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ニューエイジ」の検索結果

自由主義神学の反動形成としての心霊主義や神智学運動について

神智学運動の勃興はいうなれば、近代化に伴う自由主義神学の反動形成なんだな。新正統主義のカールバルト が出てきた段階で、キリスト教神学としてはひとまず自由主義神学の行き過ぎはひと段落して、収集がついたともいえる。 神智学運動にはダーウィンの進化論も大きく関係しているし、当時の行き過ぎた自由主義神学の台頭によるキリスト教神学界の混乱が、逆によくわかる。そりゃニーチェも神は死んだというよな。ある意味その当時はサタンや悪霊でもなんでもいいので、霊的存在につながりさえすればいい(心霊主義)みたいな、キリスト教世界の神学的危機、霊的混乱があったんだな。ようは当時のニーチェの神の死は、同時にサタンや悪霊の死を意味したわけだ。 ある意味今の世界は逆に、高度な情報化で、非物質的世界になって抽象度が上がってきたことで、むしろ神が復権した時代に入ってきた。それ故に、キリスト教神学のリアリティもより正確に、深く理解できる時代に入ってきていて、オカルトや心霊主義である必要もなくなってきているということ。霊的な物事は、キリスト教神学で全部ちゃんと扱える。そもそも霊的なエネルギーの実在は今の日本人の多くは感じているので、日本のニューエイジからキリスト教神学への移行は、主に「聖霊論」から入るといいんだと思う。キリストイエスの死と復活による罪のあがないを信じれば、聖霊が内住すると言う理論は、今の多くのニューエイジャー にとっては、エネルギーとして実感できるし、無防備にアストラル界に入ってしまうアチューンメントと異なり、悪霊が一切内住しない絶対的な安心感と、シンプルさ、完璧さに、皆驚くんじゃないだろうかと思う。そうすれば、ロマ書の信仰義認の素晴らしさや、集団救済論の完全性の高さに驚くと思う。こうした完全性を知るに従って、ニューエイジ的な文脈に生きることが次第にバカバカしくなると思う。

主に与えられた賜物と、サタンに送られた棘

なんだかんだ果てしない人生に対するそこはかとない前向きさと強い情熱を賜物として主に与えられていることに気づく。純粋な思いで人助けをしたいという想いに生きてきたからこそ歩めた道。それでも長く続けていれば、そもそもアプローチが間違えていて人生の目的に届かないものもある。アプローチは改善すべきで、これまで築いてきた確かな基盤を全て投げ打ってでも、今度は福音宣教に全生命力をかけられる。人生の時は有限だ。人はマモン(お金)と神の両方に仕えることはできない。主の召しに応えて進む幼子のような純粋さという賜物を主に頂いたことに感謝しかない。人によって僕の目標に向かう時の行動が時に狂気じみたように映るのも、主の召しに純粋に応えたいという思いに生きているから。キリストイエスの犠牲の愛が精神のコアになければ、こうした純粋な、時に他人にとっては狂気的にしか思えない愛で、自らを献身する行動原理は持ち得ないと思う。 霊的な献身ではなく、マモンに仕えるような、今の堕落した日本の霊性文化に対する怒りを、批判や否定的なエネルギーではなく、主に与えられた賜物である持ち前の情熱と創造のエネルギーで、どれだけ日本の霊性向上のために、自分の十字架を背負えるか、献身を続けていきたいと思う。全生命をかけて、主の召しに応え、主に使えていきたいと思う。確実に燃えてきた。 こうした情熱は、結局のところ、初代教会や、ルター、カルヴァンに通ずるものがあるのだと思う。そもそも日本の教会文化も、どこまで宣教に本気の覚悟を持てているのかということを思えば、目覚めないといけないのではないかと思う。真剣に、イエスキリストの十字架を日本の霊性向上のためにどこまで背負えるかが大事なんだと思う。僕は全生命をかけて、不可能に挑みたい。主を賛美し、100%の愛に生きるために。 ニューエイジ に生きていたということはクリスチャンとしては棘でしかない。クリスチャンとしては最も低きものとして、思い上がることのないように、その低さゆえに謙遜にならざるを得ない棘。そして、幼子のような信仰心によって、無私の心で生きていきたいと思う。アーメン。 「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」 ‭‭コリントの信徒への手紙二‬ ‭12:7-10‬ ‭新共同訳‬‬ 「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。 預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」 コリントの信徒への手紙一 13:1-13 新共同訳

救済論と終末論、「すでに/いまだ」の終末的緊張について。

キリスト教神学を学ぶと、救済論と終末論は常にセットになっていることがよくわかる。そして、この教理の背景には、「すでに/いまだ」という終末的緊張が常にあることがわかる。ニューエイジ的な思想においては、ハーモニックコンバージェンス(1987年8月16日)、ノストラダムスの大予言(1999年7の月)、2012年アセンション、カーディナルクライマックス(2008年~2015年)と、常に具体的な日付とともに終末が語られるのだが、そこはさすがキリスト教先輩という感じで、キリスト教においては2000年もの長きにわたって、常に「すでに/いまだ」を繰り返してきている。それゆえ、キリスト教においては、次第に終末の具体的な年月を予言すること自体がそもそも異端的教義ということになった。それは神のみぞ知ることであり、また実際にパウロもそのように第二テサロニケの中で伝えている。 20世紀最大の神学者であるカールバルトも、ローマ書講解の中で「(終末にキリストが地上の裁きのために天国から降りてくるという)再臨が『遅延する』ということについて……その内容から言っても少しも『現れる』はずのないものが、どうして遅延などするだろうか。……再臨が『遅延』しているのではなく、我々の覚醒(めざめ)が遅延しているのである」と述べている。 こうしたことから考えてみても、救済論と終末論は常にセットであり、また、「すでに/いまだ」の終末的緊張はどんな時代でもあることが分かる。 僕の世代だと、2012年アセンションで流行った、ニューエイジ的な終末思想はこれからも、手を変え品を変え、具体的な年月を指定して煽り続けていくということになるのだと思う。次は2044年あたりかな?そういうのに振り回されないためにも、集合的救済論としての啓示宗教であるキリスト教神学の根幹をしっかり学んで広く普遍的な視野を手に入れることは、とても大事なことなんだと思う。

