VR360教会

ニューエイジ稼業は、サタンの魔の手の中にある

僕自身、生活のために占いをしたことは無い。生活のためなら、そもそもコツコツ積み上げてきた学歴を全部捨ててまで、やることじゃないし、馬鹿にされたり、偏見や迫害に耐えてすることでもなかった。めちゃくちゃ死ぬほど苦労したからね。人助けっていうのは志なくしてできないし、まして、自分の生活のためだったら絶対にできないこと。それなら普通に真面目に会社に勤めたほうが100億倍ましな人生になる。気軽にできるサイドビジネスとして起業して、自分の生活のためにニューエイジ稼業をしている人たちは、はたと自分の犯してきた罪に気づいたときに、その罪の重さに耐えきれるのだろうかと心配になる。ニューエイジ稼業は、サタンの魔の手の中にあることに、早く気付いてほしいなと思う。

世の中がついてくるまでは、「頭がおかしい」と言われようが、証を続けるしかないね。

世の中がついてくるまでは、言い続けるしかないね。占い師だった時もそうだったけど、最初は、「あいつ頭おかしい」から始まり、数年たって次第に周りに話を聞いてくれる人が現れ始め、5~6年したら同じようなことを周りに言い始める人が増えてきて、 10年もしたら多くの人が親しむ日本の文化になった。 クリスチャンとして信仰告白してから、割と今は「あいつ頭おかしくなった」という反応がほとんどだし、親しい間柄だったのに、おそらくもともとイラク戦争などのネガティブなニュースなどを見てキリスト教が嫌いなんだろうが、あからさまにあいつは「殺人集団のカルト宗教にハマった」くらいの勢いで、ものすごい偏見を抱いていて、個人的な縁を切ったり、何もメッセージすらしていないのに投稿を見てブロックしたり、無視したりと、まぁ、何かを新しく始めるということや、勇気をもって一歩を踏み出すということは、そんなもんだよなと思う。まぁ、面と向かって「お前頭おかしい」とはいえないからね(笑)。 これは何も今始まったことではなく、そもそもニューエイジャーとしてスタートした時もそうだった。占い師になるといった段階でも、あいつはついにカルト教の教祖になろうとしているだとか、色々言われたものだ。それが今や少なくとも占い師やセラピストという職業に関して、日本でそんなこと誰も思わない時代になった。SNSが台頭してからなんとなく副業としてやってみようという気軽なノリで始めるニューエイジャーは、そういう苦労を知らないんだろうなと思う…。今気軽にニューエイジャーとして、仕事をするにはそういう先人たちの苦労の土台があるのよ。本当に。 誰も取り組んでいないような、何かを始める時には、必ず迫害が伴うもの。 そんなことは、僕も重々、承知なわけで、それでもなお、そうして迫害したり、無視したり、敵視したりする人のためにも、主イエスキリストは自らを十字架にかけて自らの生命を屠った。ニューエイジ文化でもそうだったように、いつか必ずこの思いは届くと信じている。安易なスピリチャリズムや、この世の惑いごとに振り回されることなく、真理を大切にして生きていくことの大切さを、自らの身を持って示していきたいと思う。クリスチャンは、迫害する人を決して恨んだりはしない。愛を持って、どうか福音を知って救われてほしいと、祈るばかりだ。アーメン。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネによる福音書 3:16 新共同訳 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネによる福音書 3:17 新共同訳 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」‭‭ローマの信徒への手紙‬ ‭1:16‬ ‭新共同訳‬‬

僕が体験したマンデラエフェクトの2年半の記録

マンデラエフェクトの経験の記録と、いかにして、占星術師から、イエス様に召されてクリスチャンになったのかの2年半の記録はこちらです。マンデラエフェクトが起こり始めた2017年3月から一貫して、2019年前半には死者が蘇る地球になるというメッセージが届き、特に2018年12月から福音の重要性を告げるメッセージがきていました。そしてそのメッセージの通り、2019年6月に洗礼を受け、神学的な意味でも確かに永遠の生命を得て、占星術師としての人生はすべて終焉し、新しくクリスチャンとして生まれ変わりました。 https://vrchurch.online/page/1/?s=マンデラエフェク

「自分が自分の味方になろう」「自分を愛そう」という甘い言葉で語られる「自己義認」の罠

「主イエスの十字架の血で、私は赦され、御神と和解をして平安を得ました。」これが刑罰代償説(充足説)の本質。主イエスキリストの十字架の贖いを信じ、受け入れ、悔い改めて、神の義の怒りから解放されることがとても大事。決して、自分の内側にある罪の意識は、十字架以外で贖われることは無い。ネットに蔓延しているポップ心理学化したニューエイジャー/自称スピリチャリストの論説で「自分が自分の味方になろう」「自分を愛そう」という形で、「自己義認」を勧める人が非常に多いが、これは本当に危険な思想だ。イエス様の十字架以外の方法で決して人間の現在は贖われることは無い。この真実は強調してもしすぎることは無いものだ。主の御名においてお祈りいたします。アーメン。

