VR360教会

罪人は常に、主に低く召される。

低く低く召してくださったことはしみじみありがたいことだなと感じる。クリスチャンとして何も誇るところはないし、しみじみ主の愛の深さを日々実感する。これが自分で手に入れた知恵や勲(いさお)なら傲慢にもなるだろうが…しみじみニューエイジャー や占い師だったことは罪人でしかないからね。ありがたいなと実感する。

人は罪を犯すが、信仰によって救われる。

十字架を信じ、また十字架を背負うという方法以外に、人間関係のいざこざや、様々な問題を根本的に解決する方法はないなとしみじみと感じる。やっぱ赦しって大事なんだよな、としみじみと感じる。僕は取るに足りない罪人でしかないが、こうして主の恵みによって召されて生きていることに心から深く感謝するし、日々知らず知らずのうちに積み重ねていってしまう愚かさや罪深さを、しっかりと悔い改めながら、主イエスキリストの愛をもとに生きていきたいなとしみじみと感じる。やっぱ35年も生きていると、大体十戒にかかれている、世の中で知らず知らずのうちにやってしまう罪なんて、ほとんど全部やっているわけで(離婚だって立派な姦淫の罪なわけで)、それにさらに自分の場合は占いやニューエイジ(いわゆるスピリチャル)を信奉するだけでなく、推進さえしていた。本当に愚かだなと思うし、ただただ主の前で、恥じ入り悔い改める日々。 しみじみとあらゆる罪を犯してきているな…と感じる。大体誰から見ても、札付きの悪よりも、よっぽど頭がいい、一見品行方正、優等生タイプな人間の方が…、気づかず悪いことをしているものだ。自分もそうなんだろうと思う。聖書を読んでいると、イエス様の御前で、しみじみと恥じ入るね…。罪を犯さないで生きるなんて、まぁ、無理だよなと。その上でいかに悔い改めるかが大事だなと。こんなとるにたらない罪だらけの自分のために、イエス様が十字架の上で屠られて、贖ってくださったなんて…、やっぱり恵みだなと実感するし、自分もそうありたいな…できるかな?できないかな?いや、なんとかやってみよう!と、今日も教会に行って、しみじみと思う。信仰って、そういう積み重ねなんだなと。まるで、「杉本さん、日進月歩でじっくりとだね」とイエス様がいってくださっているよう。 父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

ミニストリー

ミニストリーって、神の純粋な愛に触れるから、1週間の運気あがるんだよね。 聖霊の注ぎによって、人生のテーマが加速する。

多すぎる情報は人を迷子にする

SNSによって情報過多になってから、多すぎる情報はむしろ人を迷子にさせてしまう。これがVRやAI、5Gの時代になるとますますこれが加速していく。新しい時代において大事なことは、「信」を共有していくこと。それゆえ、聖書の御言葉の重要性は今後非常に高まっていくと思う。

信を共有する時代

やはり情報やスキルや経験をシェアする時代から、信を共有する時代に移っていくね。これは背景としては確実にVR、AI、5Gといった技術が関係している。もはや情報やスキルや経験は全てオンラインにアップロードできる時代になってきた。つまり情報やスキルや経験における、情報の非対称性はこれからの時代大いに無くなっていく。それに取って代わって、信を育み、共有するミニストリーが今後の時代を開く鍵になると思う。言葉(facebook)→映像(Instagram)→体験(VR技術に基づくSNS/AIの自動同時通訳による言葉の壁の消失)という形で今後人類のシェアリングテクノロジーは進展していくと思う。言語の壁を超えて、なおかつ体験をそのまま記録できるようになっていくと、もはや情報の非対称性よりも、信をいかに共有するかのほうが社会的な価値を生み出すものになっていく。むしろ知に重きをおけば置くほど、技術の発展に伴いさらにエコーチェンバー化は進むので、知の共有というパラダイムは自ずと自己崩壊していくことになると思う。 あとそもそも情報やスキルや経験をシェアできて、それを社会的な価値へと転換できる人はそもそも限られている。つまり必ずエリート主義に陥ってしまう。信を共有し、育むミニストリーは、聖書の御言葉をベースに形成されていくので、こうしたエリート主義に陥ることはない。

自己義認の罠

汎神論的な世界ではどこまで抽象度を高めても「自分を愛する」という枠組みを超えることはない。なぜなら神とは自分と他者、世界という境界線をとった最大のもの(ワンネス)であると考え、その中には自分自身も含めるから。またそうして広げてワンネスに行き着いた先には、最終的には仏教の悟りや空/無のように、無神論に帰結するし、決して創造主という真実に行き着くことはない。ここが「自己義認」の罠になっている。現在の汎神論の最も普及した信仰形態となっているニューエイジ (スピリチュアル)的な思想の危険性はここに集約されると行って過言ではない。大事なことは、創造主と被造物の自分という関係性を明確にすること。そして、創造主は常に私たちを愛しており、原罪によって死を体験することになった私たちを、自らの御子を十字架の上で屠って、その罪を贖ってくださったという真実を知ることが何よりも大切。これはどれだけ汎神論的な世界の延長線上で考えても、辿り着くことのない真実。ゆえに一神教は啓示宗教であり、決して人間が考え出した宗教形態ではないということ。これは何度繰り返しても、繰り返し過ぎることはない重要なポイントである。自己義認では永遠に私たちは救われない。大事なことは、自らの罪を悔い改めて、十字架の意味をしっかりと受け止めること。

セッションからミニストリーへ

知を共有するセッションから、信を共有するミニストリーへ変化していく時代がまさに今なのだと思う。僕が占い師を始めたときには、個人セッションという言葉は、ほぼ誰にも使われていなかった。大体の場合、「個人鑑定」と呼んだ。今の時代は、多くの人が当たり前のように「セッション」という言葉を使うようになった。そして、今やセッションという言葉は耐久年数を超えはじめて、ほとんど意味のない言葉、場合によっては単なる悪質な霊感商法や開運商法になりつつある。あるいは、単なる参入障壁の低いお気軽にできる副業や、金儲けのための商材(いわゆる情報弱者ビジネス)に成り下がってしまった。また、SNSの発展によって、セッションをしなくても、すでにその人にとって必要な知識はだいたい手に入れられる時代になった。つまり情報にはほとんど意味がなくなった。今後セッションという言葉は、鑑定同様、古い言葉になっていくと思う。セッションに代わる言葉は、「ミニストリー」だ。まずその前提として、ニューエイジ文化から、クリスチャニティ文化への大きな民族大移動が起こるだろうと思う。すでにニューエイジ文化自体が、商業主義に染まって腐敗してきている今、誰の目から見て明らかに「悪」に染まりつつある―つまり単なる金儲け主義に陥っているということを実感するようになってきている。正しいことを成そうとするならば、必ず正しい思想的なベースをもとに行動しなければならない。成る実を見て、その木を知りなさいということがイエス様の御言葉。大事なことは「知識」ではなく、どのように「信仰」を育むべきだということ。知識を教えてくれる人は無数にあるが、聖書に基づく正しい信仰のあり方を教えてくれる人はほとんどいない。これからの時代はここが非常に重要な価値となると思う。知では決して人は救われない。信を共有してこそ、これからの時代の本当の救いは得られるようになる。日々そのことを確信する。「「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」」ルカによる福音書 6:43-45 新共同訳