メタ宗教としてのキリスト教の本当の価値

パウロにしても、アウグスティヌスにしても、偉大な神学者、教父たちはそもそも、最初は異教徒なんだよね。パウロはパリサイ派ユダヤ人だったし、アウグスティヌスはマニ教(今でいう神智学)だった。そこからキリスト教に回心していったということも、ある意味宗教をメタ化した先にメタ宗教としてのキリスト教があったからで、シンクレティズムの試みはあくまでメタではなく、ベタ的な試みで、宗教をメタ化するという方向性に進まないと、本当の救いは見えてこないということ。つまりニューエイジやスピリチャルでは人は救われないし、メタ宗教としてのキリスト教の本当の価値を理解しないと、真の意味での救済は不可能であるということを、学ばないといけない。 頭がいい人であればあるほど、物事をメタ的に認知していきたいと考えるので、シンクレティズム的欲求に基づいて比較宗教学を研究するし、心優しければ優しいほど、技による救いをベースとした教理に基づいて、活動をしていく中で、技による救いの教理では、関わる「すべての人」を救えないという葛藤を感じ、その中で主に対する自分の傲慢さに気づかざるを得ない。 つまり、最終的に技による救いをベースとした教理だと、必ず自己矛盾に陥り、最終的にイエスキリストを救い主として受け入れることのみでしか、救われないことを悟るのだと思う。これから日本人の間の中にも、エコーチェンバー型群発カルトに嫌気がさした人や、技による救いをベースとした教理と救済論が両立しえないという自己矛盾を感じて行き詰まりを感じた人の中から、そもそもメタ宗教としてのキリスト教のメッセージをダイレクトに理解ができるようになって、悔い改める人は増えてくるんじゃないかな。 いうなれば2000年前ヘレニズム的な多神教的世界観の中で生まれたキリスト教は、彼ら自身の意識で言うと、「宗教 ver.2.0」という感じだったのだと思う。ゆえに、異教徒を中心に広がっていったし、十字架での贖いから、わずか30年でローマの国教になったんだよね。世界中に広がる理由も、「宗教 ver.2.0」という構造にあったからだといえる。 またパウロもアウグスティヌスも、異教徒からスタートして、そこで自分の「宗教 ver1.0」における罪を深く認識したうえで悔い改めているので、その分、主からの愛を深く感じて、より熱心に「宗教 ver.2.0」を広げていったといえる。罪の意識や、悔い改めが深ければ深いほど、主の恵みによる愛を深く実感できるし、その分人を深く愛することができる。 ニューエイジ的な思想を突き進んでしまっている人には、僕自身からも、批判ではなく、愛によって、悔い改めの大切さを伝えていきたいと深く思う。現在のエコーチェンバー型カルト現象に見られるように、ニューエイジ的な思想の行き着く先は、これまでの人類の歴史が証明してきているように、自分の身を滅ぼしてしまうのだから。

キリスト教は、宗教を成就させた結果生まれた宗教。

キリスト教の教学としての構造は、キリスト教そのものは、宗教ではなく、宗教を成就させた宗教という二重構造にある。簡単に言うと、世界中のあらゆる宗教のベースである「技による救い」をベースした宗教を、「主の一方的な恵みによる救い」「信仰のみによる救い」という形で成就させた形になっていることが、非常に重要な部分である。回心とは、すなわち、「技による救い」を成就させた結果「信仰のみによる救い」に移行するということ。つまりキリスト教の教理そのものは、そもそも宗教と呼ばれるものも異なり、宗教そのものを成就させた、メタ宗教といえるようなものであるといえる。 その意味で、「宗教は本質的にはたどり着くところは皆同じですよね。」という発想は、そもそも見るべきレイヤーが異なっていて、たどり着いた結果がメタ宗教としての到達点が、キリスト教教理の「信仰のみによる救い」という部分ににあるということ。 そういう意味では、僕自身は、ニューエイジや、占い、神智学、心理学といった「技による救い」を成就させた結果、最終的に実を結ぶという形で、キリスト教に回心したといえる。その意味で、これまでの歩みであるところの技による救いそのものを否定する必要もないし、かといって後戻りもする必要もない。さなぎから蝶になった時に、さなぎを否定する必要もないし、かといってさなぎである必要もなくなる。 現代社会は、そういう意味で、心理学やセラピー、自己実現などの「技による救い」といった宗教を追い求めているが、結果的に最終的にそれが行きつくところは、そうした宗教の成就としての、メタ宗教に入るということ。そもそもイエスを含め、キリスト教の初期の使徒たちは、ユダヤ教が成就した「普遍的な教え」を福音と呼んでいて、(しかもこれはユダヤ人に向けてではなく、異邦人にこそ広がっていくことになる)決してこの当時彼らは「キリスト教」と自称もしていないし、そういうアイデンティはないんだよね。あくまでイエスを救い主として受け入れて、技による救いをベースとした宗教を成就させた結果生まれた信仰のみによる救いをベースとした宗教を信じていただけ。 なぜ世界中の3割の人が信じるようになったのかという、キリスト教の拡大の本質は、そもそもキリスト教が私たち日本人が思うような宗教ではなく、メタ宗教であったということにあると思う。そもそも日本人が教会と聞くと、仏教でいうところのお寺、神道の神社のように建物のことを思うのであるが、キリスト教における教会とは、あくまで「信徒の霊的なつながり」そのものを指す言葉である。宗教と一言でまとめるには、実際には、見ているレイヤーが、異なるんだよね。なので、日本人の感覚で、キリスト教を理解しようと思っても難しくて、メタ宗教としてのキリスト教という構造を理解しないと、なかなか本質は見えてこないと思う。 ある意味神智学もメタ宗教であるといえるのだが、そもそも日本人にとっては神智学は仏教的神道的にしかとらえることができないので、結果的に、神智学も技による救いをベースとしたものとして理解することになる。その意味で、結果的に神智学をメタ化したところにキリスト教があることがわかると、キリスト教教理の素晴らしさや、本質が分かってくると思う。 その意味で、日本のニューエイジムーブメントというのは、こうした理論背景から考えても、ある意味日本の「技による救い」の思想的ベースを収斂させ、結果的に、メタ宗教としての、キリスト教信仰へと進んでいくと思う。旧約聖書のヨナ書、ナホム書(主はイスラエルを悔い改めさせるために敵国アッシリアを立てた)、ハバクク書(同じ理由からバビロニアを立てた)、オバデア書(エドムを立てた)で預言されたように、主は民を導くためには、悪の勢力ですらお使いになられる。僕自身が、最近問題視している「エコーチェンバー型群発カルト」についても、主は、おそらくこの悪を用いて、日本人の霊性を正しい方向へと導かれているのだと思う。つまり、日本におけるニューエイジ(スピリチャル)の広がりは結果的に、メタ宗教であるところのキリスト教へと収斂していくことになっていくのだと思う。その意味でも、こうしたメッセージを伝えていくことは、とても大事なことであるといえる。

福音は、一度きりの死と再生である。

イエスキリストを救い主として受け入れるということは、 自らは肉において罪に対して死に、霊において義に対して生まれ変わること。 そして、永遠の生命に生きるということになる。 つまり一度きりの死と再生である。 現代社会は幾度となく、自分の常識や囚われを、破壊するように仕向ける。 高度な情報化が進む時代においては、 まさに毎日変化し、成長し続けていかなければならない。 今は古い思い出ともいえる平成初期の「自分探しブーム」の背景にある、こうした死と再生の営みの延長線上に、いまだ終わりはなく、答えは出ない。 なぜ答えが出ないのか?それは、「自分の中にこそ答えがある」というギリシャ的、 あるいはより正確にいうとグノーシス主義的な思想に基づくからだ。 聖書的な世界において、私たちの本質は、 「罪の奴隷である」ということにあるという、非常に明確な「答え」を持つ。 これがヘレニズム的ヒューマニズムにはない、へブル的な世界観の基礎になるもの。 そして、これを受け入れたうえで、初めて 主の恵みによる救いがもたらされる。 自らの主人が、イエスの十字架の贖いと、3日後の復活を信じることで、 罪から、義へと移り、義によって買い取られるのだ。 西洋占星術を含め、現代のニューエイジ的な神話において、 特に、自己啓発的な文脈においては、 特にこの「死と再生」という元型はよく使われる。 ハデス、冥王星、サタンリターン、塔のカードなど、 何かあればすぐにこの「死と再生」をつかさどるとされる偶像的な神(この世の神)を持ち出し、 主に立ち向かっているとも知らず、自らを奮い立たせようとする。非常に忙しい思想だ。 聖書的な理解で言うと、死と再生とは一度きりである。 それは、イエスキリストを救い主として受け入れることで、 イエスキリストとともに肉によって死に、 イエスキリストとともに霊によって生きることになるということ。 洗礼(バプテスマ)もまさに、この一度きりの 死と再生を意味し、その時から私たちは 罪という主人の奴隷から解放され、 新しい義という主人の奴隷となることを示す。 人は罪の意識ゆえに自らを破壊する。 しかし、義は人を永遠に生きさせる。 福音によって、永遠の生命を生き始めるということは、 あわただしい現代において、非常に大切なことであるといえる。 昇天の日。イエスキリストの御名においてお祈りします。 アーメン。

