの福音書 6:32-33 「いいですか、よく聞きなさい。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者によくしてあげなさい。 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者に神の祝福を祈り求めなさい。 もしだれかが頬をなぐったら、もう一方の頬もなぐらせなさい。」 ルカの福音書 6:27-29 しかし、一方でこうした現象について、やはり揺れ戻しというのは今後起こってくるのだと思う。こうした日本のニューエイジ受容における問題は、その人自身の内面に問題があるというよりも、そもそもマクロレベルでの異文化受容の過程の中で、不幸にも起こっているマイナスの化学反応なので、客観的に自分の状況を理解して、気づくことができれば、しっかりと抜け出せるはずだとも思う。また、本来そもそもニューエイジ的なものに惹かれた理由は、「霊的な渇き」にこそあるわけで、そういう意味で、本質的なクリスチャニティにおける主の愛というものに出会い、根本的に癒される大事なきっかけになると思う。 本来日本がアメリカから受容したニューエイジ的な思想の背景の常識としてあるべきだった、クリスチャニティというテーマについては、今こそ深く知るべき時だと思う。また、今後も、日本のニューエイジ文化の受容において、こうした西洋霊性の根幹であるところの聖書理解がないことが、非常に不幸な結果を生み出し続けているということを指摘し続けていかなければならない。 クリスチャニティの基本は、信仰義認にこそある。信仰義認は、聖書の中の、ローマ信徒への手紙(ロマ書)を読むと、非常に分かりやすく描かれている。決して難しい文章ではないし、長い文章でもないので、イエスの生涯について書かれた4つの福音書(マタイ/マルコ/ルカ/ヨハネ)とあわせて、ぜひ読んでほしい。キリスト教の本質的な救いの源泉は、この中にこそある。 人は皆、アダムとイブの時代に罪を犯してしまったがゆえに、すべからく原罪を背負っている。こうした罪をいかに贖おうと、モーセの十戒という律法主義に基づく行為義認および、自己義認を行おうとも、神の視点からするとそれは、義と認めらるには程遠い。律法主義に基づくと、人は、作り出し続ける罪をあがなうために生贄をささげ続ける必要があり、しかし、それによって原罪が消えることは永遠にない。ゆえに、神は人類を哀れみ、自らの独り子を、罪をあがなう生贄として、人類に与え、その御子を信じるものを義とされることにされた。この深い哀れみゆえに、人は、信仰によって義とされるという考え方が、キリスト教には存在する。無論、これはキリスト教圏においては常識であって、すべての文化はこのベースの上に成り立っている。 日本で一般的に受容されている「修行することでこそ、悟ることができる」という律法主義的な行為義認や、今のニューエイジ的な文脈の中でクリスチャニティのベースがなかったがゆえに「自分を愛すること」という文脈が誤読されて、すでにややカルト的な言説になっている自己義認の考え方は、こうした正しい聖書理解における「信仰義認」というものによって、日本的なニューエイジの終わりのない「自己義認の迷路」から抜け出せるのではないかと思う。 おそらく今後、クリスチャニティの存在しない日本的なニューエイジの問題は、エコーチェンバー化、カルト化する論説という形で、表面にあらわれてくると思う。そういった時こそ、そもそも西洋霊性の中核にある、正しい聖書理解というルーツを振り返る大切なターニングポイントになっていくのだと思う。日本のいわゆる「スピリチャル」(本来名詞ではなく形容詞だからおかしいのでこの言葉の語感はとても嫌いなのだが)は、SNSの発達によって、全ての人がメディアを持つ時代になった今だからこそ、特殊なカルト的形態に対する防衛をしっかりとしていかなければならないターニングポイントに差し掛かっているといえると思う。 願わくは、日本において主の御名があがめられますように。イエスキリストの御名においてお祈りいたします。アーメン。

主に感謝

主に感謝。罪深い人間は、どうやったって、イエスのような犠牲は難しい。ニューエイジ が言うような形で自分の内側に神がいるのではなく、ペンテコステの日以来、イエスを信じることにより、聖霊が内住し、イエスへと導いてくださっているというだけ。私たちが神なのではなく、主とのつながりを恵みによって頂いているだけ。主よ、私の罪をお赦しください。私も人を赦します。