ニューエイジャーからクリスチャンへ

先日のいささんの集いに参加したところ、ニューエイジャーからクリスチャンに転向した方が結構いらっしゃった。時期もだいたい同じこの数年の間。皆それぞれに預言の賜物を持っていて、それぞれ直接神様に召命されてクリスチャンになっている。今後、こういう方が増えてくるのだと思う。SNS社会が登場してから、個人の情報発信の参入障壁が下がったことで、副業的なビジネスとしてしかとらえていないお気軽ニューエイジャーが増えている。こうした潮流は非常に残念な傾向だし、霊的にも非常に危険なので、悔い改めてほしいなと深く感じる。霊的な仕事というのは、「人や社会のために、奉仕をするものである」というベースが何より大切だ。そして何より、御言葉と十字架によって立つということがいかに大事か。それは僕自身が重々経験してからこそ、これからもしっかりと証していきたい。 タロットリーダーだったり、神社仏閣巡りだったり、でもクリスチャンになってからは、皆、主の臨在を日々感じているので、そうした過去は手放して、辞めている。こういうトレンドが今後広がっていくと思う。あとは、精神疾患と診断されて(これは聞けば聞くほど単純に聖霊の内住による預言の賜物が付与されただけとしか思えない)、苦しんでいたクリスチャンの兄弟姉妹もたくさんいた。意外と、現代の教会の中では、「預言は廃れ、異言は止む」(第一コリント13章8節)という御言葉の引用から、預言の賜物は初代教会で終わったとすることが多いし、教会にカルト的な教義が侵入することを防ぐという意味において、その理由もよくわかるが、一方でリバイバルは聖霊の働きを重んじるペンテコステ派や、聖霊派、きよめ派といった教派から起こってくることが多いので、一様に否定するのは決して聖書的ではないとも思う。そこを否定してしまうと、私たち一人一人に恵みとして与えられた聖霊の働きそのものを否定してしまうことになりかねない。生きた教会(普遍的教会/エクレシア)には必ず生徒に聖霊が宿り、それによって主によって生かされていることを日々体験する。これは決して軽視できないポイントだと思う。

ピラティス

状態管理のために長年ピラティスをやってきてよかった。ピラティスと食事(低糖質の食事)のおかげで、ピークから20キロ痩せた。ピラティスのおかげで日々健康に生きられる。本当に素晴らしいし、ありがたい。身体は資本であり、また聖霊の宿る神殿。

私は福音を恥としない

聖霊に満たされながら「私は福音を恥としない」という姿勢でこの一ヶ月さまざまな動きを始めたけれど、やはり「力強く証をし続けていく」ことが一番大事なんだと思う。そのためには何よりも聖霊に満たされることと、祈り、そしてキリスト者としての受難は喜びであるということが非常に大事だなと思う。これまで体力的な基盤や、経営のセンスなどを実地で磨いてきてよかった。伝道には器としての力強い精神力や体力が必要だということも同時に強く認識する。聖霊の宿る神殿として、自らの状態管理、健康管理)も非常に大切。結局自分が救われるだけでは意味がなくて、福音を通じて一人でも多くの人が救われて行くことが大事だなとしみじみと思う。主の御名においてお祈りします。アーメン! 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」 ‭‭ローマの信徒への手紙‬ ‭1:16‬ ‭新共同訳‬‬ https://www.bible.com/1819/rom.1.16.新共同訳

熱いクリスチャンの群れ

聖霊の火に燃えた熱いクリスチャンの群れと出会うと主に祈り続けたら、わずか一ヶ月で途方もなく熱い兄弟姉妹たちと出会うことになった。そればかりでなく確実に日本にリバイバルの波が来ていることを日々実感している。

主にあって喜ぶ

“いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。” ピリピ人への手紙 4章4節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 マジで本当にこういう日々。力強く聖霊に燃え、主イエスキリストの愛の証と、主への献身にこの上ない生きがいを感じる。

佐々木満男先生のコラム

土曜日のパワーブレイクファーストを牧されている佐々木満男先生のコラム。 https://www.christiantoday.co.jp/articles/27178/20190902/sasaki-mitsuo.htm?fbclid=IwAR3XhGPZJSdFJrzc1jpfaqLXnaJJu2QrP-luVnr-bwH-Bx33oYwebfwYsqY

中村光子先生と國分先生とお会いする

今日は、國分先生の紹介で出会った、中村光子先生と3人でお目にかかる。ペンテコステ神学からホーリネスまでの聖霊論に関する神学的解釈を教えていただきながら、福音伝道のための先生の大切なギフトもいただいた。イエス様の愛を周りの人たちに伝えて欲しいという思いがこもった先生のルーツとも言える大切な書籍。この思いをもとに、「私は福音を恥としない」という御言葉をもとに、主イエスキリストの十字架の贖いと、今も生きておられることの証を力強く続けていきたいと思う。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン!