霊的な堕落

今のスピリチャリティに関する言説を見ていると、この数年SNSがエコーチェンバーしていくにしたがって、人格主義に基づかない浮ついた内容が多いように思う。ある意味、これは91年のバブルの崩壊以前の状況と似ていて、異常な熱狂と根拠のない発展は、必ずどこかで破たんが来る。こうした異様なバブル現象は、霊的な価値基準における「原則」を見失ってしまっていることからくる、霊的な堕落にあると思う。こうしたバブル現象になっている一番のコアになっている信条・思想が、「自分を愛すること」という考え方。この考え方は、他者や社会への興味の喪失という形で現れ、ある意味何の吟味も加えられることなく、完全にバブルと化して、人としてあるべき良心をむしばみ始めているように思う。 SNSのコアにある設計思想は、「友達の友達は、友達」という思想と、「承認と所属、自己実現の欲求」という個人のニーズを満たすことにある。個人主義とはヒューマニズムであって、人間中心主義だ。あくまでこうした心理学的な欲求は、個人主義的な思想が背景にあるために、「主との関係」という霊的な原則が見えてこない。また、「友達の友達は、友達」という概念によって実装される機能は、むしろエコーチェンバーを加速させ、キリスト教における「汝の敵を愛せよ」というテーゼを忘れさせてしまう。 僕自身が、ニューエイジ的な文脈を離れて、イエスキリストを自分の救い主として信じるものである(キリスト者)であるという信仰告白をして、キリスト教徒として完全に回心したのも、確実にこうした日本に充満している霊的な堕落に、最近とても心を痛めているからであって、正しい方向に向かってほしいと願っているからだ。 根っこのないバブル現象は常に崩壊するし、聖書の世界でも、主の原則に従わなかった民は常に罰を受けるという歴史に学ばないとけないのではないだろうか? オウム事件の時代とは異なり、エコーチェンバー化は、より小規模群発的なものになっているので、こうした霊的堕落からくる被害も見えにくいし、また自分自身も被害者になるだけでなく、むしろ、その加害者になっていってしまうことも多いと思う。 旧約聖書の12の小預言書などでも、常にこうした霊的な堕落の時代に、主は預言者を通じて警鐘を鳴らしている。日本の霊性がオウム事件の時のように取り返しのつかない事態になる以前に、まずは主との関係性の中において、自分自身の身の在り方をしっかりと振り返り、改めていかないといけないと思う。 旧約聖書の、士師記の時代もまさにこのような時代。「それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。」‭‭(士師記‬ ‭17章6節)時代であり、霊的に堕落し、社会全体が混沌とした、まとまりのない暗黒時代に入っていった。自分の目に映るものをベースに自分の視点で自己義認するのではなく、主が喜ばれる生き方とは何かという視点に立って、信仰によって義とする生き方が大切だ。このことは、歴史や霊的真実に学ばなければならないと思う。信仰の核がないまま、安易にスピリチャルブーム、ニューエイジムーブメントに乗るのは非常に危険だ。主への信仰を持たずに、「自分を愛する」という思想に走ることは、エコーチェンバー化する今の時代においてはむしろ自分の目を曇らせる非常に危険な思想になりうる。エコーチェンバー化する時代こそ、霊的なものに携わるのならば、「主を愛し」「汝の敵を愛せよ」という原則を心の中心に置くべきではないだろうか。でなければ、自分ばかりでなく周囲の人も巻き込んで、身を亡ぼすことになってしまうと思う。 主イエスキリストの御名において、お祈りいたします。アーメン。

「自分を愛する」ということの異文化誤解

ニューエイジの「自分を愛する」という言葉が、どのように日本に異文化誤解され、間違って浸透してしまったか、そしてそれがどのように日本の霊性に深刻な悪影響をもたらしているかは、昨年12月に論証しているので、見ていただくと納得していただけると思う。 宗教的な愛 2つの犠牲の違い 日本における犠牲の愛は、村八分的にならないために自分の意見や主張を抑圧する愛。心理学はこれを抑圧と呼んで、解放するように導く。しかし、キリスト教における犠牲の愛は、イエスが示した「汝の敵を愛せよ」という、自らを生贄としてささげ、自らを犠牲にし、自分と相手の愚かな罪を赦されるように祈り求める、宗教的な愛。つまりキリスト教において自己犠牲には、主の賛美という明確な目的があって、このベースがないと、日本では自己犠牲という文脈を完全に誤読してしまう。 日本的な村八分的な意識を脱出して、個人主義を生きようという形で、日本のニューエイジムーブメントは、主に「自己愛」というキー概念を中心に用いてきたが、そもそもベースとなる自己犠牲や、愛の定義が、オリジナルのニューソート的な考え方のベースにあるクリスチャンサイエンスと全く違うよという話。

パウロの回心

パウロはもともと厳格なパリサイ派のユダヤ人で、イエスを迫害する立場だった。しかしダマスコの道の途中で復活したイエスに出会うという神秘体験を通じ、回心する。 僕自身も、もともとキリスト教において、占星術や占いは忌み嫌うべきものであるということは知っていたし(ゆえに学問としての心理学などを援用しながら、なるべく判断占星術な要素を廃そうとしてきた、しかし「技による救い」をベースにしていて、福音を伝えていないという段階で、結果的に根本からこれは間違っていた営みといえる)、かといってキリスト教はどこか敷居が高いと感じて、ずっと様々な宗教が混交しあったシンクレティズム宗教であるところのニューエイジの文脈の中で生きてきたが、マンデラエフェクトやこれまでの様々な経験を通じて、「ニューエイジ的な思想こそ人や世界を救う」という基本的な認識が、間違えていたことがよく分かった。「福音こそが、人を救う」のだ。 こうした父と子と聖霊の三位一体に基づかない、多神教、偶像崇拝的な集団的他力救済教理は、必ずといっていいほどサタンがつけいることになるのだ。どれだけ注意深く愛をもって伝えているつもりでも、多神教、偶像崇拝的、集団的他力救済論である以上、構造上、それは絶対に避けられない。三位一体論に基づかない救済論的神学は、誰がどう伝えようがは全く関係なく、構造上、必ずカルト化する傾向を持つのだ。つまりそもそもの神学としてのシステム的な欠陥だといえる。これは、グノーシス主義神学(神智学)を学んだうえで、キリスト教神学を学ぶと本当によくわかる。 キリスト教神学入門 アリスター・E. マクグラス パウロはコリント信徒への手紙の中で、自分の神秘体験などについて語る。しかし、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。」「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 」と語る。また、自らのことを、教会を迫害したものとして、「使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」と言い切る。 パウロの誠実に悔い改める姿こそ、キリスト者の規範であると思う。自分自身もニューエイジ文化を歩んできたことを悔い改め、福音を伝えていけるように頑張っていきたいと思う。 「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」 ‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭15:9-10‬ ‭新共同訳‬‬ 「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」 コリントの信徒への手紙二 12:1-10 新共同訳 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」 ローマの信徒への手紙 1:16 新共同訳