テモテの手紙から

もちろんこうした現在の日本におけるニューエイジ がはらむ問題について、ジャッジするようではいけない。イエスは裁くためにきたのではなく、赦し、愛するためにいらした。この姿勢は、何より大切なことだね。 「くり返しますが、人々の心を乱し、怒らせるだけの論争をしないように注意しなさい。 クリスチャンは争ってはなりません。過ちを犯している人を、やさしく忍耐をもって正すことができるようになりなさい。 真理に逆らう人たちを、謙遜な心で教えさとしなさい。おだやかに、思いやりをもって話せば、神の助けによって、その人はまちがった考え方を改め、真理を悟るかもしれません。 そうして目ざめた人たちは、罪の奴隷として思うままにあやつる悪魔のわなから逃れ、神のみこころに従うようになるでしょう。」 ‭‭テモテへの手紙Ⅱ‬ ‭2:23-26‬ ‭JCB‬‬ また、テモテへの手紙におけるパウロの説教は、非常に現代的なテーマであるともいえる。 「テモテよ。これから書くことを、よく心にとめておきなさい。終末の時代には、クリスチャンになることが非常にむずかしくなります。 自分だけを愛し、また、お金がすべてだと考える風潮がはびこります。その時人々は、高慢な者、大言壮語する者、神をあざける者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、神を恐れない者になり、 また、他人を理解しようとしない者、人をだます者、節度のない者になります。彼らは乱暴で残忍な行動をし、善良な人をあざ笑います。 人を裏切り、すぐに思い上がり、神を礼拝するよりも自分の快楽に心を奪われます。 教会に出席していたとしても、聞いたことを何一つ信じようとしないのです。目をしっかり開けて、そんな人たちには近寄らないようにしなさい。」 ‭‭テモテへの手紙Ⅱ‬ ‭3:1-5‬ ‭JCB‬‬ 「どんな時にも、神のことばを熱心に伝えなさい。機会があろうとなかろうと、つごうが良かろうと悪かろうと、しっかりやりなさい。過ちを犯している人には忠告して、正しい道に引き戻しなさい。そして善を行うよう励まし、神のことばを教え続けなさい。 なぜなら、人々が真理のことばを耳ざわりだと敬遠し、自分につごうの良い話をする教師を求めて歩き回る時代が来るからです。 彼らは聖書の教えに耳を傾けようとせず、まちがった教えにしっぽを振ってついて行くのです。 ですから、危機感をもって目を覚まし、警戒していなさい。主のために受ける苦しみを、恐れてはいけません。なすべきことを十分になして、他の人たちをキリストへ導きなさい。」 ‭‭テモテへの手紙Ⅱ‬ ‭4:2-5‬ ‭JCB‬‬