マンデラエフェクトという徴と、日本的な信仰形態のパラダイムシフト

日本人は非常に信仰深いので、一度明確な徴が個人的に示されると、一気にそちらに移動することはそこまで難しいことではない。ニューエイジがここまでひろがったのも、要は個人的な徴(神秘体験)がそこにあったからだ。そこで大事なことは、一神教の枠組みの中でしか証明できない徴があった時こそ、日本人の宗教観の大きなパラダイムシフトになりうるということ。創造主が現実をクリエイトしている、自分はあくまで被造物でしかないというインパクトを、マンデラエフェクトは与えてくれる。圧倒的な主の臨在をまさにそこに感じることになるのだ。しかもこれが全て聖書の中にしっかりと預言されているということ、しかも、自分が確かにイエス様の十字架での死と3日後の復活を疑わず、信じていたという事実にも、ぶち当たることになる。そういう徴を、主は分かりやすく啓示してくださっているのだと思う。

汎神論の限界

汎神論でいうところの、もし自分の意識が現実をクリエイトすることが真実ならば、それでは、なぜ目の前で奇跡を起こせないのか?という話になる。汎神論の限界はここに在る。汎神論からはどうやっても一神教の枠組みは生まれない。マンデラエフェクトは本人の意思とは関係なく生成される。これはあくまで創造の主体が、汎神論で考えるところの自分自身ではないということを示している。あくまで私たちは神が創造した時間という被造物の中を、神の御手によって、移動させられているにしかすぎない。ここに決定的な、創造主―被造物の絶対的な関係性が、示されているわけだ。確かにこうした現象を経験しない限り、パラダイムシフトということは起きえない。日本では今だ、こうした徴をともなうパラダイムシフトは、日本のキリスト教世界の中では大規模に起きたことがない。しかし、今がまさにその時なのではないかと思う。マンデラエフェクトは、日本人を、一神教的な意識へとパラダイムシフトさせるだけの大きな力があり、主の御手によって力強くキリスト教信仰へと導くものになっていくだろうと思う。アウグスティヌスも唱えた、時間は被造物であるという真実も、おそらくこの経験に依っているのだと思う。主の御名においてお祈りいたします。アーメン。

マンデラエフェクトと聖書的信仰の深い関係性について

やはりどう考えても、マンデラエフェクトと、聖書とは深く関係している。マンデラエフェクトを認識できる人は、日本的なノンクリスチャンであっても、十字架の贖いを知っている&信じている人が多いし、日本人にも分かる汎神論的な世界の枠組みの中で、創造主が、聖書の世界に召してくださっているとしか思えない。確かに日本人の信仰である汎神論的な世界から、ヘブル的な一神教へのシフトは途方もない溝があって、ここを埋めるには、徴を通じた、パラダイムシフトが必要なんだと思う。牧師の先生に、「なんのためにこれが起きているのだろう、その主の意図は何だろう?」と聞かれたのだが、おそらく日本人の汎神論的な世界から、キリスト教の一神教的信仰形態へのジャンプのために、必要な徴だったのではないかと、研究すればするほど強く実感する。すくなくとも、日本の場合は、教会に通うクリスチャンではなくても、かなりの割合で、ミッション系の教育を受けた人だったり、何かしらの縁で聖書の世界を知ることがあったなどで、実際にはイエス様の十字架の死と3日後の復活を知って、懐疑的にならず、信じている人はかなりの数存在する。日本人の場合そもそも、汎神論なので、3日後の復活を「疑う」ということも、あまりない。「信じ」てさえいれば、救われる。それが信仰義認の本質だ。そこはすんなりと受け入れられるのが日本人的な冷静だともいえる。まずは、そういう方々をこのマンデラエフェクトという徴を通じて、主は信仰へと召されているのではないかと感じざるを得ない。

日本のキリスト教世界の発展のために

キリスト教世界の発展のために(たくさん献金できるように)、しっかりと今後の事業でさらに成功して、主の栄光を讃えていきたいと思う。マラキ書のように、神の庫を満たせるように、頑張るぞ。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。  結局教会に献金しないと、そもそも福音が広がりようがないからね。やっぱ大義のためにしっかりと大義に基づいて、世の中にいいサービスを生み出していくことは大事。プロテスタンティズムの基本だね。

クリスチャンとしてのホームベースが整う

土曜日の午前と、日曜日の午前は、これから毎週教会になった。土曜日はグランドハイアットでの超教派的なエクレシア。日曜日は大泉学園でのジョセフケンさんの恵み教会。着々と生活のベースが、新しいものに変わっていっている。 参加したい人は気軽に声をかけてください。イエス様が好きだけど、所属教会がないということで、困っている人って多いし、一言でいうと…めちゃくちゃ熱いです。エクレシアの集いは、聖霊の注ぎがあるので、人生が大きく作り替えられて、本当に日々が楽しく、熱いものへと生まれ変わること請け合いです。聖書を学びたいという人も、僕がマンツーマンで基礎から分かりやすく教えます。聖書を一人で学ぶのは至難の業だし、ガイダンスはあったほうがいいでしょう。 僕の場合は、心理学やコーチングをベースにした教え方であり、なおかつキリスト教神学の中でも、聖霊の働きを重視し、聖書的なスピリチャリティとは何か?という基礎をしっかりと押さえつつ学べます。マンツーマンで自分のペースで学べ、主への信仰がゆるぎないものになっていきますから、結果的に人生の中での自信と安心が人生にしっかりと備わっていきます。そして何より、中小企業向けの経営コンサルタントとしての長年の経験や、長い人ではもうかれこれ6-7年にわたって継続的に受けられてきたライフコーチとして教えてきた経験があるので、どのように人生の中で聖書を活かし、物心両面で、豊かな生活を送ることができるかということについて、地に足をつけたレクチャーとなります。たぶん組織に属さず、プロフェッショナルな心理学的な知識や、地に足の着いた経営的な知識をベースにして、マンツーマンで聖書が学べる場所は他にはないのではないかなと思います。 あとは、普通にクリスチャン向けのビジネス支援や、マネーリテラシーの普及などもしていきたい。クリスチャンの間でわりとよく話題にのぼることが、クリスチャンってとにかくお金に疎い人が多いということ。でもこれってわりとあまり根拠のない話であって、単純にビジネスを学ぶ機会が少ない、もしくは最初からお金への苦手意識から、学ぶことを放棄しているからだけなんじゃないかろうかと思う。むしろ、本来、資本主義って、社会学者のマックスウェーバーがいうように、クリスチャニティ(プロテスタントのカルヴィニズム)から生まれたもの。本来、明治時代のクリスチャンは、華族や士族をはじめとした上流階級に所属していることが多かったし、決してクリスチャン=お金のリテラシーがないというのは、現代的な先入観にしかすぎないと思う。明治維新の志士たちにも、クリスチャンは多かった。ようは現代においても、単純にお金の勉強をすればいいだけのことだし、クリスチャニティと資本主義の関係性を社会学的にもしっかりと理解しながら、聖書的な価値観にのっとった現代的な投資の概念(主に現代は知的財産に財が集中する時代)をしっかりと学ぶことが大事なんではないだろうかと思う。聖書的な価値観と、経済的な繁栄とは、決して矛盾する価値観ではない。むしろ聖書的な知識こそ、現代においても大きく経済的にも栄えるための基本的な教養ではないかと、長年の経営コンサルタントとしての経験から感じる。聖書の教えだけで栄えるわけではない(現代的なマネーリテラシーは絶対に必要だし、幅広い知識や経験が必要なことはいうまでもない)が、逆にいえば、聖書教え抜きに恒常的に栄えることは絶対にありえない(イエス様の十字架の贖いを知らないで、なぜ社会に大きな価値を生み出すサービスを設計することができるのだろうか?)。そもそも商売が上手なユダヤ人だって、旧約聖書を読んで、ビジネスのセンスを磨いているわけだしね。聖書なしに、契約概念は生まれなかったし、契約概念に基づいた今の経済システムは絶対に生まれなかったわけで。特に金本位制の崩壊以降、情報の非対称性こそ、経済的な価値のベースとなった時代となっている今、聖書的な知識抜きに、経済的な豊かさを手に入れていこうとすること自体、ナンセンスなんじゃないだろうかと思う。