エコーチェンバー化する群発カルト

SNS時代に入っても、結局、地道にテキストを書き綴って行くことが大事なんだなと思う。SNSは構造上、どこかで廃れるからね。必ず。 そもそも文節ごとに、社会的評価の対象になっていたら、一貫した文脈のある抽象的な思索や研究は残せないわけで、SNSの文章と結果的に、どちらが残るかというと明らかにしっかりとした思索の上に積み上げられてきた文章だからね。 アメブロや、youtubeなど、ランキング形式で視聴率を稼がないといけないという浅はかな動機で、エコーチェンバー化していくここ5年くらいの言説を見ていて、なんか色々嘆かわしく思う。主がお怒りになるんじゃないかなと。 システムによって実装された一過性のブームは、そのシステムが機能しなくなると一気に崩壊するという、砂上の楼閣だということを知らないといけない。昨今のエコーチェンバー型で群発カルト化するニューエイジ ブームの傾向に、特にこの1年ほど嘆かわしく思っている。ニューエイジ が持つオウム事件の背景にあった本質的な構造と何も変わらない。当時と違うのはSNSが登場したことで論説がゲリラ化、小規模群発化、それゆえに個々の被害が見えにくくなっている、しかし群発化によってむしろ被害は拡大再生産し続けている。つまりエコーチェンバー化する群発カルトの問題に当たっても当事者が泣き寝入りしやすくなっているだけだ。それゆえに、こうした知識を知って、自分の身を守ることはとても大事。 https://www.google.co.jp/amp/s/www.cyzowoman.com/2019/05/post_230997_1.html/amp https://m.youtube.com/watch?v=GLolOIaD3-E こういうエコーチェンバー化する群発カルトは今後本当に自衛や教育が必要になると思う。問題はこうした論説の影響を受けた人がさらにゲリラ的に問題を引き起こし拡大していくという部分にあるんだよね。うんざりする。 オウム問題ですら、さまざまな問題が発覚するまでは、テレビ局は視聴率が取れるという理由でよいしょを続けていたからね。学者も新しい宗教の形ということで追従していた側面もある。同じことを繰り返しちゃいけないし、ましてテレビや宗教団体と違って、SNS上で群発カルト化していく現在のエコーチェンバー型の論説は、核となる中心がないため、その中心っぽいものが失われても、また別の中心がすぐに再生産されて、アメーバのように広がっていく。またゲリラ的なので、被害の全体像が把握しにくく、エコーチェンバー化した集団の中では多勢に無勢で泣き寝入りするしかないので、気付いた時には手遅れになっている場合も多い。和をもって尊しとなす日本人は、泣き寝入りして、そっとその集団を離れるくらいしかできないからね。本当にこうした被害に遭っている人は、可哀そうだと思うし、救われてほしいなと思う。 「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。 子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。 偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」 ‭‭ヨハネの手紙一‬ ‭4:3-6‬ ‭新共同訳‬‬ 「「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」」 ‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:15-20‬ ‭新共同訳‬‬ 「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」 ‭‭ヨハネの手紙一‬ ‭4:1‬ ‭新共同訳‬‬ 「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。」 ‭‭マタイによる福音書‬ ‭24:24‬ ‭新共同訳‬‬ 父と子と聖霊の御名において、日本の霊性が正しい方向へと導かれていくことを、心からお祈りします。アーメン。

エコーチェンバー型群発カルトという形態

戦後の日本の霊性って、ヘブル的な価値観が脱色され、中核が無くなったまま、アメリカ型の資本主義経済およびヘレニズム的自由主義、人間中心主義史観へと移行し、さらにそこにビートルズのイマジンに代表されるニューエイジ 的思想、精神世界ブームがポップカルチャーとして到来し、バブル崩壊後はオウム事件という形でニューエイジ 的なカルト思想が表面化し、その後江原啓之氏に代表されるスピリチャルブームがやってきたという形になっているんだな。で、結局今は、オウム事件の時期と異なり、ニューエイジ 的言説は、教団的な形をとらず、情報空間の中で、SNSなどで広がる中心のない緩やかにつながった小規模かつ群発的(ゲリラ的ともいえる)なカルト(エコーチェンバー現象化するカルト)に移行しつつあるという。一昔前に流行ったカルト的なネットワークビジネスなんかも、こういう形態だと言える。基本的なニューエイジの背景知識や危険性の認知は、こうしたエコーチェンバー型の群発的なカルト的思想から自分の身を守るためにも、今後非常に重要なものになると思う。一言で言うと、カルト的なニューエイジの今の形態は、エコーチェンバー型群発カルトといえるかな。小規模群発型なので被害が見えにくい。身を守るためにも、聖書を通じてへブル的価値観を学び、人やものを神とする偶像崇拝を避けるべきだね。

セルフブランディングと偶像崇拝

いわゆる巷に溢れているセルフブランディングというのは、十戒で戒められている偶像崇拝になりうるんだよなと思う。つまりは、自分自身を崇拝される対象、偶像にするということになりうるのだから。特にニューエイジ的なビジネスが、セルフブランディングを謳うのは、偶像崇拝の極み。あるいは、主以外のもの、つまり憧れの人を神のように崇拝することもまた罪(つまりサタンが入り込む要素)になる。カルトは多くの場合、ブランディングされた精神的指導者への偶像崇拝によって成り立つ。無論、ブランディングした結果偶像崇拝の対象になることも、十戒においては滅びの道である。霊的なものを扱うということは、すべからく自他の偶像崇拝を辞めて、主の賛美に立ち返るということが非常に大事なんだと思う。その意味で自分を愛するということや、自己価値を高めるという言説も、ある意味偶像崇拝になりうる。また、こうした自己崇拝は、最終的にはマモン(お金)への偶像崇拝に行きつくことになる。 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 ‭‭マタイによる福音書‬ ‭6:24‬ ‭新共同訳‬‬ 自己価値を高めるのではなく、罪びととしての自分が主イエスキリストによって赦されていることを知ることが大事。あくまで主の教えは、主を愛せよ、そして自分を愛するように人を愛せよ、ということにある。その中で、主の栄光を表すことこそが、真の価値だといえる。 主の栄光を称えれば、主の子供として引き上げられるのだから、わざわざ自己価値を高めるべきとかいうことは必要がなくなる。それが「御名があがめられますように」「御国が来ますように」「御心が天に行われる通り、地にも行われますように」という意味だ。 偶像崇拝というと分かりにくいが、英語ではidol worship(アイドル・ウォーシップ)。何か外側のものや人を、あるいは自分自身をアイドル化(偶像化)することは、常に罪と表裏一体である。特にSNS時代はこうした自己崇拝という偶像崇拝については、気を付けないとね。主を讃えよう。