三位一体論と異端

キリスト教における父と子と聖霊の三位一体論とは、ほかのマニ教やミトラ教、ゾロアスター教などの技による救いをベースとした異教やシンクレティズム宗教との混交を避ける上で、鉄壁の守りを成す教理だ。これは行いによらない、主の恵みに依拠する絶対他力信仰をベースとする救済宗教として、サタンや悪霊の影響から人を守る上に置いて、絶対に外してはいけない教理であり、ゆえに三位一体を取らない宗派は、異端として審問されてきたということなのか。すごい。 現代においては、ニューエイジ や、神智学なども、技による救いをベースにした教理であり、一神教や三位一体論の否定(汎神論的シンクレティズム)に基づくものなので、れっきとした異端となる。ニューエイジや神智学をベースとした教理が、SNSなどで伝言ゲームのように伝達されるに従って、サタニックな影響が現れていき、自ずと変な方向に進んでしまうのは、基本的教理が本質からずれているからなんだな。そういう意味で、正しい聖書理解はさまざまなニューエイジ 系のカルトに見られるような取り返しのつかない間違いを犯さないためにも、必須の知識だと言える。基本的な聖書理解がないゆえのニューソートやニューエイジ 受容という日本特有の特殊な霊性の問題は、危機感を持つべきこと。 おそらく聖書の中に書かれている反キリスト(666)とは、このニューエイジ 的シンクレティズムの中でしばしば中核的な存在として据えられるマイトレーヤ(神智学ではキリストマイトレーヤ と呼ばれ、キリストの再臨であるとされる)のことを指している。つまりニューエイジ文化においてシンクレティズムの結果生まれる弥勒信仰だ。 666とは、シンクレティズム宗教の日本において信じてきただけに残念なことではあるのだが、これは弥勒であり、日月神示の中で書かれる国常立尊(クニノトコタチノミコト)とは、サタンのことである。日月神示では、弥勒のことを567と表現するが、これは獣の数字666の天上界の6から1を引いて、人間界に1を足して、地上界では完全数の7になるように整えた数。ゆえに666が567となる。釈迦如来の入滅後56億7千万年後に弥勒如来が来臨するという数字も、この567である。むろん日月神示の中でも、国常立尊が、サタニックな存在であることは決して否定はしていない。もちろん、マイトレーヤがキリストであるということもない。 本来、弥勒信仰は、マニ教やミトラ教などの影響を受けて、形成されたものなので、日本に渡ってきている仏教はオリジナルの仏教(上座部)ではなく、かなりシンクレティズム化が進んだ教理で、実質はマニ教だと言える。そもそも自力救済理論である本来の上座部仏教と、他力信仰が入る大乗仏教は、理論的には両立しあえないのだが、日本に入ってきた段階でベースがマニ教的なシンクレティズム宗教になっているので、すでにいわゆる仏教ではなくなっている。まぁ、もともとが、技による救いなので、サタニックな影響は自力で抑えられるから今までは問題はなかった。しかし、70年代以降グローバル化が始まった段階、アメリカからニューエイジ文化が入ってきてからはそうもいかなくなって、実際にオウム真理教事件や、ライフスペース事件をはじめとしたカルト宗教による問題は、平成を象徴するような事柄になった。そうしたことが起きた後も、ニューエイジ 文化が「スピリチュアル」という(形容詞なのに名詞として使われる)不思議な名称で台頭する背景には、そもそもこうした福音理解がないことによるサタンの影響が出やすいシンクレティズムおよび汎神論的な日本の特殊な宗教的環境があると言える。 まだキリスト教圏内において、比較的純粋な動機で始められたクリスチャンサイエンスだった頃の本来のクリスチャニティ から、三位一体説を取らなかったことで、異文化における受容の中でクリスチャニティ から外れてしまったことによって、確かにサタニックな影響を受けたカルト的ニューエイジ のグルが出てくる土壌というのは準備されることになっていると言える。 日本においてもニューエイジ のグルだったドリーンバーチュー女史などが、ニューエイジ のサタニックな破壊的影響に気づいて、そうなってしまった自分のルーツを真摯に見つめて(悔い改めて)、福音派に回心したことも、日本のニューエイジ 世界はもっとこうした問題について真剣に向き合うべきテーマなのではないかと思う。日本においてはいまだになぜこうした問題が起きているかという前提となる理解がないので、ドリーンが何に対して危機感を持っているかということを理解されているとは言えないと思う。ゆえに作者がオラクルカードはサタンの影響が出てしまうので出版禁止と宣言しても、いまだに日本ではそうした事実を知っていても平然と販売され続けている。 少なくともちゃんとクリスチャンサイエンスのベースとなっている聖書は読むべきではないだろうかと思う。三位一体論や一神教、原罪やイエスキリストによる贖いという救いの教理や、信仰のみによる救いなどは教養として知っているべきだと思う。 こうした問題は何も今に始まったことではなく、そもそもアトランティスの時代からあったもの。グノーシスを伝えれば、人類は救われるのか?フリーエネルギーを伝えれば、人類は救われるのか?宇宙人の存在が明らかになれば地球は幸せになるのか? いかに最初に唱えた人が純粋な動機で始めたものであっても、世代に渡る伝言ゲームの中で、じわじわとサタニックな影響が現れ、結果的には当初考えていた救いの理論から程遠い現実を引き受けてしまうことになる。 そういう意味でもしっかりと福音や聖書を学ぶことは、過去の失敗を繰り返さないためにも非常に重要な要石であるといえる。つまり神と人間との関係について私たちは我田引水にならず、しっかりと真摯に学ばないといけないと思う。