聖霊の注ぎのもとで

今日は主の召しで集った方々と(名古屋からいらした4代目クリスチャンのいささんの呼びかけで集まったクリスチャンたちで、全員ほぼ初対面)素晴らしいひと時を過ごす。聖霊の働きをひしひしと感じる。初対面で、すでに皆家族のようだった。父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン。

【ベツレヘムの星便り】366号  僕(しもべ)として人に仕えること

◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り) 2019/9/1                                 366号こんにちは、杉本譲治(旧ユピテルジョージ)です。 イエス様がお示しになった愛の形。これは無償の愛、見返りを求めない愛です。そして、その愛の示し方の一つの型としてとても大事なテーマは、どんな相手にも「僕(しもべ)」として仕えるという姿勢です。 ▼ルカによる福音書 22章24-27節 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。 もともとイエス様が宣教なさっていた時代に、私たちがキリスト教として知っている信仰は、当時は旧約聖書を教典とするユダヤ人(ユダヤ教)の中から登場しました。イエス様自身も、決して当時、「キリスト教」という認識ではなく、「ユダヤ教」の様々な預言が成就するために、この世界に遣わされたと伝えています。 しかし、興味深いことに、キリスト教が広がるきっかけとなったのは、決して当時のユダヤ人たちによってではなく、むしろ異教徒の民たちが、イエスキリストを自分の救い主として受け入れたところから始まりました。使徒パウロの宣教を通じて、最終的にはローマ帝国、つまりはローマ人たちの国教になったことで、異邦人(外国人/あるいは地球上のすべての人たち)のための宗教に生まれ変わっていったのです。 ローマ神話を持つローマ人たちが、なぜ、自分たちとは本来何の関係もないはずのユダヤ教から生じたキリスト教を信じることになり、そのローマ帝国の後国教になったのか、とても不思議ですよね。しかも戦争などの暴力的な手段でもなく、なぜか平和的なプロセスの中でそうなっていったという不思議な現象でした。 この背景を読み解いていくと分かってくる非常に興味深いことは、キリスト教の中で、主イエスキリストは、すべての人の最も低い「僕(しもべ)」であるということが明確に啓示されているということがあります。 普通、神様といえば、最も高いものであり、あくまで人々がその僕(しもべ)として仕えるということが常識です。しかしイエス様がおっしゃったことは、この真逆の御言葉だったのです。 イエス様は、地球上のすべての人たちの僕(しもべ)であり、つまるところ、今の時代に生きているあなた自身の僕(しもべ)であると宣言されたのです。 しかもこの僕(しもべ)であるイエス様は、驚くべきことに、全ての人たちのために、つまりはあなたのために、自らの生命を屠って、罪を贖うための生贄になるほどの、僕(しもべ)として、自らを最も低いものとして宣言なさったのです。 この「低さ」ゆえに、当時のローマの人々も、イエスキリストを信じたのです。イエスキリストは、ローマの人々のうちでも最も低い「僕(しもべ)」だったからです。 ▼ヨハネによる福音書 3章16-17節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」 聖書におけるイエス様への信仰の中で、最も大きな特徴の一つが、この「低さ」「砕けた心」を持つことを何にもまして大事にするという姿勢です。 イエス様が自分に対してそうであったように、「自分自身も周囲の人たちに対して砕けた心で、低く仕えることができていますか?」と聖書の御言葉は問いかけてくださいます。 私自身この御言葉には、本当に身につまされます。と同時に、とても救われます。「人として大事なことは何か?」ということを考えたときに、何よりも「人を愛すること」にあると、まっすぐに聖書の御言葉は伝えてくださるのです。 もちろんこの言葉の通り生きることはとても難しいです。気付けば人間というのは傲慢になってしまうものですし、自分を迫害するものに対しても愛を持って砕けた心でい続けるということは、現代社会において至難の業でしょう。 そして、日々の生活の中で、知らず知らずのうちに色々な罪を犯してしまっている自分のために…2000年前に十字架にかかって死んでくださったこと。そしてその3日後に復活なさって、今も生きておられ、私たちに神の栄光を示してくださっていること。 このありがたみを噛みしめながら、傲慢になる自らの身を振り返り、イエス様のように低く、砕けた心で人に僕(しもべ)として仕えていくことを、聖書の御言葉を通じて、主は教えてくださるのです。 今週もあなたにとって素晴らしい一週間となりますように。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。 【クリスチャンの集い】土曜日パワーブレイクファーストのお知らせ8月より、毎週土曜日の朝9時に、東京六本木のホテルグランドハイアットのフレンチキッチンにて開かれている、いつもお世話になっているクリスチャンである国際弁護士の佐々木満男先生や、作家で、牧師のジョセフケン牧師をはじめとした熱き日本のリバイバリストたちに会って親交を深められる朝食会(パワーブレークファースト)に、毎週参加させていただくことになりました。 本来は、ビジネスマンに向けた福音伝道を趣旨として創立されたINTERNATIONAL VIP CLUBの活動の一環として、第1・3・5土曜日の隔週での開催で、これまでも16年間開催されてきた佐々木満男先生が主催する朝食会です。 先日、ジョセフケン先生とお話しているときに、聖霊の注ぎによって意気投合し、いつもは開催していなかった第2,4土曜日も、ケン先生と私は出席し毎週必ず集い、皆で祈れるようにしましょう!ということになりました。お申込み方法等は、詳しくはこちらからご覧ください。 https://vrchurch.online/powerbreakfast 【パーソナルミニストリー】聖書の御言葉を通じて、自分の心を「無償の愛」で満たす人生の困難に行き当たった時、判断に悩む時、あなたの手元に一冊の聖書と、主イエスキリストへの信仰があれば、常にあなたの道のりを、明るく照らしてくれます。 人生はいいことばかりではありません。しかし、どんな時でも救い主イエスキリストは、あなたのことを見守り、愛しておられます。 このパーソナルミニストリーでは、聖書的な人間理解、主イエスキリストの信仰をベースとしながら、時間をたっぷりととったマンツーマンのカウンセリングをご提供します。 「心の貧しい人々(謙遜な人々)は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイによる福音書 5:3-12 より 新共同訳 ) ▼時間の目安 60分から90分程度▼料金 本カウンセリングは、キリスト教の献身の精神に基づいた活動となるため、特定の料金は定めておりません。あなたがふさわしいと感じられる、主への感謝の気持ちを込めた献金という形でお納めくださいますようお願いいたします。 ―――惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。 (コリントの信徒への手紙二 9:6-7 より 新共同訳) ▼スケジュールの関係上、月10人までのお受付となります。何卒、ご理解、ご了承ください。▼日時 お申し込み後に、ご希望の日時を調整いたします。▼場所は、表参道(東京都)のサロンとなります。ご予約後に住所をお伝えいたします。▼ご遠方の方は、スカイプやLINE、ZOOM等のビデオ通話を使った形にてもご提供いたします。 ▼ご予約はこちらからどうぞhttps://vrchurch.online/personal_ministry メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)発行者:杉本譲治▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。 ▽本メールマガジンの配信登録と解除はこちらからhttps://j.bmb.jp/bm/p/f/tf.php?id=r_bridge(c)2019 George Sugimoto All Rights Reserved.