オールドエイジ

結局のところ、ニューエイジ ではなく、オールドエイジ的な主こそが、父性としてはしっかり機能するということだね。

福音と完成された父親の元型

ヘレニズムの神は、ゼウス。すなわち父親として放蕩的な神であり、決して父性としては理想的な神ではない。占星術でいうと天王星(ゼウスは木星ではあるが、むしろヘレニズムは固定化された伝統的文化を破壊し、相対化、普遍化する力であり、天王星の象徴下にあるといえる)であり、エディプスコンプレックス、父親不在的な神。ヘブライズムの神は、聖書の神であり、つまりは父と子と聖霊よりなる三位一体の神。厳しくも、愛を持って導く完成された父親像。占星術でいうと土星的な父性。父親不在のテーマは、ヘレニズム的なプロセスでは癒されない。最終的には、三位一体の神であるところの、ヘブライズム的な神として受け入れない限り、永遠にエディプスコンプレックス的な物語は終焉しない。つまりいくら占星術やニューエイジ(スピリチャル) 、自己啓発、自分探しをやろうが、三位一体の主の愛、完成された福音に触れない限り、永遠にエディプスコンプレックスは癒されることはない。 エディプスコンプレックスにおいて、人が救われるとは、すなわち、ヘブライズムにおける主イエスキリストを救い主として受け入れることで、初めて癒され、完成するということ。それこそが福音の素晴らしさなのだ。

奉仕や犠牲の愛とは何か?

他者への奉仕とは、奉仕する相手である他者のためということはもちろんなのだが、しかしむしろ大事なことは、何よりも自らの犠牲を通じて、主の栄光を賛美するためにすること。そうした純粋な行為を通じて、主を知らない人にも、主の栄光を知っていただけるというのが大切なテーマ。 罪なき主イエスキリストが自身を、罪にあふれた人類の生贄に進んでなられたように、他者のために自らを犠牲にするという無償の愛には、主の賛美という視点がなければ理解できない行為。これはヘブライズム的な価値観や、福音という要素がない、まるで自分が神になったように考える、ニューエイジ のナルシシズム的な自己愛の考え方には仕組み上理解し得ない構造。正しく主を畏れ、主を賛美する姿勢は非常に大切。こうしたことは主の義の側面や、主を畏れる気持ちを何よりも強調する旧約聖書を読んでいて思う。犠牲の愛の本質は主の賛美にあるというクリスチャニティ の理解は、主イエスキリストの愛を知る上でとても大事。

自己義認に陥らないために(自己義認の迷路)

福音を知るといいことは、自己義認/行為義認から離れられるということ。そして、信仰義認によって、罪人としてのありのままの自分を受け入れられるということ。そして、神によって自分が赦されたように、人を赦せるようになるということ。これは、赦しの愛に基づく、人との親密さや、人生における非常に深い安心感と平安を与えられる。 ニューエイジ的な思想においては、ありのままの自分とは、神のような無限の可能性がある素晴らしいものと教える。また、自分の意識が自分の世界を創造しているので、善悪はなく、価値観があわないのは相手との思いの周波数があわないだけで、距離を置いて、離れるべきだと教える。SNSの仕組みが幸か不幸かそもそもこうした価値観と非常にあうシステムなので、この10年でこうした価値観は蔓延していくことになった。そして、いつの日か「人間関係の断捨離」や「スルースキル」とまで呼ばれるようになった。こういった考え方は、非常に悲しいことではないだろうか。 無論こうした考え方であれば、自分の罪を振り返るということはなくなり、また、自分とは異なる価値観を持った他者との親密さを感じることもなくなる。結果的にこうした考え方は、こうした、日本に広がっているニューエイジ的な思想は、結果的にエコーチェンバー現象という現象をさらに加速していき、その人の人間関係を、孤立させていくだろう。 「自分を愛してくれる人だけを愛したところで、ほめられたことでも何でもありません。神を知らない人でさえ、それぐらいのことはします。 よくしてくれる人にだけよくしたところで、何の意味があるのでしょう。罪人でさえ、それぐらいのことはします。」 ルカの福音書 6:32-33 「いいですか、よく聞きなさい。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者によくしてあげなさい。 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者に神の祝福を祈り求めなさい。 もしだれかが頬をなぐったら、もう一方の頬もなぐらせなさい。」 ルカの福音書 6:27-29 しかし、一方でこうした現象について、やはり揺れ戻しというのは今後起こってくるのだと思う。こうした日本のニューエイジ受容における問題は、その人自身の内面に問題があるというよりも、そもそもマクロレベルでの異文化受容の過程の中で、不幸にも起こっているマイナスの化学反応なので、客観的に自分の状況を理解して、気づくことができれば、しっかりと抜け出せるはずだとも思う。また、本来そもそもニューエイジ的なものに惹かれた理由は、「霊的な渇き」にこそあるわけで、そういう意味で、本質的なクリスチャニティにおける主の愛というものに出会い、根本的に癒される大事なきっかけになると思う。 本来日本がアメリカから受容したニューエイジ的な思想の背景の常識としてあるべきだった、クリスチャニティというテーマについては、今こそ深く知るべき時だと思う。また、今後も、日本のニューエイジ文化の受容において、こうした西洋霊性の根幹であるところの聖書理解がないことが、非常に不幸な結果を生み出し続けているということを指摘し続けていかなければならない。 クリスチャニティの基本は、信仰義認にこそある。信仰義認は、聖書の中の、ローマ信徒への手紙(ロマ書)を読むと、非常に分かりやすく描かれている。決して難しい文章ではないし、長い文章でもないので、イエスの生涯について書かれた4つの福音書(マタイ/マルコ/ルカ/ヨハネ)とあわせて、ぜひ読んでほしい。キリスト教の本質的な救いの源泉は、この中にこそある。 人は皆、アダムとイブの時代に罪を犯してしまったがゆえに、すべからく原罪を背負っている。こうした罪をいかに贖おうと、モーセの十戒という律法主義に基づく行為義認および、自己義認を行おうとも、神の視点からするとそれは、義と認めらるには程遠い。律法主義に基づくと、人は、作り出し続ける罪をあがなうために生贄をささげ続ける必要があり、しかし、それによって原罪が消えることは永遠にない。ゆえに、神は人類を哀れみ、自らの独り子を、罪をあがなう生贄として、人類に与え、その御子を信じるものを義とされることにされた。この深い哀れみゆえに、人は、信仰によって義とされるという考え方が、キリスト教には存在する。無論、これはキリスト教圏においては常識であって、すべての文化はこのベースの上に成り立っている。 日本で一般的に受容されている「修行することでこそ、悟ることができる」という律法主義的な行為義認や、今のニューエイジ的な文脈の中でクリスチャニティのベースがなかったがゆえに「自分を愛すること」という文脈が誤読されて、すでにややカルト的な言説になっている自己義認の考え方は、こうした正しい聖書理解における「信仰義認」というものによって、日本的なニューエイジの終わりのない「自己義認の迷路」から抜け出せるのではないかと思う。 おそらく今後、クリスチャニティの存在しない日本的なニューエイジの問題は、エコーチェンバー化、カルト化する論説という形で、表面にあらわれてくると思う。そういった時こそ、そもそも西洋霊性の中核にある、正しい聖書理解というルーツを振り返る大切なターニングポイントになっていくのだと思う。日本のいわゆる「スピリチャル」(本来名詞ではなく形容詞だからおかしいのでこの言葉の語感はとても嫌いなのだが)は、SNSの発達によって、全ての人がメディアを持つ時代になった今だからこそ、特殊なカルト的形態に対する防衛をしっかりとしていかなければならないターニングポイントに差し掛かっているといえると思う。 願わくは、日本において主の御名があがめられますように。イエスキリストの御名においてお祈りいたします。アーメン。