なぜクリスチャンとしての信仰告白をするのか ―無償の愛について

和を以て貴しとなすという文化の日本において、信仰告白をすることはリスクでしかないし、「なぜ、それでもクリスチャンであることを選ぶのか?」という問いに関して、明確な答えとしては「無償の愛」がここにあるから。「結局、罪なき自分が、相手の罪を背負って、贖う」つまり「見返りを求めずに、他者のために生きる」というイエス様が示された無償の愛の「型」を、人にも分かりやすく伝えるには、主イエスキリストの信仰告白をした上で、行いを通じて証していくしかない。信仰告白抜きに、行いに進んだところで、「いい人」でおわってしまうし、場合によっては「ただの都合のよい人」になってしまう。クリスチャンにとっての無償の愛とは、まず何よりも主を讃えることに大きな目的があり、その大目的のために自らを十字架にかけるということがベースにあるということを理解してもらうためにも、信仰告白は避けては通れない道であるといえる。 クリスチャンになってよかったのは、何よりもこの「無償の愛」というテーマについて、より深く、輪郭を持って臨めるようになったこと。しかもクリスチャンとしての信仰を持つ人は、すべからくイエス様が十字架の上で示された「無償の愛」という型を信念として持っているので、打ち解けるのも早いし、またともに行動する時にも非常に合意形成が早い。こうしたことは本当に主イエスキリストの恵みだなと深く感じる。

クリスチャニティ とヒップホップ

日本においても、階級化社会(つまり下流社会の登場)と、クリスチャニティ とヒップホップは、リバイバルムーブメントにおいて非常に深い関係性になっていくと思う。 [レビュー2]『ヒップホップ・レザレクション ラップ・ミュージックとキリスト教』

日本人が持つ「信仰告白」への恐れ

やはり日本人が宗教と聞いて感じる、根底にある恐れは、「信仰告白」という文化のなさなんだなと思う。律法主義的な組織宗教への嫌悪感とよくいわれるが、むしろ日本人こそ集団行動に馴染みやすく、会社や学校というある種の律法主義的な組織宗教にはしっかりと馴染めるわけで、むしろそれよりも集団の中で、「個人的な信条」を表現して、他者とのコミュニケーションがうまくいかなくなることをイメージする恐怖心の方が、本質的なリアリティがあるのだと思う。 どんな人でも、宗教的な信条を持っていない人はいないわけで、しかし異教徒を前提としない日本の教育の中で、自分の宗教的な信条をメタ認知して、言語化するトレーニングを受けてきていないことは非常に重要なポイントなんだと思う。多くの場合日本の宗教的信仰形態は、「里山自然崇拝」であって、決して仏教や神道という宗教的神学が、揺るがない核にあるわけではない。逆に言うと「里山自然崇拝」という側面においては、ほとんどすべての人がぶれずにこの信仰を保っているともいえるし、ある意味日本人の信仰は、「里山自然崇拝」というある種の一神教であるともいえる。ジブリの多くの作品世界で描かれる宗教観こそまさにこの「里山自然崇拝」だ。このあたりのことを、明治のクリスチャン内村鑑三はよくわかっていたからこそ、「無教会主義」や「天然という教会」という概念を生み出したのだと思う。彼自身が信仰告白や福音伝道をしていく中で、日本人の一般的な宗教観をメタ認知していった結果、そのことに気づいていったのだと思う。

十字架は罪人のためのもの

しみじみと十字架の救いは、自分を義とする人のためではなく、悔い改める罪人のためのものなんだなと感じる。主イエスキリストの御名においてお祈りします。アーメン!

超教派的なエクレシア

超教派的な動きを見れば、決してキリスト教が、日本人がよく考えるような律法主義的な組織宗教ではないことがよく分かると思うのだが。このあたりは今後も引き続き、自分の活動を通じて証していきたいと思う。教会は決して建物ではない、エクレシアという人の群れである。「エクレシアよ、街へ出よう」、日本宣教において、このスピリットが非常に大事だと思う。

中村光子先生とお目にかかる

國分先生のご紹介で、新宿シャローム教会の中村光子先生とお会いして色々なお話を聞かせていただいた。聖霊の満たしをお人柄とポジティブなエネルギーで表現されているとても素敵な先生だった。國分先生にも感謝。日々主の栄光を感じ、イエスキリストの十字架によって赦され、聖霊の内住によって聖とされ、祝されることが、いかほどの恵みなのかを…日々イエス様の臨在とともに実感する。主の御名においてお祈りします。アーメン!

兄弟姉妹の存在

兄弟姉妹の影響は非常に大きいな…。主の御手によって、この2週間だけでも聖霊に燃え上がる兄弟姉妹の出会いがいくつもあって、皆それぞれに今日も燃え上がっており、それはひいてはイエス様が燃え上がっているということ。クリスチャンはイエス様の血と肉によって清められ、繋がっている一つの体。今日も主の栄光を讃えられるように、熱く燃え上がって生きたい。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします!アーメン!

【ベツレヘムの星便り】364号  施しをするときには

◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り) 2019/8/18                                 364号こんにちは、杉本譲治(旧ユピテルジョージ)です。 今日はクリスチャニティにおける「施しをするときには」というテーマについてお話します。 私の好きな聖書の御言葉の中で、しみじみと深いなぁ…と感じるもののひとつにイエス様のこのようなメッセージがあります。 「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」マタイによる福音書 6:3-4 新共同訳 「右の手のすることを、左の手に知らせてはいけない」という御言葉が表現するように、それくらい、自分を誇ることなく、謙遜な心をもって、相手にも気づかないくらいに自然に、人に施しを与えましょうという教えです。 イエス様の教えは、常に一貫して、愛する相手の僕(しもべ)となって、謙遜で砕かれた気持ちで、相手に仕えましょうというもの。 相手を愛する時、ついつい見返りを求めてしまったり、相手を愛している自分自身を誇ってしまうということは、よくやってしまいがちな人生の失敗です。 振り返ると自分もこういう失敗をたくさんしていたなぁと…思います。この聖句を振り返ることで、いつも悔い改める気持ちでいっぱいになります。 そして、同時に、「右手のすることを、左手に気づかれなくらいに」人を愛することができればいいなと、思いも新たになります。 こうした自分の心を砕いてくれる聖句を持っていると、人生の失敗も未然に防ぐことができますし、聖書は常に自分の心を謙遜な心へと導いてくださるのです。 さて、今週もあなたにとって、素敵な一週間になることを心からお祈りしております。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。 【クリスチャンの集い】土曜日パワーブレイクファーストのお知らせ今週から、毎週土曜日の朝9時に、東京六本木のホテルグランドハイアットのフレンチキッチンにて開かれている、いつもお世話になっているクリスチャンである国際弁護士の佐々木満男先生や、作家で、牧師のジョセフケン牧師をはじめとした熱き日本のリバイバリストたちに会って親交を深められる朝食会(パワーブレークファースト)に、毎週参加させていただくことになりました。 本来は、ビジネスマンに向けた福音伝道を趣旨として創立されたINTERNATIONAL VIP CLUBの活動の一環として、第1・3・5土曜日の隔週での開催で、これまでも16年間開催されてきた佐々木満男先生が主催する歴史ある朝食会です。 先日、ジョセフケン先生とお話しているときに、聖霊の注ぎによって意気投合し、いつもは開催していなかった第2,4土曜日も、ケン先生と私は出席し毎週必ず集い、皆で祈れるようにしましょう!ということになりました。お申込み方法等は、詳しくはこちらからご覧ください。 https://vrchurch.online/powerbreakfast 【個人セッション】聖書の御言葉を通じて、自分の心を「無償の愛」で満たす人生の困難に行き当たった時、判断に悩む時、あなたの手元に一冊の聖書と、主イエスキリストへの信仰があれば、常にあなたの道のりを、明るく照らしてくれます。 人生はいいことばかりではありません。しかし、どんな時でも救い主イエスキリストは、あなたのことを見守り、愛しておられます。 この個人セッションでは、聖書的な人間理解、主イエスキリストの信仰をベースとしながら、時間をたっぷりととったマンツーマンのカウンセリングをご提供し、あなたの人生がより良い方向へ向かうように祈り、また、献身させていただきます。 「心の貧しい人々(謙遜な人々)は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイによる福音書 5:3-12 より 新共同訳 ) ▼時間の目安 60分から90分程度▼料金 本カウンセリングは、キリスト教の献身の精神に基づいた活動となるため、特定の料金は定めておりません。あなたがふさわしいと感じられる、主への感謝の気持ちを込めた献金という形でお納めくださいますようお願いいたします。 ―――惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。 (コリントの信徒への手紙二 9:6-7 より 新共同訳) ▼スケジュールの関係上、月10人までのお受付となります。何卒、ご理解、ご了承ください。▼日時 お申し込み後に、ご希望の日時を調整いたします。▼場所は、表参道(東京都)のサロンとなります。ご予約後に住所をお伝えいたします。▼ご遠方の方は、スカイプやLINE、ZOOM等のビデオ通話を使った形にてもご提供いたします。 ▼ご予約はこちらからどうぞhttps://vrchurch.online/personal_session メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)発行者:杉本譲治▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。 ▽本メールマガジンの配信解除はこちらからhttps://j.bmb.jp/bm/p/f/tf.php?id=r_bridge(c)2019 George Sugimoto All Rights Reserved.