いい会だった

今日のエクレシア、色々凄過ぎて言葉にならないね。言語では一切追いつかない途方もなくいい会だった。言語が追いつくまで3日はかかるだろうな…。 エクレシア、ミニストリーってすごい。そういうダイナミズムを今日はしみじみと感じた。 主の御名においてお祈りします。アーメン。

情報の共有から、信の共有の時代へ

やはりしみじみ実感するのは情報は信仰をコアとして集まってくるということ。エコーチェンバー化する時代において、非エコーチェンバー型の教理でありながら、信仰を共有できる聖書というものが今後果たしていく役割は非常に大きいと実感する。確実に今の時代は、情報化時代から信仰化時代に入りつつある。

進化論の否定

聖書の世界では、進化論は否定されおり(というよりもそもそも進化論自体が聖書を否定するために生まれたが強い)、まぁこれはマンデラエフェクトなどを見ればわかる通り、確かに直線時間は神の被造物に過ぎず、その視点においても、聖書のロジックは、進化論を否定しうるだけの強度を持っている。まぁ、このことよりもむしろ大事なことは、進化論が、実質的な進化論の枠組みを超えて、神智学の中で、「霊的進化論」という形で取り入れられたことは非常に重要な側面があるといえる。宗教的文化がダーウィンの「霊的進化論」を取り入れたことによって、アセンションなどをはじめとした新しいスピリチュアリズムの文脈が登場した。「霊的な淘汰とそれによる人類進化」という概念も、もともとは聖書的な概念ではなく、あくまでダーウィンの進化論から派生した考え方。スピリチュアリズムにおけるアセンションと、聖書的な携挙という概念の大きな違いを理解するうえでは、こうした「進化論」という背景もしっかりと見つめる必要があると思う。 自己啓発の文脈においても、わりとこのニューエイジ独特の「霊的進化論」は幅を利かせているように思う。こうしたところからも、サタンの介入はあるのだと思う。

占いがなぜ非聖書的か

そもそもの前提として、クリスチャンになって占い師をやめた理由があまり理解されていないが、聖書では明確に占い師やニューエイジ的営みをすることは固く禁止されていて、旧約聖書の時代には死刑に値する非常に重大な罪だった。西洋社会では常識。それを知った上で海外の占星術家などはあえてやっているが、日本ではこうした常識を知っている人が非常に少ない。 「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、 呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。 これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。 あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。」‭‭申命記‬ ‭18:10-13‬ ‭新共同訳‬‬ 「預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、 そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、 その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。 あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。 その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」‭‭申命記‬ ‭13:2-6‬ ‭新共同訳