主に感謝

主に感謝。罪深い人間は、どうやったって、イエスのような犠牲は難しい。ニューエイジ が言うような形で自分の内側に神がいるのではなく、ペンテコステの日以来、イエスを信じることにより、聖霊が内住し、イエスへと導いてくださっているというだけ。私たちが神なのではなく、主とのつながりを恵みによって頂いているだけ。主よ、私の罪をお赦しください。私も人を赦します。

テモテの手紙から

もちろんこうした現在の日本におけるニューエイジ がはらむ問題について、ジャッジするようではいけない。イエスは裁くためにきたのではなく、赦し、愛するためにいらした。この姿勢は、何より大切なことだね。 「くり返しますが、人々の心を乱し、怒らせるだけの論争をしないように注意しなさい。 クリスチャンは争ってはなりません。過ちを犯している人を、やさしく忍耐をもって正すことができるようになりなさい。 真理に逆らう人たちを、謙遜な心で教えさとしなさい。おだやかに、思いやりをもって話せば、神の助けによって、その人はまちがった考え方を改め、真理を悟るかもしれません。 そうして目ざめた人たちは、罪の奴隷として思うままにあやつる悪魔のわなから逃れ、神のみこころに従うようになるでしょう。」 ‭‭テモテへの手紙Ⅱ‬ ‭2:23-26‬ ‭JCB‬‬ また、テモテへの手紙におけるパウロの説教は、非常に現代的なテーマであるともいえる。 「テモテよ。これから書くことを、よく心にとめておきなさい。終末の時代には、クリスチャンになることが非常にむずかしくなります。 自分だけを愛し、また、お金がすべてだと考える風潮がはびこります。その時人々は、高慢な者、大言壮語する者、神をあざける者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、神を恐れない者になり、 また、他人を理解しようとしない者、人をだます者、節度のない者になります。彼らは乱暴で残忍な行動をし、善良な人をあざ笑います。 人を裏切り、すぐに思い上がり、神を礼拝するよりも自分の快楽に心を奪われます。 教会に出席していたとしても、聞いたことを何一つ信じようとしないのです。目をしっかり開けて、そんな人たちには近寄らないようにしなさい。」 ‭‭テモテへの手紙Ⅱ‬ ‭3:1-5‬ ‭JCB‬‬ 「どんな時にも、神のことばを熱心に伝えなさい。機会があろうとなかろうと、つごうが良かろうと悪かろうと、しっかりやりなさい。過ちを犯している人には忠告して、正しい道に引き戻しなさい。そして善を行うよう励まし、神のことばを教え続けなさい。 なぜなら、人々が真理のことばを耳ざわりだと敬遠し、自分につごうの良い話をする教師を求めて歩き回る時代が来るからです。 彼らは聖書の教えに耳を傾けようとせず、まちがった教えにしっぽを振ってついて行くのです。 ですから、危機感をもって目を覚まし、警戒していなさい。主のために受ける苦しみを、恐れてはいけません。なすべきことを十分になして、他の人たちをキリストへ導きなさい。」 ‭‭テモテへの手紙Ⅱ‬ ‭4:2-5‬ ‭JCB‬‬

三位一体論と異端

キリスト教における父と子と聖霊の三位一体論とは、ほかのマニ教やミトラ教、ゾロアスター教などの技による救いをベースとした異教やシンクレティズム宗教との混交を避ける上で、鉄壁の守りを成す教理だ。これは行いによらない、主の恵みに依拠する絶対他力信仰をベースとする救済宗教として、サタンや悪霊の影響から人を守る上に置いて、絶対に外してはいけない教理であり、ゆえに三位一体を取らない宗派は、異端として審問されてきたということなのか。すごい。 現代においては、ニューエイジ や、神智学なども、技による救いをベースにした教理であり、一神教や三位一体論の否定(汎神論的シンクレティズム)に基づくものなので、れっきとした異端となる。ニューエイジや神智学をベースとした教理が、SNSなどで伝言ゲームのように伝達されるに従って、サタニックな影響が現れていき、自ずと変な方向に進んでしまうのは、基本的教理が本質からずれているからなんだな。そういう意味で、正しい聖書理解はさまざまなニューエイジ 系のカルトに見られるような取り返しのつかない間違いを犯さないためにも、必須の知識だと言える。基本的な聖書理解がないゆえのニューソートやニューエイジ 受容という日本特有の特殊な霊性の問題は、危機感を持つべきこと。 おそらく聖書の中に書かれている反キリスト(666)とは、このニューエイジ 的シンクレティズムの中でしばしば中核的な存在として据えられるマイトレーヤ(神智学ではキリストマイトレーヤ と呼ばれ、キリストの再臨であるとされる)のことを指している。つまりニューエイジ文化においてシンクレティズムの結果生まれる弥勒信仰だ。 666とは、シンクレティズム宗教の日本において信じてきただけに残念なことではあるのだが、これは弥勒であり、日月神示の中で書かれる国常立尊(クニノトコタチノミコト)とは、サタンのことである。日月神示では、弥勒のことを567と表現するが、これは獣の数字666の天上界の6から1を引いて、人間界に1を足して、地上界では完全数の7になるように整えた数。ゆえに666が567となる。釈迦如来の入滅後56億7千万年後に弥勒如来が来臨するという数字も、この567である。むろん日月神示の中でも、国常立尊が、サタニックな存在であることは決して否定はしていない。もちろん、マイトレーヤがキリストであるということもない。 本来、弥勒信仰は、マニ教やミトラ教などの影響を受けて、形成されたものなので、日本に渡ってきている仏教はオリジナルの仏教(上座部)ではなく、かなりシンクレティズム化が進んだ教理で、実質はマニ教だと言える。そもそも自力救済理論である本来の上座部仏教と、他力信仰が入る大乗仏教は、理論的には両立しあえないのだが、日本に入ってきた段階でベースがマニ教的なシンクレティズム宗教になっているので、すでにいわゆる仏教ではなくなっている。まぁ、もともとが、技による救いなので、サタニックな影響は自力で抑えられるから今までは問題はなかった。しかし、70年代以降グローバル化が始まった段階、アメリカからニューエイジ文化が入ってきてからはそうもいかなくなって、実際にオウム真理教事件や、ライフスペース事件をはじめとしたカルト宗教による問題は、平成を象徴するような事柄になった。そうしたことが起きた後も、ニューエイジ 文化が「スピリチュアル」という(形容詞なのに名詞として使われる)不思議な名称で台頭する背景には、そもそもこうした福音理解がないことによるサタンの影響が出やすいシンクレティズムおよび汎神論的な日本の特殊な宗教的環境があると言える。 まだキリスト教圏内において、比較的純粋な動機で始められたクリスチャンサイエンスだった頃の本来のクリスチャニティ から、三位一体説を取らなかったことで、異文化における受容の中でクリスチャニティ から外れてしまったことによって、確かにサタニックな影響を受けたカルト的ニューエイジ のグルが出てくる土壌というのは準備されることになっていると言える。 日本においてもニューエイジ のグルだったドリーンバーチュー女史などが、ニューエイジ のサタニックな破壊的影響に気づいて、そうなってしまった自分のルーツを真摯に見つめて(悔い改めて)、福音派に回心したことも、日本のニューエイジ 世界はもっとこうした問題について真剣に向き合うべきテーマなのではないかと思う。日本においてはいまだになぜこうした問題が起きているかという前提となる理解がないので、ドリーンが何に対して危機感を持っているかということを理解されているとは言えないと思う。ゆえに作者がオラクルカードはサタンの影響が出てしまうので出版禁止と宣言しても、いまだに日本ではそうした事実を知っていても平然と販売され続けている。 少なくともちゃんとクリスチャンサイエンスのベースとなっている聖書は読むべきではないだろうかと思う。三位一体論や一神教、原罪やイエスキリストによる贖いという救いの教理や、信仰のみによる救いなどは教養として知っているべきだと思う。 こうした問題は何も今に始まったことではなく、そもそもアトランティスの時代からあったもの。グノーシスを伝えれば、人類は救われるのか?フリーエネルギーを伝えれば、人類は救われるのか?宇宙人の存在が明らかになれば地球は幸せになるのか? いかに最初に唱えた人が純粋な動機で始めたものであっても、世代に渡る伝言ゲームの中で、じわじわとサタニックな影響が現れ、結果的には当初考えていた救いの理論から程遠い現実を引き受けてしまうことになる。 そういう意味でもしっかりと福音や聖書を学ぶことは、過去の失敗を繰り返さないためにも非常に重要な要石であるといえる。つまり神と人間との関係について私たちは我田引水にならず、しっかりと真摯に学ばないといけないと思う。