マンデラエフェクト

マンデラエフェクトに気づく人々が増えてきているので、これまで僕の方で記録してきたものを列挙していきます。 マンデラエフェクトですが、私の周りでは、2017年3月27日から起こり始めました。事前に数名で集まっていたとある集まりの時に、「北海道の輪郭を見ていなさい」というメッセージを受け取り、その時はなんのことだかさっぱりわからなかったのですが、その後数週間して、見る見るうちに日本地図の北海道がどんどん大きくなっていきました。 地図だけではなく、会社のロゴや、キャラクターデザイン、人体の構造や、街中のオブジェなどが、大胆に変わっています。このほかにもたくさんの写真があるのですが、そのいくつかをご紹介します。 エジプトのギザの3大ピラミッドなのですが、まず3基がここまで近かった記憶はありますでしょうか。そして、その前に小さなピラミッドがさらに3台あります。これは、映した角度の問題というものでもなさそうで、実際にWikipediaのギザの三大ピラミッドの公式の写真からとっています。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89 スフィンクスの足が異常に長いのがお分かりいただけますでしょうか。また、顔も風化してえぐれてしまっているようにみえます。記憶ではもっとしっかりとした輪郭だったような気がします。 MIZUHOのロゴに違和感を感じませんでしょうか。UとHが、繋がっております。以前はこのようなロゴではなかったという記憶です。 また、送金できる預金口座の種類に、・普通預金・当座預金以外に、このタイムラインでは・貯蓄預金というものがあるのですが、ご存知でしたでしょうか。これはいわゆる積立貯蓄口座や定期口座とも違い、普通、当座、貯蓄という送金できる口座のうちの1つです。これは私の記憶にはありませんでした。 体の中で、胃と肝臓はどちらが上だったか覚えていらっしゃいますでしょうか。私の記憶では、胃の方が上だったはずなのですが、肝臓が上に来ています。 これは有名ですが、ピカチュウのしっぽは黒だったか、黄色だったかというものです。私の記憶では黒でしたが、今は、発売当初からずっと黄色だったということになっています。 オーストラリアとニュージーランドが離れていることの背景に、この地球では、ジ―ランディア大陸が沈んでできたという謎の設定ができています。 おさるのジョージですが、しっぽはどちらでしたでしょうか。私の記憶では、しっぽは生えていたはずですが、このタイムラインでは、昔からなかったことになっています。 フォルクスワーゲンのロゴはどちらでしたでしょうか。記憶では左でしたが、今は右のVとWの間にスペースがあるロゴになっています。これも途中で変わったわけではなく、昔からこうなっています。 人間の頭蓋骨の目の裏に「涙骨(るいこつ)」という骨があった記憶はありますでしょうか?本来はここは空洞だったはずなのですが、今は骨があることになっています。また、口元と頬に、オトガイ孔という神経が通る穴が2つ+2つ空いています。 シチリア島が異常にイタリア本島に近づいてしまっています。また、コルシカ島、サルディーニャ島が異常に大きくなり、ティレニア海という謎の海ができてしまっています。 これは、街のオブジェになるのですが、渋谷の道玄坂の入口に以前には絶対になかった銅像が急にできていました。調べてみるとすでに2013年には存在しており、私が知っていた渋谷には絶対にありませんでした。 四国に謎の突起のような岬ができてしまっています。またこのあたりの海の名称も、フィリピン海ということになっています。 インドの海岸線沿いが異常にえぐれてしまっています。さらに右上に、耳のような国境ができており、私の記憶にはない、しかしこのタイムラインでは非常に有名になっている「インパール作戦」の舞台となったインパールという土地が出っ張っています。史上最悪の作戦と呼ばれたようですが、そもそも日本軍がインド軍とともに英国と戦ったという歴史は寡黙にきいたことがありません。しかしこれは多くの今のタイムラインの人が知っているわりと有名な歴史のようです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6 韓国が異常に日本に近くなり、南側がリアス式海岸になっています。ちなみにこの地図の変化は毎日見るたびに変わっていきました。次第にリアス式海岸に変化していったような感じでした。 チリの南側が沈没し、フィヨルド地形になってしまっています。そもそもチリ自体が細くなってしまっています。 スペインとフランスの海岸線の角度がきれいな90度になっています。前はもっとなだらかだったはず。また、地中海がスペインとモロッコの間(ジブラルタル海峡)が閉じてしまっています。ジブラルタル海峡は、スペイン側の岬がイギリス領、モロッコ側の岬がスペイン領という形で、謎の領土問題が昔から存在していることになっていました。また、地中海が閉じてしまっているので、この地球では、地中海は、塩分濃度が高い「塩湖」になっているとのことです。 頭がフンコロガシ(スカラベ)でできた神様で、ケプリ神というそうです。この世界では有名なエジプトの神様ということになっていますが、まるで人工知能が描いたのかというくらい雑なデザインで、でも昔から存在しているという不思議な神になっています。 先ほどのチリの南端ですが、フィヨルド地形の拡大図です。 渋谷の109ですが、建物の左側の空洞が存在しませんでした。ここは今は喫煙所になっています。また後程出てくる以前には絶対になかった謎の銅像も、すでに1983年から存在していることになっていました。 MITSUKOSHIのロゴが、みずほ同様、UとKが繋がってしまっています。 MIZUHOのロゴ、やはりUとHが繋がっています。 オーストラリアが、パプアニューギニアとインドネシアに近づき、ニュージーランドからとても離れましたた。 渋谷のモヤイ像の裏側に、謎の顏ができていました。表と裏、両方に顔があることになっています。もちろんそのような記憶はありませんでした。 こちらが、109の銅像です。 こちらの銅像が、1983年という渋谷109ができた年にすでにあったことを知ることができます。 これは銀座の和光という建物なのですが、時計台が本当は1面しかなかったものが、この世界では4面になっています。そして、重要文化財に指定されていて、外観が以前はもっと汚れていたはずなのですが、とてもきれいにクリーニングされています。2008年くらいにクリーニングされたということになっているようです。もちろん私の知っている限り、そうではありませんでした。 ハチ公前のオブジェですが、これはもっと不思議なことが起こり、献血に出かける時にこの前の建物に入っていく際、絶対になかったこのオブジェが、献血から出てきたときに、いきなり目の前にこのU字の銅像がポンとあらわれました。こちらもいろいろな人に聞きましたが、存在は初めて知ったという方が多かったです。むろん、昔からあったということになっています。 こちらは静岡の大室山という謎の山です。このような個性的な山であれば、学校の地理の教科書で習っていない方がおかしいはずなのですが。。。 こちらは、伊豆の七不思議といわれている(らしい)神池という池です。周囲が海に囲まれているにもかかわらず、この池は淡水だそうです。もちろんこんな観光スポットは聞いたことがありませんでした。 小林亜星さんはご存命か、亡くなっているか、どちらの記憶がありますでしょうか。僕は確実に、すでに亡くなっていたはずだと記憶していたのですが(お葬式をワイドショーを見たという方も多いです)いまもご健在とのことです。 ピカチュウに、だいぶ早い時期から、メスがいるとのことです。しっぽがハートになっています。もちろんこれも初耳でした。ひとまずざっと、地図以外の前の地球と比べて違和感がある事情をご紹介いたしましたが、以前の記憶と比べていかがでしょうか。