クリスチャニティのメタフレーム

クリスチャニティのフレームが馴染んできた。それ以前に取り組んできた物事も、さらに色々なメタフレームで見れるようになっていく感じだろうなと思う。特にビジネスの領域は、クリスチャニティのメタフレームがあることで、ビジネスセンスという非言語的な部分が非常に合理的に説明がつく。この辺りはクリスチャニティのフレームが馴染めば馴染むほどに、ウェーバーのプロ倫で論じられるように事業的センスの自己言及性はさらに高まっていくことになると思う。このメタフレームが入ることで、明らかに経営者としての意識の質は、大きく変わる。西郷隆盛をはじめとした明治の志士たちに倫理的、精神的中心を与え、その後稲盛和夫の経営哲学の中心ともなった「天啓愛人」も、クリスチャニティからきた教え。つまり経営哲学とクリスチャニティは非常に深い関係性がある。 経営哲学としての倫理学は無論のこと、波動は聖霊論で一貫して語れるし、ニューエイジにおける自己投資概念ももともとはマラキ書などをベースとした教会への献金が宗教改革で献金先が社会的外部資本に変わったことが挙げられる。自己投資という概念が成り立つのも、そもそも自己=神という信仰があるからであって、汎神論化する前の創造主と被造物という聖書的な理解を深めていけば、その歴史的ルーツに明らかに聖書的倫理観が背景にあることがわかってくる。

ユングおよびユンギアン

日本のアカデミズムにおいて、ユングは非常に評価されているし、多くの人がユングの元型や集合的無意識の概念などを無批判に援用するが、実際のところはその本質は「学問」というよりも、形を変えた「信仰」であって、その実はほとんど「宗教」に近い。シンクロニシティという概念も、ようは聖書的な世界においては「神の御業」と表現されていたことを、汎神論的な世界観から言い換えて、神を解体していき、その上で、マニ教のように様々な神話を統合し、「集合的無意識」という形でそこに新しい神(セルフ/自己)をおいた。これはグノーシス的信仰といわずしてなんというのだろうか。ユング心理学、およびその大衆化は、シンクレティズム化していく宗教的な運動であったという側面が大いにあると思う。少なくとも、当初日本にユングを紹介したアカデミシャンの間にはそういった意識はなかったかもしれないが、少なくともユング心理学を援用して、ポップ心理学化している人々の間では、もはやユングは学問ではなく、宗教になってしまっている部分が大いにあると思う。キリスト教世界から見れば、大衆化したユング心理学こそ、学問ではもはやありえず、聖書的信仰に反する異端であり、異教的なものと言わざるを得ないと思う。そういった常識が日本にはないからこそ、ユング心理学は日本に大衆的な意味あいにおいても、大いに受け入れられたのだと思う。しかし、こうした崇拝は必ずカルト的な問題を生み出していくことになる。それゆえ「聖書学」を学ぶことは、今の時代とても大事なものとなる。

聖書学

そもそもキリスト教というから抵抗感が生まれるわけで、「聖書学」といえばいいし、実際プロテスタントの信仰の本質は、聖書学にこそある。この辺がうまいのは、実際にはほとんどマニ教やニューエイジ信仰、呪術的崇拝であるにも関わらず、「文化人類学」「ポストモダン」という言い方をしたことで、実際には単なる信仰であるにもかかわらず、その教義が広がったニューエイジ的信仰形態がある。しかもその本質が宗教であるにもかかわらず、マニ教的、ニューエイジ的信仰は、日本の大学教育の中にも紛れ込むことに成功した。その意味でも日本宣教において、「聖書学」といったほうがむしろ抵抗感は少なくなると思う。伝道師がやるべきことは、信仰の強要では全くなく、あくまで「思惟への奉仕」と「証」である。つまり「思惟への奉仕」と「証」とは「聖書学」以外の何物でもない。つまり「聖書学」で十分ではないかということになる。仏教は前提として、教典を学ぶというフレームがあるので、「思惟への奉仕」と「証」がセットになるし、それを前提に受け入れられているものなので、抵抗がないわけだ。このあたりのプリフレイムやリフレーミングといったセルフプロデュースは、日本のキリスト教世界はもっと自覚的になっていくべきだと思う。

「聖霊のみ」の原則

クリスチャンの癒しのツールは「聖霊のみ」。色々な開運アイテムは必要がなく、「聖霊のみ」の原則が通底される。この原則から外れると必ず「偶像崇拝」にまつわる様々な問題が出てくる。

ファッション雑誌と御言葉

ファッション雑誌と御言葉。この関係性が、割と今後非常に重要な関係性になっていくと思う。占いにお株がとられてしまっている今の現状を、クリスチャンの勢力がしっかりと書き換えていくことが大事だなと思う。クリスチャン=クールという文脈をいかに作っていくか。文化的なプロデュース力や、センスは非常に大事。

貪欲な狼

占星術師の中には、ニューエイジ文化を裏で暗に批判しながらも、表ではニューエイジを金儲けの手段として使っている人たちがいる。これは聖書的な意味でも、本当に害悪であるし、貪欲な狼だなと思う。少なくとも、そうしたメタ認知できる知性を持っているならば、少なくともそこから離れて、潔くそうした活動は辞めるべきではないかと思う。本当の悪人とは、そういうタイプの人間だと思う。自らの手を汚すことなく、人々をサタンの道へといざなっていく。 そうしたサタンの勢力と霊的に戦っていくうえでも、聖書の御言葉をしっかりと伝えていきたいと思う。主の御名においてお祈りいたします。アーメン。