グノーシス主義から、三位一体の福音主義へ

僕のところに学びに来ている方々は皆スターピープル(主にシリウス系)だが、結果的に皆、福音書の話をしても全く問題がないばかりでなく、むしろグノーシス主義を中心としてきた今までよりも、さらにより主の愛と恵によって深く救われていく実感がある。 つまりニューエイジやグノーシス主義から、三位一体の福音主義に変わっても何も問題がないばかりでなく、むしろ、福音主義のほうが、スターピープルだけでなく、スターピープル以外の人たち(この地球上の大多数の存在であるところのオリジナルのヒューマン)にもしっかりと救済的なメッセージを伝えていけるので、そちらのほうが、自分自身のミッションを果たしていくうえで、ずっと効果的なアプローチだといえる。グノーシス主義は、スターピープルには自分の故郷を思い出させたり、孤独を癒す薬になるが、しかしそうではないヒューマンにとっては、むしろアストラル界のルシファーや悪霊と出会うことになり、大きな害になる。もし、三位一体の福音主義で、スターピープルも、ヒューマンも両方とも救えるのならばと思ってきたが、まさに本当に両方ともしっかりと救える教理だということがよく分かった。ゆえに、聖書研究を本腰を入れて始めたこの1ヵ月だけでも、グノーシス主義によって立つ理由は大分無くなってきている。つまり、占星術師(すでにこの5年ほど占いをしているという感じは全くないのだが)から、牧師や福音師としての自分の在り方へとシフトする時が今なんだと、すんなり受け入れられるようになってきている。これも三位一体の主の導きだね。 主の栄光を賛美し、イエスキリストの御名においてすべての人が救われることを、お祈りいたします。アーメン。

主を愛すること

主の栄光を表すとは、すなわち自己実現を超えた自己超越のこと。被造物である我々にそれぞれ主から与えられた賜物があるということは、普遍的な教会を通じて、主の御心が天においてなされるように、地にもならせ給うように、各々の賜物を、イエスを礎石として組んでいくということ。聖書における最大の目的は自己実現ではなく、主を愛することであり、自己を超越することにある。ニューエイジ と違う部分はまさにこの部分。ニューエイジは、自分が現実を創造する神(主/主人公ー本体主人公という言葉は主の敬称)であると伝えるが、そもそもこの思想的なベースがサタンや悪霊が入る経路になってしまうということを深く学ばなければならない。つまり、自分の人生の主人公は自分ではないということ。自分を愛すること以前に、まずは主を愛することを第一義に置くことが本当に大切。

「自分を愛する」が単なるナルシシズムにならないために

日本には先に述べたような原罪とイエスキリストの十字架における贖いという概念がないため、ただのナルシシズムに陥ってしまうことが非常に多い。特にSNSが発達してからは、発信のハードルが下がり、多くの人が日本的ニューエイジの考え方を伝言ゲームのように発信するようにために、そのプロセスの中で、だんだんサタン的影響が強くなり、悪をもたらすナルシシズムのような危険な考え方が、広がっている側面がある。 そもそも、自分を罪人として、受け入れ、その上でイエスキリストへの十字架での犠牲と復活への信仰を通じて、主の愛を感じ、聖霊の働きによって、初めてその罪があがなわれた実感を得られる。 しかし、日本的な福音なきニューエイジにおいては、そもそも罪の意識をないものとして抑圧する。もしくは仏教的、神道的なものの延長線上にある瞑想、パワースポットやお守り、エネルギーワーク、パワーストーンなどの「技による救い」によって、ネガティブなカルマや潜在意識の中のマイナスの脚本を解消し、自力救済していこうとする。むろん技による救いはあくまで個人救済の枠組みを超えないので、技による救いには限界があるし、むろん集団的救済論にはなりえないということだ。むしろ十戒で禁止されている偶像崇拝がそこにはあるわけで、これはサタンがつけいる余地が常にあるということ。そもそもニューエイジ特有のライト感覚な技による救いで、救われるわけもない。 いうなれば死刑判決を宣告された人が、一縷(いちる)の望みをかけて、刑務所の中で罪をあがなおうとまじめに模範囚になろうとする、もしくは脱獄を計るようなもので、これは主の一方的な愛によって、恩赦を受け、罪から放免されることと、全く持ってベースとなる救いの教理が違うのだ。 主の一方的な恵みによる赦しの愛、福音、イエスキリストの存在を信じないで、ありのままの自分を受け入れ、赦すということは、そもそも構造として無理があるのだ。救いというのは、自分が自分を赦すことの中にあるのではなく、あくまで主が自分を赦すという一方的な恵みによる愛がベースにあるのだ。