この奇跡

一冊の聖書から、ここまで人生の全てが変わるなんて… 御言葉ってなんて素晴らしいんだと日々実感する。この奇跡、あなたにも体験してほしい。どんなに迫害されようが、よろこんで、主に仕え、世に仕え、人々に仕えていきたいと心新たにする一日でした。ハレルヤ!主の御名においてお祈りいたします。アーメン!

HOTとCOOL

カッコいい(COOL)に先行するのは、常に熱量(HOT/熱いこと)だと思う。熱く燃え上がっていれば、最初は荒くとも、自ずとかっこいいスタイルに収斂していくし、本物にしか出せない味が出てくる。クリスチャニティリバイバルは、明らかにこの熱を帯びてきている。HOTな文化になりつつあるのを肌で実感する。大きな波は確実にやってくる。そう遠くない未来に若い人々のセンスによってさらに収斂されていき、一気にCOOLな文化になるのは想像に難くない。

毎週土曜日のパワーブレークファーストの集い

来週から、土曜日の朝9時に、グランドハイアットのフレンチキッチンにて開かれている、いつもお世話になっている国際弁護士の佐々木満男先生や、作家で牧師のジョセフケン先生をはじめとした熱きリバイバリストたちに会って親交を深められる朝食会(パワーブレークファースト)に、毎週参加させていただくことになりました。本来は、ビジネスマンに向けた福音伝道を趣旨として創立されたINTERNATIONAL VIP CLUBの活動の一環として、第1・3・5土曜日の隔週での開催で、これまでも16年間開催されてきた佐々木満男先生が主催する朝食会。先日、ケンさんとお話しているときに、聖霊の注ぎによって意気投合し、いつもは開催していなかった第2,4土曜日も、ケンさんと私は出席し(つまり毎週出席して)毎週必ず集えるようにしましょう!ということになりました。主イエスキリストの御名において、着々と熱きリバイバリストたちが集まるエクレシアが形成されて行っているのを実感します。これからの時代はビジネスマンにとっても、聖書は必須の教養です。私は土曜日午前中には、常にフレンチキッチンにいるようにして、いらっしゃれる方と常にともに祈れるように準備しています。ぜひご一報ください(info@vrchurch.online)。参加費は無料で、飲食費のみ各自実費精算(コースではないので数千円程度)です。 https://www.tokyo.grand.hyatt.co.jp/restaurants/french-kitchen-tokyo/ ・佐々木満男先生のコラム https://www.christiantoday.co.jp/reporter/sasaki-mitsuo/ ・ジョセフケン先生のプロフィールhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95 そもそもいきなりクリスチャンが集まる場所に行くには少しハードルが高いなと感じられるのためにも、僕がマンツーマンで、聖書の読み方などもレクチャーする献身活動をしております。こちらもチェックしてください。ノンクリスチャン大歓迎です。というよりも、いらっしゃっている方はほぼ全員ノンクリスチャンです。皆聖書が面白くなり、イエス様の大ファンになっていきます。どんなときにもイエス様がそばにいるのは心強いものです。特に、聖書は、読み込むための要領をつかむまでは、なかなか最初はとっつきにくいので、自分自身とイエス様との個人的な関係性を結んでいく方法について、今のあなたにぴったりの聖句などをご紹介しながら、12年の歳月の中で培ってきた、心理カウンセリングやコーチングの技術をベースに丁寧にレクチャーいたします。聖書で禁じられている占い師としての活動は完全にやめましたが、心理学カウンセラーや、コーチとしての技術は健在です。今はむしろ聖書の御言葉に基づいて活動をしているので、以前よりもさらに力強く人生をエンパワーメントされるセッションになっています。こちらは特定の料金は定めず、献金形式となります。 https://vrchurch.online/personal_session

石川有生さんとの出会い

佐々木満男先生のご紹介で、聖霊の満たしによって熱く燃え、「会いに行くキリスト教会」という全く新しいコンセプトの活動をされている石川有生牧師にお会いした。全力投球で生きる熱量が凄すぎて、「人生とはすなわち全力試合である」ということを教えていただいた!クリスチャンの世界にもイチローがいるんだなと、しみじみ主の証しを感じた。日本のクリスチャン世界の未来は明るいぞ。 https://ainiiku-church.com/ 石川有生(ともみ)さんの、100パーセント与えることだけにコミットした生き方は、十字架を背負う覚悟があってこそ。有言実行の行動力と、想いを形にするための基準の高さに、ただただ脱帽。1ミリも我が身を振り返ることなく、ただただ主イエスキリストに、そして出会う人々のために、献身する姿は、まさに「生き方に圧倒される」という言葉に集約されます。主イエスキリストに仕える兄弟姉妹としてただただ頼もしい。イエス様の福音を、多くの人に、ぜひ彼の口から聞いてほしい。そのように心から応援したくなる、ものすごくハートがまっすぐで、優しく、類稀なる主イエスキリストへの愛と熱意を持った方です。彼は特にノンクリスチャンの方々に対して、あるいはイエス様のことを好きだけれど、なかなか教会にいく機会がないと言う方に、イエス様のことをもっと深く知ってほしいという強い思いにかられて、全国どんな場所でもフットワーク軽く飛んでいくという、とんでもなく高い基準で動かれている方です。こんな生き方を我が身の利益や保身を一切考えずにできること自体が、イエス様が今も生きておられて、彼とともに、そしてあなたとともにおられる証です。あなたにもぜひ彼の口から、福音に素晴らしさを聞いてほしいです。福音はあなたに永遠の生命を与えます。神様からのプレゼントです。彼の想いが福音を必要とされる人の元に届きますように。彼を応援するものの一人として、そして主イエスキリストを愛するものの一人として、心を一つにあなたが福音と出会われ、魂の安らぎを得られるように心から祈りたいと思います。そしてこのような素晴らしい青年を召して、日本中の多くのクリスチャンを励まし、また彼の証を通じて福音を信じた方々に、永遠の生命を与えてくださる創造主に、深い感謝と賛美を捧げます。アーメン!