低く、低く、

日々イエス様の血と肉で造り替えられていく。低く、低く、召し出してくださった主に感謝と賛美を捧げます。アーメン。

地の塩であるクリスチャン

マンデラエフェクトを体験しているニューエイジャーに、主イエスキリストを証し、そして、クリスチャンの兄弟姉妹に、ニューエイジャーという罪人がいかに主イエスキリストの十字架によって赦されて、クリスチャンになったのかという証しする、そんな毎日。 世の塩であるクリスチャン。日本の塩分濃度はこれからぐんぐん上がっていくと思う。

日本のニューエイジャーのための聖書購解シリーズ

ロマ書はわりと誰にとっても意義深さを感じる最も重要なパウロ書簡のひとつであるのだが、個人的にはそれと同じくらいコリント書の教会形成論の深みが非常に好き。あれは本当に名著だよ。。。割と問題の多かったコリント教会だったからこそ、今でも通用する様々な神のソリューションが提示されているし、何より「信徒の群れに対する聖霊の宿り」と、「キリストの身体」という概念を分かりやすく提示している文脈が素晴らしい。初めて聖書を読む人に、パウロ書簡で何を読むべきかと聞かれたら、ロマ書と同時に、コリント書をまず一番に挙げたい。 ・日本のニューエイジャーのためのロマ書講解・日本のニューエイジャーのためのコリント書講解 みたいなテーマで、どこかの機会で、これまでの12年の経験をベースに、なぜ占い師からクリスチャンになったのかについて、熱く語りたい。 聖霊の注ぎという意味で言うと、やはり使徒行伝(使徒の働き)をニューエイジャーのために講解したい。 ・日本のニューエイジャーのための使徒行伝(使徒の働き) ペンテコステ神学などをしっかりと知れば、なぜ自己義認をベースとしたニューエイジでは、神学的に不十分なのかがよくわかる。ニューエイジにないものは、「信仰義認(完全他力信仰)」と「教会形成論」および「弁証学」。こうしたことを聖書神学からしっかりと学ぶことは、ヒーリングや異言や預言(チャネリング)を正しく理解するうえでも、これからの時代とても重要なものになると思う。

出会い

市村和夫先生のインターナショナルVIPクラブの交わりに参加させていただいた。主の召しでクリスチャンになってから、本当に新しい兄弟姉妹との出会いが加速していく。奥様もとても素敵な方だった。早稲田政治経済学部で同窓で先輩の、許仁成さんとも出会い、色々人生が加速している。主の大いなる御手を日々感じる。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

人脈という言葉は死語になったようだ

そういえばSNSが台頭してから「人脈」という言葉がすっかりと死語になったなぁ。あまりに自然に消えたワードなので、気づかなかった。僕が学生時代は「人脈」ブームだった。いまの若い世代なんかは、もう「人脈」といってもピンとこないんじゃ無いだろうか?

六本木や麻布のクラブカルチャー

おそらくキリスト教の日本におけるリバイバルが起こってくる中心の一つが、六本木や麻布といったいわゆる「ワルい」人にとっての憧れの街、そして彼らが集まるクラブミュージックなんじゃなかろうかと思う。イエス様は、我こそは義人だと思っている人に対して宣教したのではない。誰の目から見ても、罪人だと思える人たちと積極的に食事をしたし、今でいうAV女優や風俗嬢のような売春婦とともに時間を過ごて、無償の愛を伝え続けて、十字架の上でその人たちのためにも自分の生命を捨てた。本当に救われるべき人たちは、僕のように占いにはまって、ニューエイジャーになってしまった人だけでなく(わりとこういう人はインテリが多いので自分のことをうっかり義人だと思い込んでいることが多い)、ドラッグをやっている人、犯罪者、風俗嬢など、人生の中で神の栄光に触れることができなかった人たちこそ、本当に意味でイエス様の愛に触れるべきだと思う。これは僕自身がよっぽどそうした人たちよりも、ずっと悪人であることを自覚しているからだし(頭のいい人間の方がよっぽどずる賢いし、自分の手を汚さず、人を蹴落として生きていく)、イエス様が僕のような悪人を一番嫌うことをよくわかっているからこそ。だからこそ悔い改めてクリスチャンになった。一人でも、神の愛を知らずに、苦しんでいる人に、福音を知ってほしい。神の途方もない愛を知ってほしいと感じる。 毀誉褒貶のあるヒップホップミュージシャンのカニエウェストの「ジーザスウェスト」の世界観もまさにこういう世界観。いわゆる教会音楽のゴスペル(ゴッド・スペル/神の言葉)は、当時の被差別層であった黒人音楽がルーツであるし、ニューエイジにおけるある種の讃美歌の位置に占めているビートルズの「imagine」も、当時のロックはあくまで力を持たない人々のためのオルタナティブな音楽だった。当時の社会的な弱者のための叫びに似た音楽という意味では、やはりヒップホップを置いて他にないだろうと思う。こうした文脈から新しい文化の「クール」が生まれてくるし、かっこいいということはどこか常に「悪い」部分があって、そうした「悪」に染まっている罪人こそ、イエス様の十字架において救われていく。これは人類の歴史が証明している確かな事実だ。 カニエウェストのジーザスウォークの日本語訳はこちらから https://w.atwiki.jp/gachmuch/pages/1015.html