グノーシス主義から、三位一体の福音主義へ

僕のところに学びに来ている方々は皆スターピープル(主にシリウス系)だが、結果的に皆、福音書の話をしても全く問題がないばかりでなく、むしろグノーシス主義を中心としてきた今までよりも、さらにより主の愛と恵によって深く救われていく実感がある。 つまりニューエイジやグノーシス主義から、三位一体の福音主義に変わっても何も問題がないばかりでなく、むしろ、福音主義のほうが、スターピープルだけでなく、スターピープル以外の人たち(この地球上の大多数の存在であるところのオリジナルのヒューマン)にもしっかりと救済的なメッセージを伝えていけるので、そちらのほうが、自分自身のミッションを果たしていくうえで、ずっと効果的なアプローチだといえる。グノーシス主義は、スターピープルには自分の故郷を思い出させたり、孤独を癒す薬になるが、しかしそうではないヒューマンにとっては、むしろアストラル界のルシファーや悪霊と出会うことになり、大きな害になる。もし、三位一体の福音主義で、スターピープルも、ヒューマンも両方とも救えるのならばと思ってきたが、まさに本当に両方ともしっかりと救える教理だということがよく分かった。ゆえに、聖書研究を本腰を入れて始めたこの1ヵ月だけでも、グノーシス主義によって立つ理由は大分無くなってきている。つまり、占星術師(すでにこの5年ほど占いをしているという感じは全くないのだが)から、牧師や福音師としての自分の在り方へとシフトする時が今なんだと、すんなり受け入れられるようになってきている。これも三位一体の主の導きだね。 主の栄光を賛美し、イエスキリストの御名においてすべての人が救われることを、お祈りいたします。アーメン。

主を愛すること

主の栄光を表すとは、すなわち自己実現を超えた自己超越のこと。被造物である我々にそれぞれ主から与えられた賜物があるということは、普遍的な教会を通じて、主の御心が天においてなされるように、地にもならせ給うように、各々の賜物を、イエスを礎石として組んでいくということ。聖書における最大の目的は自己実現ではなく、主を愛することであり、自己を超越することにある。ニューエイジ と違う部分はまさにこの部分。ニューエイジは、自分が現実を創造する神(主/主人公ー本体主人公という言葉は主の敬称)であると伝えるが、そもそもこの思想的なベースがサタンや悪霊が入る経路になってしまうということを深く学ばなければならない。つまり、自分の人生の主人公は自分ではないということ。自分を愛すること以前に、まずは主を愛することを第一義に置くことが本当に大切。

「自分を愛する」が単なるナルシシズムにならないために

日本には先に述べたような原罪とイエスキリストの十字架における贖いという概念がないため、ただのナルシシズムに陥ってしまうことが非常に多い。特にSNSが発達してからは、発信のハードルが下がり、多くの人が日本的ニューエイジの考え方を伝言ゲームのように発信するようにために、そのプロセスの中で、だんだんサタン的影響が強くなり、悪をもたらすナルシシズムのような危険な考え方が、広がっている側面がある。 そもそも、自分を罪人として、受け入れ、その上でイエスキリストへの十字架での犠牲と復活への信仰を通じて、主の愛を感じ、聖霊の働きによって、初めてその罪があがなわれた実感を得られる。 しかし、日本的な福音なきニューエイジにおいては、そもそも罪の意識をないものとして抑圧する。もしくは仏教的、神道的なものの延長線上にある瞑想、パワースポットやお守り、エネルギーワーク、パワーストーンなどの「技による救い」によって、ネガティブなカルマや潜在意識の中のマイナスの脚本を解消し、自力救済していこうとする。むろん技による救いはあくまで個人救済の枠組みを超えないので、技による救いには限界があるし、むろん集団的救済論にはなりえないということだ。むしろ十戒で禁止されている偶像崇拝がそこにはあるわけで、これはサタンがつけいる余地が常にあるということ。そもそもニューエイジ特有のライト感覚な技による救いで、救われるわけもない。 いうなれば死刑判決を宣告された人が、一縷(いちる)の望みをかけて、刑務所の中で罪をあがなおうとまじめに模範囚になろうとする、もしくは脱獄を計るようなもので、これは主の一方的な愛によって、恩赦を受け、罪から放免されることと、全く持ってベースとなる救いの教理が違うのだ。 主の一方的な恵みによる赦しの愛、福音、イエスキリストの存在を信じないで、ありのままの自分を受け入れ、赦すということは、そもそも構造として無理があるのだ。救いというのは、自分が自分を赦すことの中にあるのではなく、あくまで主が自分を赦すという一方的な恵みによる愛がベースにあるのだ。

人間の潜在意識は、神ではなく、罪の意識である

ニューエイジにおいては、「ありのままの自分」を神と考える。なおかつこの神は汎神論的で、人格を持っていない。むろん旧約聖書における十戒という前提もない。そのためニューエイジにおいては、人間には、原罪とよばれる罪はない。こうした部分にサタンや悪霊が入ってくる。サタンの本質は、ナルシシズム。エーリッヒフロムが「悪について」で論じたように、悪とナルシシズムは常にセットになる。これはまさにエデンの園で、サタンが蛇に姿を変えて「あなたも神のようになれる」(つまりあなたの内側には全てを創造した神のような無限の可能性がある、あなたの潜在意識こそ神である)と誘惑した通りのことだ。 その意味で人間の潜在意識の本質とは神ではなく、罪の意識であるというのが、聖書的な正しい理解だといえる。それゆえ、その罪を、神の一方的な恵みの愛により、御子イエスキリストの十字架における贖いによって赦されたということが、聖書の中の非常に重要な考え方なのだ。