里山自然崇拝と聖書のエデン論

つまり日本的信仰と聖書的信仰の最大の接点は、エデン論になるんだな。ようやく繋がった。 里山自然崇拝と、聖書的信仰は、一向に矛盾しないので、結局両立できるね。しかもこれは確かに里山自然崇拝を持つ日本人にしかできないし、わりとキリスト教世界に与えるインパクトも大きい。そもそもキリスト教自体が砂漠の宗教だからね。ようは人間は主イエスキリストによって救われることで、エデンの園における罪なき時代のように自然と一体化し、エコロジーに目覚めていくということ。むしろ里山自然崇拝と聖書的信仰はエデン論や千年王国論において互いに補完し合う関係にあるね。 パウロ風に信仰告白をすれば、「わたしは里山自然崇拝を恥としない。なぜなら、創造主が造りたもうた被造物世界に、御心にかなう大調和をもたらすからです」という風になるんだろうね。 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」‭‭ローマの信徒への手紙‬ ‭1:16‬ ‭新共同訳‬‬

日本における里山自然崇拝

日本人が普遍的に持っている信仰って、戦前の国家神道の延長にあって天皇陛下が人間宣言をした後の神道や、檀家制度によって形骸化した仏教(いわゆる葬式仏教)でもなく、おそらくトトロや平成たぬき合戦ぽんぽこのように、ジブリの世界の中でしばしば描かれるような「里山自然崇拝」なのだろうと思う。つまり信仰告白という焦点でシンプルに言えば、日本人の信仰告白とは「里山自然崇拝」で、それにともなう弁証学は主に「エコロジー論」がベースになると思う。確かにエコロジー論を弁証学に強力に組み込めるのは世界中を見渡しても日本的な里山自然崇拝において他にないだろう。そしてそれは世界に誇る弁証学になる。つまり日本的な信仰を守るための弁証学自体にそもそもあまり神道的な枠組みや仏教的な枠組みを変に入れるよりも、むしろ里山自然崇拝からのエコロジー論から入った方が実際の日本人の信仰のリアリティに近いものが言及できるのだと思う。TPP脅威論や、種子法廃止に関する議論、食の安全性の問題などは、ある意味日本的な里山自然崇拝からくる日本的信仰を守るための、弁証学的な当然の帰結と言えるのかもしれない。逆にいうともしキリスト教的な弁証学の接点でいうと、変に神道や仏教という側面から接近していくよりも、むしろ内村鑑三のように里山自然崇拝から入っていったほうが、むしろ思惟への奉仕はより噛み合うようになるんだと思う。その意味で内村鑑三の無教会主義や、天然こそが教会であるという思弁は、確かに非常に理にかなったものであると言える。そもそも日本のキリスト教世界は、日本が仏教や神道の国だと思っている段階で、どこか間違えた認識をしているのかもしれない。正確には、ジブリ的な世界に対する思惟への奉仕をキリスト教世界から考えていくべきなのかも?確かにその仕事をしたのは、内村鑑三だからね。そしてキリスト教的世界観と、里山自然崇拝との接点は、創世記における天地創造の物語や、エデンの園における天と地と人の調和というテーマになると思う。人類が無垢でまだ罪を犯さず、神および自然と調和していた時代の話。確かにこれはフランシスコザビエルは気づかないわ。日本の信仰を神道や仏教という窓口から入っても、信仰の実態は見えない。外側の視点からは一向に見えないテーマ。だからこそ内村鑑三は、天然という概念を日本のキリスト教普及において重要視したわけか。確かに「里山自然崇拝」といったほうが日本人の信仰形態としての一貫性が出てくるし、信仰告白の内容としては最もふさわしいかもしれない。

SNSが持つアフォーダンス―信仰告白

ある種、SNSってそもそもヘレニズム的な自己表現の文化(人間性回復運動/ルネッサンスの文脈)なので、結果的に信仰告白の場となるアフォーダンスがあるんだよね。書けば書くほど、ログがたまるほどに知らず知らずのうちに、自分の信念や信仰が、他者から見ても明らかになっていく構造。それゆえ、結果的に、何故自分がそれを信じるのか/あるいはなぜそれではないものを信じないのかという弁証学が発達していくことになる。SNSは、信仰告白や弁証学的な思弁に慣れていかないと、実は結構心理的な負担が大きくなるツールだとも言える。結局当たり障りのない無難なことしか書けなくなるし、最終的に読む専門でいいかということになる。もしくは自分と違う信仰や信念を持つ人をブロック/スルーして、エコーチェンバー化(カルト化)していく。逆に信仰告白や弁証学という認知フレームがあると、自分と違う信仰や信条を持つ人に対して寛容さを持つことが可能になるし、初めてそこで「汝の敵を愛せよ」という思想に基づいた、思惟への奉仕、証、無償の愛が生まれてくることになる。

パーソナルな神様

ある意味日本においても、仏教や神道といった伝統的宗教が、国際化の波の中でシンクレティズム化(スピリチャリズム化)し、その中で生まれたニューエイジ的 信仰を通じて、「共同体の神」ではない「私にとってのパーソナルな神様」ができた。それによって、「個人の信仰に対する(自己批判を含む)批判の余地」が生まれたわけだ。そして、そこにおいて初めて弁証学的な思弁の可能性が生まれてくるわけだ。そして弁証学的な思弁をしっかりと突き詰めていくと、結果的にいかに新旧両訳聖書の世界が神学的によくできているかという真実に行き着くことになる。結局ユダヤ教のパリサイ人であったパウロも、もともとは(現在のニューエイジ と非常によく似ている)マニ教であったアウグスティヌス も、同様の理由から、クリスチャンとして回心することになったわけだ。

ニューエイジ的信仰によって伝統宗教がパーソナルな宗教に変わったことで

ある意味、日本人の信仰形態の一つとして、仏教や神道といった伝統的宗教から離れ、個人的な信仰をベースとしたスピリチュアリズムや、ニューエイジ 的信仰という収斂に至ったことで、ようやく正当にその信仰が外部から批判されうるポジションになったのだと思う。そういった自分自身の信仰形態をメタ認知する文脈が存在しなかったからこそ、オウム事件のような問題が起こっていったのだと思う。宗教的信仰をすべからくカルトと考える日本独特の風潮は、逆に自らの信仰形態を批判的に認識できないという意味で、とても危険なことだなと感じる。信仰を持っていない人は、常にその時代の空気に振り回されることになる。