創造主はいろいろな方をお立てになるので

僕だけが熱くなっているように思われて、僕の元で聖書を学び始めた人から「ちょっと杉本さんの熱量にはついていけないです!」といわれることが多いのだが、こうして僕以外の兄弟姉妹がいることが伝われば、安心できると思う。そもそもキリスト教世界の救いとは、神様からの恵みによるプレゼントであって、決して修行ではないです。そして、僕が熱いのは、最初からそういうタイプの人間なわけで、ゆるく信仰を守っていたり、熱さとはまた違うあったかーい方や、ユーモアにあふれた人などたくさんいます。「会いに行く教会」の石川さんのように全国津々浦々どこでも呼ばれれば行きますよという熱いスタンスで、心はものすごく燃えていながらも、同時にイエス様を知らない人にこそ知ってほしいと肩の力を抜いて緩く広く知ってもらえるようにと活動なさっている面白い牧師さんもいるし、日曜日に僕が行っている恵み教会を牧されているジョセフケンさんの道端の知らない人にも気軽に声をかけちゃう「ユーモアとゆるさ」にはいつも救われるし、16年間土曜日の朝食会を続けていらっしゃる佐々木満男先生も、常に聖霊の炎に燃えて、国際弁護士をなさって多忙な中、70歳を超えて夜中や熱い日中にマンガミッションのポスティングをなさっているという逸話があるくらい(僕もその話を聞いて、ちょっと若者が行動しないわけが行かないぞ、ということで、1万冊のマンガミッションの配布を始めた)聖霊の熱に燃え上がっている先生もいる。これが「信仰の正解!」というものはなくて、イエス様との関係性は常に個人的なものであるし、大事なことは、イエス様が私たちの罪のために死なれて、墓に葬られ、そして今も生きているという福音の三要素を信じることに集約されます。イエス様はそうやって兄弟姉妹の中に様々な人を立てられているわけなのです。人それぞれ賜物は違うからね。神様から与えられた賜物を兄弟姉妹や世の中のために、使っていくことで、おのずと自分の信仰の在り方は確立していくと思います。

クリスチャン同士のラポール形成の速さ

クリスチャン同士って、わずか数秒でラポールが築かれ、まさにその瞬間から、本当に「家族」になる。天のお父様の子供たちであるから、兄弟姉妹ともいう。兄弟姉妹なので、たとえケンカになったとしても、また仲良くなれる。昔は犬猿の仲だったカソリックとプロテスタントも、今やエキュメニズム運動で仲直り。互いに小さい部分での教理の違いや、信仰的な立場は違えど、結局のところ兄弟姉妹であることに変わりはないというところに落ち着くのが、キリスト教世界の面白いところ。そういうことも、ちゃんとイエス様は聖霊を介して、パウロに語らせていて、教会内部でのいざこざは赦しあって解決しなさいとコリント書の中で詳しく書いている。ようは教会内部で起こりうる問題なども、すべてちゃんと事前に準備されているわけだ。創造主によって啓示された教えって、すごいよなぁと思う。

思いは形になる

思いは形になる。この原則で考えたときに、啓示された聖書の御言葉は着々と私たちクリスチャンの思いを通じて具現化していく。聖霊の注ぎはすべてのクリスチャンに約束された主の恵みの愛。こうしたダイナミズムを信仰告白してからより強く感じられるようになってきた。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

主イエスキリストの御旨のもとで

聖霊の働きというのは素晴らしく、クリスチャンになってから、社会のあらゆる立場、階層、あらゆる年齢層の人たちと関われるようになってきた。そして皆、全て唯一の神、主イエスキリストを信じている。階級社会化していく世において、クリスチャンは、神の前で高きものは低くされ、低きものは高くされる。クリスチャニティの祈りが果たしていく役割は非常に大切なものになっていくのをますます実感する。

音楽と神の言葉であるレーマ

主のご計画というのは素晴らしい。バッハやモーツァルト、ヴェルディなどの天才音楽家も聖霊に導かれて楽曲を書いているわけだが、当時の人は、まさにその天才的な旋律の中に神の栄光を見ていたのだと思う。もちろん今もそうだと思う。特に音楽は、言葉よりも抽象度が高い(よりレーマに近いもの)であるため、神の栄光がよりダイレクトに心に響く。

福音とは罪人のための救いの教理である

福音というものは自分が苦しいところから召されて救われる経験をすると、同じように苦しんでいる人のために伝えたくなるものだし、またパウロのように頑なに否定していた人ほどむしろ熱心に証して、伝道するということもある。福音はそういう意味でも本質的に罪人のための救いの教理だよなぁとしみじみと思う。