神と子と聖霊の、三位一体がなぜ重要なのか。

神と子と聖霊の、三位一体がなぜ重要なのか。 日本語において、仏というと、必ずその背景には仏教の開祖である「釈迦」という一つの確固としたパーソナリティが存在する。しかし、一般的に日本語で、「神」と表現すると、一神教的な意味においては、こうした単一の象徴的なパーソナリティが存在しないゆえに、「人としてどうあるべきか」というモデルが存在しなくなる。 ゆえに日本語において、「私は神のようでありたい(もしくは私は神だ)」というと非常に横柄な意味合いが含まれる。むろん一神教においては神は創造主、人間は被造物なので、「私が神」であるはずがなく、それは楽園にて蛇がアダムとイブを誘惑したやり方(善悪の知識の木の実を食べれば、あなたも神のようになれる)と同じだ。 その一方で、日本語で「私は仏です」というと、お釈迦様という明確なひとりの人格を通じて、こうした横柄な意味合いは大いに否定され、人間としても理想的な人物像であるべきだという意識が働くようになっている。逆に言うと、キリスト教圏の人に、仏教における仏の概念を説明しても、釈迦の人格を知らない限り(しかもそれは聖書のように単一的な書物で残っていない)、正しく理解することは難しいと思う。せいぜい目の前にいるモンク(お坊さん)や、チベット密教のダライラマなどの有名な僧を見て、理解するしかない。(むろん、「信仰のみによる救い」や「偶像崇拝の否定」という聖書的な世界観をフィルターにしているので、厳しい仏道修行のような「技による救い」という要素は理解できないため、あくまで表面的な理解にとどまらざるを得ない。カルチャーで言うところのヨガや瞑想から入るか、せいぜい本格的な接点としては、現代思想の領域で鈴木大拙の禅(ZEN)の思想を理解しようとするくらいしか、理解しようがないと思う。) キリスト教にて「イエスキリストの御名において」と祈る理由は、まさにここにあるといえる。つまり、仏教においては、仏という言葉の中にすでに「仏教の創始者、仏陀の御名において」という意味合いが既に含まれているのだ。 父なる神という位格と、神の子(人)という位格、そしてさらに聖霊という位格が、一つの神格の中に含まれることで、はじめて一神教の神に関する正しい認識を持つことができる。 その意味で、日本の場合は、釈迦がどんな人だったかは、お坊さんの説法や、日本のお寺の文化などで、なんとなく釈迦がどんな人かを知る機会は多い一方で、そもそも神の御子イエスがどんな人だったのかということを知る機会が、非常に少ないといえる。 そこにさらに輪をかけて、日本神道の多神教の神の概念が入ってくるためにより話が複雑になる。なぜなら日本神話における神は、あらくれものの須佐之男命のように、必ずしもギリシア人やルカの福音書が考えるイエスキリストのような、人間として完全で理想的な人格を備えた神ではないからだ。ゆえにその意味では、キリスト教のサタンも、一つの神として受け入れてしまうという土壌がある。これは、そもそもキリスト教の神と、日本の神とを、同じ言葉で翻訳してしまっていることに大きな間違いがある。 こうした問題点を持ったまま、技による救いや、繁栄の教学を強調しながらも、イエスキリストによって示される神の三位一体性について触れない、クリスチャンサイエンスから発展したニューソート、およびニューエイジが入ってくることで、日本の霊性というのは、サタン的なものに大いに汚染されてしまっている状況だといえる。 こうしたことを構造的に防ぐためにも、大事なことはイエスキリストについて正しく知ることだ。幸い(釈迦がどんな人だったかという文章が散逸してしまっている仏教と異なり)キリスト教における理想的な人格としてのイエスキリストは、新約聖書の中の4つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)を読むことで、どんな教派においても正しく統一的に理解できる。 なお、聖書を現代的に読みやすくしたリビングバイブルを底本とした、それぞれの福音書の動画がYouTubeにあるので、それを観ると非常に分かりやすい。 【マタイの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=s44IDy3emkI (ユダヤ人の王としてのイエス像) 【マルコの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=YsAkNmbxc4U (ローマ人に向けて描かれた、しもべとしてのイエス像) 【ルカの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=joqnK7A9dQM (ギリシア人に向けて描かれた、理想的な人間としてのイエス像) 【ヨハネの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=fhAfypcxQ8Q (全人類に向けて描かれた、神の御子としてのイエス像) 聖書のアプリのおすすめ(新共同訳だけでなく、リビングバイブルも選べ、なおかつ音声で読み上げもしてくれる) https://www.bible.com/ja/app まずはイエス様がどんな人であられたかということを知るということが、日本人が一神教の神(特に三位一体としての神)を正しく理解するうえで、非常に重要な要素になっているといえる。 ちなみに日本神道においては、神道における最高神であるところの天照大御神という神格における、人としての位格(人ととしてのあるべき理想像)は、天皇陛下によって象徴されてきた。日本の「和」の心とは、すなわち天皇陛下において象徴されている。ゆえに私たち日本人は、天皇陛下によって、人としての生き方を学び、自らを律していくことができる。また皇室が万世一系のものであるということも、世界に類を見ないことである。本当に誇りに思うべきだと思う。 また、日ユ同祖論をベースに取ると、まさに天皇陛下こそが、実は古代ユダヤの失われた氏族につらなるものであり、実は私たち日本人のルーツに旧約聖書の世界があり、またその上で、ユダヤの民において新約が与えられたということは、すべからく日本人がイエスを救い主として受け入れることは、大きな必然性を持ちうるということも、非常に重要な要素であるといえる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96

次の10年。

日本には福音の信仰が開花するための種子がしっかりと埋まっている、ということを日々確信する。ニューエイジやスピリチャルブームがここまで広がって、いい部分(物質主義からの脱却)も悪い部分(サタンの介入)も色々形になっている今、神の計画の一部として、福音や聖書理解を通じた日本の霊性の開花は、これから確実にやってくると思う。これは10年前に、当時はまだ全然知られてもいなかったセラピー的文化が、日本において現在のように非常に一般的なものになると確信した感覚と全く同じだといえる。ニューエイジの次は、福音と聖書だと思う。日本において、主の御名があがめられる時が近づいてきた。 2010年に書いた記事「ヒーラーがいない世界」 http://www.ondorinohane.com/blog/2010/05/post_603.php まさに、今はヒーラー(セラピスト)の存在が当たり前になったからこそ、次第に、ヒーラーがいない世界(イエス様を救い主として受け入れる時代)に突入しつつある。 この時は、「自分を愛する」ということを軸として伝えていたし、それでも十分意義があったのだが、今やそうしたメッセージはとても一般的なものになった。と同時に、実はサタンはこの「自分を愛する」というコンテクストに入ってきやすい。一歩間違えたら「自分を愛する」ということは、ただのナルシシズムになってしまうのだ。つまり自分を愛するという意味は、本質的には「主が自分を愛するように自分を愛し、そして人を愛する」という意味であって、これは主の祈りの中で言うところの「私たちの罪をお赦しください。私も人を赦します。」「ありのままの自分は罪人であるということを受け入れる、そしてその原罪はイエスの復活の御業を信じることによってあがなわれる」という意味において有効な概念だ。 その意味でも、そもそもこうしたニューソートや自己啓発、人間性心理学によってもたらされた思想背景のさらに奥にある、キリスト教的な価値観の「主を愛する」という方向へとさらに進んでいく必要がある時代に入ってきたと思う。 「それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び/海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。」(イザヤ書24章15節)