日本人が宗教嫌いな理由 ―「信仰告白」と「弁証学」について

日本人が宗教嫌いな理由に、オウム真理教事件に代表されるカルト問題や、宗教特有の組織的な問題(人間関係の問題や、力によるコントロールなど)を上げられることが多い。しかし、本質的によく考えてみたら、「信仰告白」と「弁証学」という文化がないからなんだわ。 「信仰告白」とは、「自分がどんな神を信じているかを表明すること」であり、「弁証学」とは、「なぜ自分がその神を信じているか、逆に他の神をなぜ信じないのか」を弁証することを意味する。 そもそも日本的な汎神論、多神教的な信仰文化において、「信仰告白」をしたところで、同じ日本人でも信じている神様はバラバラだし、そもそも自分一人の信仰においても信じている神は常に移ろう。それこそ仏教だったり、神道だったり、時にキリスト教だったり、自然崇拝だったり、ニューエイジだったり、あるいは占いだったり、宗教をメタ認知してアカデミックにとらえる文化人類学的な視点だったり、時に一切の神を否定する共産主義的思弁だったりと、定まることは無い。たとえ移ろう信仰の対象を、告白をしたところで、そもそも信仰のあり方がケースバイケースの御都合主義でひとつの信条に定まっていないので外部からの批判の対象になりえない。それゆえ、弁証学的な思弁を持つ必要もない。そして、そもそも信仰告白をする理由も必要もないので、たとえ、どんな信仰を持っていても他者から批判されるなんてことも一切ない。むろんキリスト教世界が、その長い歴史の中において自らの信仰形態について自問自答し、その中で生まれてきた自己批判からフランス革命のような市民革命、ニューエイジ文化における反戦運動や、ポストモダン/ポストコロニアル思想を生み出していったような、自己批判するダイナミズムも、日本的な信仰文化においては存在しえない。 ある意味こうした信仰文化である以上、どう考えても、日本においては「私の宗教」を持たない方が、日本に住む上で圧倒的に安全圏内の中でいられるわけだ。 それゆえ、もし自分がある特定の「宗教」を信じるとなると、話が一転する。その瞬間から、それ以外の神を信じることが形式上禁忌となるわけで、その時点から「信仰告白」をしなければならなくなる。そして、「信仰告白」をすれば同時に、なぜ自分がその神を信じるようになったかについて、外部からの批判にさらされ始めるので、「弁証学的な思弁」を身に付けなければならなくなる。 実際にその神によって個人的に救われたというとても強い体験的な理由がなければ、わざわざこうした「信仰告白」や「弁証学的な思弁」を身に付けることは、わずらわしいことであるし、そもそも「信仰告白」をした時点で批判にさらされ始め、人間関係におけるリスクでしかあえり得ないので、わざわざそんなめんどくさいことをしたくないというのが、大きな理由になるのだと思う。 日本が近代化の中で、明治時代に国家神道を制定したのも、ある意味諸外国の一神教的な信仰から、鎖国以外の方法で自らの国体を守るために、「信仰告白」と「弁証学」のフォーマットを作らなければならなかった。それゆえ、仏教を廃し(廃仏毀釈)、「私は天皇陛下を信じます」という「信仰告白」のフォーマットを制定し、その上で、いかに天皇陛下が素晴らしい存在であり、そのほかの宗教よりも優れているのか(国家神道の場合は、万世一系で、世界の中で最も古い歴史を持つという神学的背景を強調する)という分かりやすい信仰形態を、当時の政府が準備し、教育に組み込んだ(教育勅語)ということ。 戦後、天皇陛下の人間宣言によって、あくまで象徴に過ぎず、すべての国民を統合する「信仰告白」の対象ではありえなくなり、また戦前の「弁証学」そのものが、日本を狂った方向へ暴走させた詭弁ということになり、国家神道そのものはGHQによって解体された。 それゆえ、戦後は「信仰告白」と「弁証学」の両方を持ちえない独特な宗教環境の中で、人々が共通して信じうるものが「経済的な繁栄」というところに落ち着くことになった。しかしこの経済的な繁栄という神話が終わろうとしている今、あらためて、自らの信仰をどこに置くべきか、各々が思い思いに自分なりの答えを探していて、それが日本特有のスピリチャリズムやニューエイジ文化に繋がっているのだと思う。 そして、逆に「信仰告白」と「弁証学」を伴わない、汎神論優位主義の主張は、その構造上どうしても稚拙な「キリスト教は、戦争の宗教であり危険な宗教だ」といった、「鬼畜米英」といっていた時代と大して変わらない偏った先入観に陥ってしまう。 日本がSNSや、今後AIによる翻訳技術の発達などで、言語の壁を超えていったときに、まずでてくる信仰上の問題は、こうした「汎神論優位主義」という「井の中の蛙大海を知らず」という問題だ。このことについてしっかりと向き合っていくことはとても大事だし、いずれにせよ自らの「信仰告白」や「弁証学」抜きに、「日本特有の多神教優位論」や、「日本的な信仰形態に近いインディアンやアイヌの文化を持ち出して、汎神論的な自然崇拝こそ素晴らしいと誇るような、よくある文化的色眼鏡」は、異文化を理解するための国際的な感覚に欠け、決して平和的な思想からは程遠いのではないだろうかと思う。 海外に留学して、宗教的な議論を交わして、日本がいかに素晴らしい国かをよく知って、進んで神道や仏教を調べて、自らの信仰を明確にする人が実際に多いように、やはり自身の信仰をメタ認知することはこれからの時代はますます大事なものになるのではないかと思う。 まぁ、そもそもこうした個人の「信仰告白」やそれに伴う「弁証学」といったことを、個人個人が発信できるような時代になったということで、おそらくこれ自体は世界中で起きてくることだし、特に、世界の中でわりとガラパゴス的に隔離されてきた日本でも、SNSの台頭や、今後のAIによる言語の壁の崩壊によって、こうした流れは今後増えていくのではなかろうかと思う。 と当時に、ある意味日本人がその長い文化の中でずっと避けてきた「信仰告白」や「弁証学」から目を背けるひとつの弱さに向き合わなければならない時代が近づいてきているといえるのではないだろうか。 シンプルにいうと「信仰告白」ってめんどくさいっていうことなんだなと思う。「信仰告白」してしまうと、わざわざ人に説明するためのコミュニケーションコストが増大する上に、そもそも日本においてそれをする必要もメリットもないということ。民族、言語、宗教が同じ国土内で一致している稀有な国だからね。同じアジアでもシンガポールのように、多種多様な人種や宗教がある環境とはやはり大きく違うんだよね。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/単一民族国家それが今後SNSとAIの進化による言語の壁の崩壊で、バーチャル空間はどんどんシンガポール化していくからね。ここが今後の日本の信仰の危機とも深く関係していくと思う。すでにそれは日本のニューエイジ 化で現れ始めている。

リバイバルとティッピングポイント

リバイバルって、いうなればティッピングポイントを超えることなんだよな。ティッピングポイントとは、ある閾値を超えると、一気に全体に広がる現象における、その閾値のこと。口コミマーケの基本的な理論の一つ。最近のタピオカブームなんかもこれだね。もちろんクリスチャニティは本質的に一過性のブームではないので、一般的な流行とは異なるのだが、ただ、これまでの数々のリバイバルもどの時代も割と数年間の短期間に起こっている。もう少し先にはなると思うが、おそらく5-6年の間にクリスチャニティはこのティッピングポイントを超えると思う。https://makitani.net/shimauma/tipping-point

メイヴン・コネクター・セールスマン

これからの時代、確実にクリスチャニティが広がっていくのは、こういったマーケティングの本からも明らかである。マルコム・グラッドウェルは、口コミの伝播の仕組みをに明らかにしたが、「インフルエンサー」という言葉を作ったのも彼。インフルエンサーには三種の人物像があり、メイヴン(データーべース的な役割を果たす人)、コネクター(浅く広く人をつなげていく人)、セールスマン(分かりやすく伝える人)とがある。3種の人物像によって成り立つ少数のインフルエンサーによって、ティッピングポイントというある段階を超えることで、一気に口コミが広がるという理論を作った。メイヴンとは神学者のことであるし、コネクターとは超教派の活動をしている人たち、セールスマンは宣教師ということ。つまり、この3種の人がエクレシアで集い始めることで、ティッピングポイントを超えると一気に日本中に広がっていくだろうということが容易に想像がつく。 急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則 (SB文庫) マルコム・グラッドウェル https://www.amazon.co.jp/dp/4797338121/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_8IKvDbFD128D8?fbclid=IwAR2oYXF1tA4n0ocYBrQ7Q3m1hDSkrRPLJ5e3XisomU4dzOPVo_-al8nh4ow