ヴェルディのマクベス

来月ヴェルディのオペラ「マクベス」を見に行きます。ヴェルディの作品に特化したアーリドラーテ歌劇団による舞台で、聞くところによると、主催の山島達夫さんが、ヴェルディを愛するあまり、多くの方々にヴェルディを知ってほしい、ヴェルディをキーワードにした「コミュニティ」の再生という思いを胸に、毎年続けておられ、2日間満席でも、赤字になってしまうというくらい、ものすごい熱量で活動されているそうです。2日間とも演者が違うし、この熱量はなかなか他ではありえない舞台だと感じます。

義認と聖化

義認による救済の後の、聖化の初期(信仰の育み)の段階はわりと精神的にもグラグラ揺れる傾向がある。これは義認によって神の怒りから解放されたのちも、聖霊の内住によって聖霊から自らの罪を明らかにされ、聖化され造り替えられていくプロセスだから。でももちろん揺れるからといって、救われていないわけではないし、また救いが失われるということもない。むしろ救われたからこそ、造りかえられ、一時的に揺れるだけなのだ。

内的召命

外的な召命って、基本的に無効なので、迫害を受けやすい。結局のところ主が召す究極の方法は、内的召命。内的召命は100%主の御技なので伝道者ができることはといえば、内的な召命がいつかおこりますようにと祈りるほかない。そしてどれだけ拒絶され、迫害され、馬鹿にされようが、思惟への奉仕と証、なによりも他者への献身を行なっていくことが大事だなと、しみじみと感じる。 リバイバルもあくまで内的召命抜きに起こりえない。その意味でも占い師だった僕自身が、誰に宣教されたわけでもなく(つまり外的召命によってではなく)、自ずとクリスチャンになるように内的な召命を受けたという証は、やはり日本にリバイバルが起こりつつある徴と言えるのではないだろうか。 主こそ我が誉れ。父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン。

赦しの力

しみじみ赦しというのは主の偉大な力だなと実感する。この世の論理、あらゆる側面から戦略的、合理的に検討しても、やはり赦したほうが解決は早いんだよね。その理由とはシンプルに、赦しは神の偉大な力だから。

汝の敵を愛すること

赦しと十字架の恵みって深いなぁ。しみじみと。昨日はとあるシーンで、初対面の方にだいぶ嫌なことをされて、あまりに酷かったので今日改めて警察にちゃんと相談して正式に被害届を出したほうがいいのかなぁ…と思ったのだけど…、まぁ、人間なんて僕も含め、皆、愚かなもの。人生で起こりうる罪に対してもすべてが潔白な人なんていないし、そもそもみんな罪人なわけで、罪人が罪人に腹を立てたって仕方がないし…、罪人が罪人を裁けるわけでもない。そもそも人を裁くほど、そんな権限なんて自分にもない。一切ない。そんな時、イエス様は、僕をどんなクリスチャンに対しても、頭の上がらない罪人として、低く、低く、召し出してくださって本当にありがたいなぁという思いに駆られる。最初はキリスト教徒を迫害していた、使徒パウロもそうだったんだろうな…。「お前が言うなよ」だからな。本当に。ただただ罪人として、悔い改めて、生きるしかないなぁ…と、一日経ってしみじみ思う。いやー、その方も、イエス様の福音を知ってもらえたら、きっと人生楽になるんだろうけどな…。自らの怒りを鎮めて、主の裁きに委ねることもできるが…、願わくはその方が福音を知って、イエス様によって人間が持つ原罪から解放されて、いつか兄弟姉妹になれたらいいな。「汝の敵を愛せよ」といった、イエス様の愛を知ってほしいな。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

罪深いなぁ…(自戒を込めて)

そもそも知恵の実をそそのかせて食べさせた蛇(サタン)がそうであったように、どちらかっていうと、頭のいい人のほうが、わりと罪深いんだよね。その頭のよさゆえに、自分がいかに罪を犯していないか自己弁護するし、敵を作らずに、うまいことを人をくみしていって、自分の手を汚さず、自分の意見をさも正しいかのように通していったりもする。むしろ札付きのワルのほうが、素直で真っすぐで義理堅ったりするものだ。人は見かけによらないというか、意外と悪魔って真摯で、狡猾で、巧妙なんだと思う。だから自分も、「立派なニューエイジャー」だったんだろうなと思う。神様から見れば、人間なんてどんぐりの背比べで、どっちも臭い。神の嗅覚からすれば、人間なんて、どんな偉い人でも、罪の匂いで充満しているものだ。先生、先生といわれて、天狗になっているうちは、あるいは自分が天狗になっていないことに天狗になっているうちは、悪魔の策略の中にいることは気づかないもんだね。しみじみと聖書の御言葉で人間の罪深い心は砕かれるべきものだなと思う。自戒を込めて。主イエスキリストの御名において、お祈りいたします。アーメン。