人間の潜在意識は、神ではなく、罪の意識である

ニューエイジにおいては、「ありのままの自分」を神と考える。なおかつこの神は汎神論的で、人格を持っていない。むろん旧約聖書における十戒という前提もない。そのためニューエイジにおいては、人間には、原罪とよばれる罪はない。こうした部分にサタンや悪霊が入ってくる。サタンの本質は、ナルシシズム。エーリッヒフロムが「悪について」で論じたように、悪とナルシシズムは常にセットになる。これはまさにエデンの園で、サタンが蛇に姿を変えて「あなたも神のようになれる」(つまりあなたの内側には全てを創造した神のような無限の可能性がある、あなたの潜在意識こそ神である)と誘惑した通りのことだ。 その意味で人間の潜在意識の本質とは神ではなく、罪の意識であるというのが、聖書的な正しい理解だといえる。それゆえ、その罪を、神の一方的な恵みの愛により、御子イエスキリストの十字架における贖いによって赦されたということが、聖書の中の非常に重要な考え方なのだ。

神と子と聖霊の、三位一体がなぜ重要なのか。

神と子と聖霊の、三位一体がなぜ重要なのか。 日本語において、仏というと、必ずその背景には仏教の開祖である「釈迦」という一つの確固としたパーソナリティが存在する。しかし、一般的に日本語で、「神」と表現すると、一神教的な意味においては、こうした単一の象徴的なパーソナリティが存在しないゆえに、「人としてどうあるべきか」というモデルが存在しなくなる。 ゆえに日本語において、「私は神のようでありたい(もしくは私は神だ)」というと非常に横柄な意味合いが含まれる。むろん一神教においては神は創造主、人間は被造物なので、「私が神」であるはずがなく、それは楽園にて蛇がアダムとイブを誘惑したやり方(善悪の知識の木の実を食べれば、あなたも神のようになれる)と同じだ。 その一方で、日本語で「私は仏です」というと、お釈迦様という明確なひとりの人格を通じて、こうした横柄な意味合いは大いに否定され、人間としても理想的な人物像であるべきだという意識が働くようになっている。逆に言うと、キリスト教圏の人に、仏教における仏の概念を説明しても、釈迦の人格を知らない限り(しかもそれは聖書のように単一的な書物で残っていない)、正しく理解することは難しいと思う。せいぜい目の前にいるモンク(お坊さん)や、チベット密教のダライラマなどの有名な僧を見て、理解するしかない。(むろん、「信仰のみによる救い」や「偶像崇拝の否定」という聖書的な世界観をフィルターにしているので、厳しい仏道修行のような「技による救い」という要素は理解できないため、あくまで表面的な理解にとどまらざるを得ない。カルチャーで言うところのヨガや瞑想から入るか、せいぜい本格的な接点としては、現代思想の領域で鈴木大拙の禅(ZEN)の思想を理解しようとするくらいしか、理解しようがないと思う。) キリスト教にて「イエスキリストの御名において」と祈る理由は、まさにここにあるといえる。つまり、仏教においては、仏という言葉の中にすでに「仏教の創始者、仏陀の御名において」という意味合いが既に含まれているのだ。 父なる神という位格と、神の子(人)という位格、そしてさらに聖霊という位格が、一つの神格の中に含まれることで、はじめて一神教の神に関する正しい認識を持つことができる。 その意味で、日本の場合は、釈迦がどんな人だったかは、お坊さんの説法や、日本のお寺の文化などで、なんとなく釈迦がどんな人かを知る機会は多い一方で、そもそも神の御子イエスがどんな人だったのかということを知る機会が、非常に少ないといえる。 そこにさらに輪をかけて、日本神道の多神教の神の概念が入ってくるためにより話が複雑になる。なぜなら日本神話における神は、あらくれものの須佐之男命のように、必ずしもギリシア人やルカの福音書が考えるイエスキリストのような、人間として完全で理想的な人格を備えた神ではないからだ。ゆえにその意味では、キリスト教のサタンも、一つの神として受け入れてしまうという土壌がある。これは、そもそもキリスト教の神と、日本の神とを、同じ言葉で翻訳してしまっていることに大きな間違いがある。 こうした問題点を持ったまま、技による救いや、繁栄の教学を強調しながらも、イエスキリストによって示される神の三位一体性について触れない、クリスチャンサイエンスから発展したニューソート、およびニューエイジが入ってくることで、日本の霊性というのは、サタン的なものに大いに汚染されてしまっている状況だといえる。 こうしたことを構造的に防ぐためにも、大事なことはイエスキリストについて正しく知ることだ。幸い(釈迦がどんな人だったかという文章が散逸してしまっている仏教と異なり)キリスト教における理想的な人格としてのイエスキリストは、新約聖書の中の4つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)を読むことで、どんな教派においても正しく統一的に理解できる。 なお、聖書を現代的に読みやすくしたリビングバイブルを底本とした、それぞれの福音書の動画がYouTubeにあるので、それを観ると非常に分かりやすい。 【マタイの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=s44IDy3emkI (ユダヤ人の王としてのイエス像) 【マルコの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=YsAkNmbxc4U (ローマ人に向けて描かれた、しもべとしてのイエス像) 【ルカの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=joqnK7A9dQM (ギリシア人に向けて描かれた、理想的な人間としてのイエス像) 【ヨハネの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=fhAfypcxQ8Q (全人類に向けて描かれた、神の御子としてのイエス像) 聖書のアプリのおすすめ(新共同訳だけでなく、リビングバイブルも選べ、なおかつ音声で読み上げもしてくれる) https://www.bible.com/ja/app まずはイエス様がどんな人であられたかということを知るということが、日本人が一神教の神(特に三位一体としての神)を正しく理解するうえで、非常に重要な要素になっているといえる。 ちなみに日本神道においては、神道における最高神であるところの天照大御神という神格における、人としての位格(人ととしてのあるべき理想像)は、天皇陛下によって象徴されてきた。日本の「和」の心とは、すなわち天皇陛下において象徴されている。ゆえに私たち日本人は、天皇陛下によって、人としての生き方を学び、自らを律していくことができる。また皇室が万世一系のものであるということも、世界に類を見ないことである。本当に誇りに思うべきだと思う。 また、日ユ同祖論をベースに取ると、まさに天皇陛下こそが、実は古代ユダヤの失われた氏族につらなるものであり、実は私たち日本人のルーツに旧約聖書の世界があり、またその上で、ユダヤの民において新約が与えられたということは、すべからく日本人がイエスを救い主として受け入れることは、大きな必然性を持ちうるということも、非常に重要な要素であるといえる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96