プレモダン的信仰形態からの脱却

日本人は宗教と聞くとすぐにアレルギー的反応を示す人が多いが、そもそもこういう西洋世界における信仰と知性という共立を知る機会がなく、なおかつ檀家制度によって実質的に神学的な構造を持たないアニミズム的信仰、もしくは多くの場合それすらもない無宗教になっていったわけで、単なる宗教に対する無知でしかないなと深く実感する。そのわりにニューエイジ的なもの、いわゆるスピリチャル、自己啓発に対しては抵抗感なく入っていく。無論、それが現代的な宗教だということに気づいていない。自分が宗教のど真ん中にいるにもかかわらず(そしてそれがわりとプレモダンな枠組みの信仰形態をとっているにも関わらず)、宗教を否定するという謎の構造になっている。洗練された神学的思考を持たない人の人生は、一向に洗練されることは無いし、無知蒙昧の迷いの中に生き続けることになる。その意味でも宗教的な世界をしっかりと学ぶことは、人生の基礎になるとても重要な土壌になるのではないだろうか。そして、イエスキリストは、すべての人に、信仰のみによって救ってくださる福音を伝えてくださった。自分の功(いさお)に頼らず、信仰のみによって、優れた神学的構造を自分の人生の中に取り入れられる。これほどの恵みはないと、いろいろな宗教を研究してきたからこそ深く実感する。福音はすべての人のためのものなのだ。

日本特有のポストモダニム

汎神論的世界観を離れて、一神教的な世界を受け入れると、デカルト、ベーコン、パスカルなどの近代合理主義の骨格がどのようにキリスト教世界から生まれてきたかが見えてくる。日本の近代化は外発的なものだったが、内発的な近代化は、そのベースにある汎神論から一神教への世界観のメタ認知とシフトが欠かせないと深く実感する。神を否定して科学や合理的思弁が生まれたのではなく、神を信仰するゆえに、無知蒙昧を廃して、科学や合理的思考が生まれてきたという内発的な近代化のリアリティを知ることは非常に大切だ。汎神論的な世界からは決して科学的思考は生まれてこないし、あくまでそれは外発的なものにすぎない。汎神論的な世界をベースにして、科学のふりをした疑似科学をオカルトという。こういう視点からオカルトというのは科学とキリスト教の両面から批判される。特にキリスト教世界から否定されるオカルト性については、日本の汎神論的文脈からはピンとこないが、まずは聖書を読んで、そこからベーコンやデカルト、パスカル、カントなどの著作を読んで、理性とは何かということをしっかりと踏まえなければ、決して科学とも合理主義とも呼べないオカルト的な無知蒙昧に陥ってしまう。これがポストモダンでもなんでもなく、単なるプレモダンでしかないということ。ポストモダンのふりをした、単なるプレモダニストによるモダン批判、ポストモダン礼讃は、無知や不勉強でしかない。つまりポストモダンを語るならば、聖書はちゃんと読んだ方がいいし、キリスト教神学はしっかり学ぶべきだと思う。聖書のパウロ書簡は無論のこと、アウグスティヌス 、トマスアクィナス、ルター、カルヴァンなどは最低限抑えるべきだ。その上でシュライエルマッハーやカールバルト などを読むべきだ。プラトンやアリストテレス、ベーコン、デカルト、パスカル、カントだけを読んでその延長で西洋文明をわかったつもりになって、ニーチェ、ハイデッガー、フーコーや、ドゥルーズ、デリダ、フロイト、ユングなどのポストモダン/ポストコロニアル的視点から近代合理主義に対する批判を加え、ポストモダン的な視点に立ったつもりになるのは、単なる無知蒙昧としか言えない。日本のアカデミズムには、そもそもアカデミズムのベースとなる近代合理主義の土壌となったキリスト教神学が決定的に抜けていることを、自覚しなければいけないと思う。隣人たちが持つ一神教的な世界への理解抜きに、汎神論優位主義に立って物事を考えるのは島国根性以外の何者でも無い。日本人が総じて占いや迷信が好きというのは、近代化が内発的なものではなく、外発的なものであったということ。そして同時に、それはポストモダン/ポストコロニアル的な視点から礼賛されるべきことなのではなく、単純な無知ゆえの恥ずべき反知性主義でしかないということ。日本に民主主義がなかなか根付かないのも、結局のところこういう外発的な近代化という側面が大いに関係していると思う。そうした意味でも日本におけるリバイバルを通じて、真の意味で日本人の思惟の段階を、内発的近代化というこれまで何百年間も見落としていた落し物を私たちは拾うことになると思う。わりと自分が受けた大学教育が、ポストモダン/ポストコロニアル的な文化人類学等の文脈を持った教授陣だったので、キリスト教神学を学べば学ぶほど、井の中の蛙大海を知らずという状態だったんだなとしみじみと感じる。ポストモダン/ポストコロニアル的な教育を受けていなければ、占い師になろうなんて思わなかったし、ニューエイジャーの騎手になることもなかったと思う。教育ってものすごく大事だなと思う。海外留学をしていれば、こうしたことは防げただろうなとしみじみと思う。知性だけでなく、信仰を持つことがいかに大事か、それが相互に深く関係しているということを、大学を卒業して12年経って深く実感する。知性と信仰は相反するものではなく、むしろ相互に深く共立する関係にあるのだと思う。

360度どこからどう見ても、明らかにリバイバルが起きつつある。

やはり360度どこからどう見ても、明らかにリバイバルが起きつつあるね。色々な土壌が確実に準備されてきている。この方向で進んでいって間違いがないことを、歩めば歩むほど確信する。 十字架を背負い、義に燃える兄弟姉妹との出会いが着々と主によって準備されている。より多くの人に知ってほしい、いま始まってきている、魂が燃え上がるような、この熱い流れを。 感覚的に、これから若者の間に起こってくるクリスチャニティ ムーブメントって、どうも熱くてカッコいい感じになっていく気がする。リバイバリストたちの思いって凄くて、生のリアル、途方も無い熱量があるんだよね。 クリスチャニティ ムーブメントの勃興のストーリーって、映画みたいになるんじゃ無いかな? なんか熱いんだよね。やたらに。

家族のように付き合える兄弟姉妹の存在

福音宣教は、なによりも社会の十字架を背負って人のために無償の愛で生きることが第一義で、次いで思惟への奉仕。そして証という3つの要素が大切だなと思う。ようはクリスチャンとして肩の力を抜いて、自然体で生きることだな。肩の力が抜けたのは信仰を共にする兄弟姉妹のおかげだな。今の時代まるで家族のように付き合える兄弟姉妹の存在は非常にありがたい。主の恵みだなと感じる。知を共有するのには限界があるけれど、信を共有するということは、家族以上に家族になれるということなんだなとしみじみ感じる。

クリスチャンにとっての祈り

クリスチャンにとっての祈りとは、何もせずただ主に祈るということではない。社会の十字架を背負い、人を助けることもまた主への祈りであり、福音宣教自体もまた祈りである。すでに十字架によって救われたクリスチャンは、救われるために何かの追加の行いが必要なわけではない。すでに主イエスキリストの十字架は、私たちの原罪からの救いについてすべてを完成させたのだ。だからこそ、すべてのクリスチャンの世界への献身は、すべからく祈りだといえる。祈りとは決して静かに主を黙想することではなく、社会の十字架を背負い命がけで活動することも大切なクリスチャンにとっての祈りだといえる。