次の10年。

日本には福音の信仰が開花するための種子がしっかりと埋まっている、ということを日々確信する。ニューエイジやスピリチャルブームがここまで広がって、いい部分(物質主義からの脱却)も悪い部分(サタンの介入)も色々形になっている今、神の計画の一部として、福音や聖書理解を通じた日本の霊性の開花は、これから確実にやってくると思う。これは10年前に、当時はまだ全然知られてもいなかったセラピー的文化が、日本において現在のように非常に一般的なものになると確信した感覚と全く同じだといえる。ニューエイジの次は、福音と聖書だと思う。日本において、主の御名があがめられる時が近づいてきた。 2010年に書いた記事「ヒーラーがいない世界」 http://www.ondorinohane.com/blog/2010/05/post_603.php まさに、今はヒーラー(セラピスト)の存在が当たり前になったからこそ、次第に、ヒーラーがいない世界(イエス様を救い主として受け入れる時代)に突入しつつある。 この時は、「自分を愛する」ということを軸として伝えていたし、それでも十分意義があったのだが、今やそうしたメッセージはとても一般的なものになった。と同時に、実はサタンはこの「自分を愛する」というコンテクストに入ってきやすい。一歩間違えたら「自分を愛する」ということは、ただのナルシシズムになってしまうのだ。つまり自分を愛するという意味は、本質的には「主が自分を愛するように自分を愛し、そして人を愛する」という意味であって、これは主の祈りの中で言うところの「私たちの罪をお赦しください。私も人を赦します。」「ありのままの自分は罪人であるということを受け入れる、そしてその原罪はイエスの復活の御業を信じることによってあがなわれる」という意味において有効な概念だ。 その意味でも、そもそもこうしたニューソートや自己啓発、人間性心理学によってもたらされた思想背景のさらに奥にある、キリスト教的な価値観の「主を愛する」という方向へとさらに進んでいく必要がある時代に入ってきたと思う。 「それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び/海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。」(イザヤ書24章15節)